16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ

新しい道へ 1529年 フェラーラ

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〈ミケランジェロ・ブォナローティ、アルフォンソ・デステ、ニコラス・コレーリャ、ティッツィアーノ・ヴェチェッリオ〉

 フィレンツェからやってきたミケランジェロ一行は滞在の2日目、フェラーラの防御壁(市壁と門)やデステ家自慢の大砲を収めた倉庫などを視察した。大砲はアルフォンソ・デステの最も誇りたいものである。アルフォンソ自身が今で言うエンジニアとなって改良にいそしみ、平時も整備に余念がない。
 確かに倉庫は圧巻だった。いったい何門あるのだろう、とミケランジェロは思う。これらがカンブレー同盟戦争で大活躍したのか、と感嘆する。
 兵器はときに、たいへん美しい。
「やはり、課題は耐久性と軽量化です。重くするのは楽です。据え置く場合は重い方がいい。ただ、持ち運びが出来ないと意味をなさないことも多い。軽量化というのが難しい……」
 とうとうと語るアルフォンソが邪気のない子どものように見える。ミケランジェロは威厳ある公爵の愛すべき点を見いだして感心する。ニコラスにとってはかつての見慣れた光景だったが、他の弟子は怖がって、倉庫の中には入らなかった。突然砲弾が飛び出してぶつかってしまったら……と思ったのだろう。

 フェラーラの防御の備えについては、主だったものを見た。

 ミケランジェロは食事の後、アルフォンソに相談したいことがあると告げた。アルフォンソは何の件か見当がつかなかったものの、ミケランジェロを別室に案内した。その時、ミケランジェロは広間にあるアルフォンソの肖像画をちらりと見た。
「あの、公爵の肖像画は本当によい出来です」
「あなたのような大家に何度も褒めていただけて、きっとティッツィアーノも喜ぶでしょう。伝えておきますよ」とアルフォンソは答える。
 ミケランジェロは意味ありげにデステ公を見る。そして言う。

「実は、ニコラスをわたしの工房から出そうと思っています」

 アルフォンソはことばが出ない。目を見開いて、眉を上げて疑問と驚きが混ざったような顔になる。少しして、やっと言う。
「あの……ニコラスが何か粗相(そそう)をしたのですか。それとも仕事の能力に問題があるのですか……ソッラがスペインにいる今は、私が彼の後見人だと思っています。なぜだかお聞かせ願えませんか」

 ミケランジェロは困惑するアルフォンソを見て、返って安心した。デステ公爵もまた、口先だけではない、ニコラスの庇護者なのだ。そして、ミケランジェロはなぜ自分がアルフォンソにそう言ったのか説明した。

「わかりました。さっそくティッツィアーノと相談してみましょう」


 翌朝の食卓は豪華だった。豚を炙って薄切りにしたもの、川魚をオリーブ油で焼いたもの、卵を溶いて焼いたもの、野菜の入った塩味のスープ、パンケーキ、チーズなどがテーブルに所狭しと並んでいる。

 ああ、今日は僕たちが客だから豪華だな、とニコラスは思う。

 ニコラスがこの城に住んでいた頃、主の一家と食事をすることはなかった。
 しかし、公妃ルクレツィアのはからいで、子どもたちを一緒に食卓に座らせたことはたびたびある。加えて、厨房の人間が献立について話しているのを聞いたことがあるし、味見させてもらったこともある。
 いずれも、今朝のメニューよりは質素だったように記憶している。

 そんなことをぼーっと考えているうちに食事が終わる。すると、ミケランジェロがアルフォンソに目配せをして、話しはじめる。

「きのう、デステ公に相談させていただいたのだが、ニコラスはフェラーラの視察が終わったら、そのままヴェネツィアに行ってもらおうと思う」

 ニコラスは急に自分の名前が出たので驚いている。
「えっ、どういうことでしょうか」
 ミケランジェロは落ち着いた声で続ける。
「ヴェネツィアのティツィアーノ・ヴェチェッリオの工房に入れるよう、デステ公に頼んでもらう。デステ公にも了承を得た。デステ公はティッツィアーノと懇意だから、まず断られることはないだろう」
 ニコラスは師匠が自分を出そうとする理由が分からない。少し困惑ぎみに、懇願するように師匠に問う。
「師匠、そんなことを伺うのは初めてです。何かぼくに足りないところがありましたか」

 アルフォンソ・デステが間に入る。
「ニコラス、師匠はおまえのことを思ってこの話を出したのだよ」
 ミケランジェロがうなずく。

「ニコラス、初めて会ったとき、おまえは一生懸命にダヴィデ像をスケッチしていた。おまえは無心に描いていたから気づかなかっただろうが、おまえに見られて話をするまで、一週間ほどおまえが描いているさまを見ていた。正直、感動したよ。子どもがこんな絵を描くのかということにも感動したし、おまえがダヴィデを立体としてとらえていたことにはもっと感動した。しかし、今思えば……一番感動したのは、あのダヴィデを美しいと認めて、くる日もくる日も無心に描いて、愛してくれたことなのだ。おまえの行動それ自体がが、何より俺の創ったものを愛して、評価してくれたことに他ならない」

 ニコラスは自分の師匠が詩でも朗読するかのように述べるのをただ圧倒されて聞いている。師匠はなお続ける。

「ただ、おまえが俺についてくれたこの10年あまり、おまえに存分に腕をふるってもらうことがなかった。彫刻の手伝い、建築の雑多な作業しかさせてやれなかった。いろいろ、大人の事情というやつもあった。でも、俺はそのことをずっと考えていた。まがりなりにも、師匠と呼ばせるからには、それなりの修練をさせてやるべきだとずっと思っていた。ジョルジョ(・ヴァザーリ)が絵を描きたいと言っていたのはもっともなことだと思う。なので、おまえも絵の工房で腕をふるったほうがいい。そう思ってのことだ」

 ニコラスはうつむいている。
 ミケランジェロが言うことばをひとつひとつ、頭のなかでかみしめている。

 すべて、ぼくのために……。

 それは痛いほど感じていた。ニコラスに言えることはひとつしかなかった。

「はい、わかりました」



 本当は一度フィレンツェに戻ってみんなにあいさつをしたいとニコラスは思っていた。それはダメだと師匠は言う。祖父のディエゴにはフィレンツェに戻ったらミケランジェロが直接話をしに行くと言う。

 もともと身ひとつで弟子入りしているようなものだ。忘れ物はない。心に残るのは工房の仲間のことばかりだった。

 去っていくミケランジェロ一行を、ニコラスはフェラーラの国境まで送っていった。

「おまえは律儀だから、フィレンツェに戻ったらきっと、ヴェネツィアになど行けないと考えるだろう。こんな形で行かせることを許してくれ」とミケランジェロが言う。

「いいえ、いいえ、こうでもしてもらわなければ、僕はふんぎりがつかなかったでしょう」とニコラスが言う。

「俺もだ」とミケランジェロがつぶやく。

 森の向こうに悠々と流れるポー川が見えてきた。
 ミケランジェロはもうここまででいいと、ぶっきらぼうに弟子に告げる。青い空高く、飛んでいく鳥の姿がいくつも見える。

 そして一行は鳥たちとニコラスに見送られてゆっくりと去っていった。

 ミケランジェロは一度も振り返らなかった。振り返ったら泣き出してしまうと分かっていたからだ。

 ニコラスはまた、寂寥(せきりょう)に襲われている自分に気がついた。彼は上着のポケットから、小さな布切れを取り出した。マルガリータの腕に付いていたものだ。今や、それだけが心の拠りどころのように思えた。

 ニコラスはそれを固く握りしめ、額に押し付けた。しばらくそうしていた。それから再びポケットに納めると馬に乗り、エステンセ城への道を進んだ。

 突然の師匠の別れの衝撃からしばらく立ち直れないかもしれないーーとニコラスは思う。

 そして、
 去りし方、フィレンツェには暗雲が立ち込めようとしていた。
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