16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ

帰るところはどこ 1528~29年 フィレンツェ

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〈ニコラス・コレーリャ、ジョルジョ・ヴァザーリ、ミケランジェロ・ブォナローティ〉

 1528年の冬、フィレンツェのミケランジェロの工房は大繁盛である。
 サン・ロレンツォ聖堂の礼拝堂、それに合わせて依頼されたラウレンティーナ図書館の設計案も完成し、いよいよ工事にかかろうというところである。依頼主のメディチ家は膨大な数の書物を所有し、かねてから一部に公開していた。新しい図書館はそれを発展させたものである。
 また、フィレンツェ政庁から全面的に設計を委託された市の防御壁、防御塁はすでに工事が半ばを越えた。このような方面の仕事は常に焦眉(しょうび)の急を要するのである。

 またローマからの依頼でいえば、ずっと懸案になっている三代前の教皇ユリウス2世の廟所設計も放っておくわけにはいかない。教皇本人とやり取りをした「モーゼ像」については問題がなかったが、その他のデザインはなかなか遺族の了解が得られなかった。遺族の筆頭はウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレである。この因縁めいた仕事は、まだ時間がかかるようだ。それに加えて、現教皇のクレメンス7世からは新たにシスティーナ礼拝堂の壁画制作を依頼されるようだ。「ようだ」というのは、まだミケランジェロがローマに赴く余裕がなく、正式な依頼を受けていないからである。

 依頼があっても、すぐにはかかれないだろう。

 ミケランジェロの工房から画家サルトのところに「留学」していたジョルジョ・ヴァザーリは、久々に工房に帰ってきて、その慌ただしさに目を回している。彼はもう17歳、青年の顔つきになっている。

「うわぁ、これはすごい状態だね。慣れるのに相当時間がかかりそうだ」とジョルジョはため息をつく。
「そうだね。一段と忙しくなったよ」とニコラスは微笑む。
「ニコラス、一緒に昼でも食べない?」とジョルジョが誘うので、ニコラスはパンを持ってジョルジョと外に出た。

 広場の片隅に腰かけて、二人はパンをかじる。ジョルジョはサルトの工房で日々絵を描いていた話をはじめる。
「すごく勉強になったよ。フィレンツェで美麗な宗教画を描かせたら、今はあの人がいちばんだと思う」
「ああ、ぼくもそう思うよ」とニコラスはうなずく。

 ジョルジョが付いていたアンドレア・デル・サルトはここフィレンツェの画家である。宗教画を主に描いている。その画は構図をしっかりと取り、光と影の使い方も抜きん出て上手い。描かれる人物は端麗な姿である。
 彼は10年前、1518年から19年まで、フランスに招かれ滞在していた。
 そこには彼の敬愛する芸術家がいた。

 レオナルド・ダ・ヴィンチである。
 彼がフランスで晩年を過ごしていたとき、サルトはフランスにいたのだ。サルトがフランス王に招かれたのも、ダ・ヴィンチが推挙したからであろう。

 その経歴からも推してはかれるように、サルトはレオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受けていた。そのサルトの工房で、ジョルジョは絵画に存分に浸ってきたのだ。

「もちろん、フィレンツェの防御のために、いろいろな策を講じるのは必要なことだと思うよ。でも、今の工房はまるで大工や石工の集まりみたいだ。絵画や彫刻の工房じゃない」とジョルジョが言う。
 ニコラスは考え込む。
 確かにジョルジョの言う通りだ。
 最近の工房では建築関係の仕事が主で、絵画の仕事はほとんどない。彫刻については依頼があるが、保留になってしまっているものが多い。
 建築という仕事をどうとらえるかということなのだろう、とニコラスは思う。

 街も人の手が入るなら、それ自体がひとつの大きな創作物だ。それはとても膨大な作業と時間を必要とする。一瞬だけを切り出せば、それは石を運んだり、磨いたり、土を掘ったり、組み上げたりという地味な作業に他ならない。絵画のように目に見えて出来上がってはくれない。これが芸術に値する仕事なのかと、訝(いぶか)る者も出てくるだろう。
 ニコラスはジョルジョの気持ちがよく分かる。ニコラスはもともと絵を描くことが好きで、今でもそれは変わらない。今のところその欲求は個人的にデッサンしたり板絵を描くことでまぎらわしている。
 ただ、師匠ミケランジェロは平面より立体を好んでいるし、さらに大きなものを志向している。そこを理解しないと今の工房には少し馴染めないかもしれない。

「そうだね、ぼくも実を言えば絵を描くほうが好きだよ。でも、ジョルジョ、すべてはかたち(Figaro)なんだと思うんだ」
「かたち?」とジョルジョが不思議そうな顔をする。

「絵はね、平面だろう。でも、それもかたちなんだよ。みんな奥行きを出そうとして人物の大きさを変えたり、背景をあえて自然に置いたり、光や影を使って《実際にあるもの》に近づけようとする。それはもう、かたちなんだ。絵画でも彫刻でも、あるいは街丸ごと一つ創るのでも」

「そうか、ぼくはそこまで考えていなかったな。きみの言うことはよく分かるよ。ただ、人は万能じゃない。師匠のようにね。絵を好む者、彫刻を好む者、建築を好む者というように分かれてしまうのは自然じゃないかな」とジョルジョも考え込む。


 その話を通りすがりに聞いている人間がいた。
 彼らの師匠、ミケランジェロ・ブォナローティだ。座り込んでいる二人を見て声をかけようとしたのだが、不意に背を向けてしばらく弟子の会話に耳を傾けていたのだ。
 背を向けたまま、ミケランジェロは腕組みをして天を仰ぎ、しばらく考え込んだ。それから静かにその場を去っていった。

 数日後、二人の弟子は工房で師匠に呼び出された。工房の中も外も資材置き場のようになっていて、足の踏み場もない。

 そこにあるのは大理石などの石材ではない。
 栗や樫などの硬い木材、麻くずがぎゅうぎゅうに詰められた大きな袋がうず高く積まれ、外には牛や馬の糞を乾燥成形したレンガが大量に並んでいる。もちろん、防御壁の近くに広い置き場はあるのだが、いったんここに持ち込まれるのだ。

 通常は芝をはがしてきたり、細く柔軟な木を束にしたものを柵として使うのだが、それではとても間に合わない。したがって、代替としてさきに挙げた材料を使う。工夫をこらした資材である。

 しかし、ジョルジョの言う通り、絵描きを目指す人がここに来たら、間違えたと勘違いして帰ってしまうだろう。

 ニコラスとジョルジョはそれらの資材をかき分けながら、ミケランジェロのいる彫像の部屋まで行く。すでにサン・ロレンツォ聖堂礼拝堂に据える作品が二体着手されていた。二人が現れたことに気がつくと、ミケランジェロはノミを丁寧に拭き、箱に納める。そして、二人を前に話し始める。

「二人にちょっと遠出してもらおうと思う」とミケランジェロは話を切り出す。二人はピンと背筋を伸ばす。

「まず、ジョルジョには、ローマに行ってもらう。教皇に紹介状を書いておく」

 ジョルジョがパッと目を輝かせる。そして、ニコラスの顔を見る。ニコラスは、こくりとうなずいてジョルジョを見る。

「教皇クレメンス7世から、システィーナ礼拝堂に壁画を描いてほしいと内々に打診があった。ただ、まだ受けるかどうかは決めていない。ニコラスがこの前ローマに行ったとき状況は見てきてもらったが、教皇がどのようなイメージを考えているのか、おまえに確かめてきてもらいたい。お前はサルトのところで、たくさん聖画に触れてきたから、デッサンを起こすのはさほど難しくないはずだ。ついでにラファエロの絵も見て参考にしたらいい」

 ミケランジェロの話をジョルジョはうっとりして聞いていた。ミケランジェロが話し終わってもまだぼうっとしている。ニコラスが肘で軽くジョルジョをつつく。ジョルジョはハッとする。
「はい! わかりました」

 ミケランジェロはうなずくと、今度はニコラスの方を見る。
「ニコラス、おまえは俺と一緒にフェラーラ行きだ」
 ニコラスは目をしばたいている。なぜフェラーラかよく分からないからだ。

「フェラーラのアルフォンソ・デステ公から、政庁に依頼があった。今回のフィレンツェの防御にまつわる設計・建造・整備について、フェラーラにも参考になると思うので聞かせてほしいという。逆に政庁からはフェラーラの城壁や大砲の配置などを視察してこいとのことだ。これは公的な訪問になる」

 ニコラスは微笑む。そして、師匠に尋ねる。
「ぼくらだけならばともかく、師匠も出てしまって、ここは大丈夫なんですか」と尋ねる。

「そうなんだよ、俺は早々にトンボ帰りすると思うから、視察なんかはお前がやってくれ」とミケランジェロはニヤリと笑う。

 フェラーラか……とニコラスはふっと思う。自分が生まれ育った地。懐かしいエステンセ城、4つの塔に囲まれ、水路が取り囲む美しい景色。ニコラスは何度もその光景を描いていたので、今でもそらで正確に思い浮かべることができる。それは城だけではない。パーリオ(競馬)で賑わうアリオステア広場、少し足を伸ばせば雄大なポー川がある。
 そしてそこにいた、そこにいる人たち。
 立派な髭をたたえ、堂々とした体躯のアルフォンソ・デステ公爵。優美な姿ながら気さくな性格だったルクレツィア妃。ぼくの乳きょうだいだったエルコレ、イッポーリト。
 彼らはもう成長して、ぼくには分からなくなっているかもしれない。

 そこでふっとニコラスは、母の顔を思い出そうとする。しかし、その顔は少しぼんやりして、はっきりと頭に浮かんでこない。ニコラスはそのことに突然気づいて愕然とする。絵に描くことが少なかったからだろうか。

 いや、思い出すまいとしているうちに、その像まで薄れてしまったのだろうか。
 いちばん側にいた母親なのに……。

 ふっとニコラスは工房の天井を見上げる。

 ぼくは、ぼくの帰るところはどこなのだろう。もし、それがあったとしても……。

 ぼくは、そこからどれぐらい離れてしまったのだろう。

 ニコラスは自分が迷子になってしまったような寂寥(せきりょう)に襲われていた。
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