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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ
人生の残り時間 1540年 ローマ
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〈イエズス会の修道士、教皇パウルス3世、ミケランジェロ・ブォナローティ、ニコラス・コレーリャ〉
フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルを先遣とする修道士の一団が教皇パウルス3世に謁見したのは1537年のことだった。
(そのくだりについては2章の『巡礼船に乗るために』および前節『地球を東西に分ける線』をご覧ください。2章では「パウロ3世」としています)
ローマを40数年、定点観測で見てきたパウルス3世は、カトリックとプロテスタントの融和をはかる公会議を開催するために、この修道会に大いに働いてもらおうと考えた。現代、「対抗宗教改革」と呼ばれている活動の端緒である。
いくらプロテスタントの地域に枢機卿(すうきけい、すうききょう)を派遣してもそれはローマの権力者にほかならない。キリスト教の精神を具現化し、どこへでも動く人々が対話にあたらなければ効果はない。
のちにローマ入りした修道会の代表、イグナティウス・ロヨラと教皇はその点について対話を行なった。
ロヨラは当初の誓願に含まれる「聖地イェルサレムへの巡礼」を当面断念しなければならないことについて懐疑的だったが、実際にプレヴェザの海戦の余波で巡礼船が出ないのだからどうしようもない。何より、教皇がじきじきに自身らに任務を与えることは願ってもないことなのである。
会士と話し合った結果、教皇の希望に沿って活動をすすめることになった。それがいよいよスタートするのが、1540年のことだった。
このような例がまったく初めてだったわけではない。かつて、中国の元王朝がアジアからロシア地域を席巻した13世紀にも、当時はまだ新しかったフランシスコ会の会士ジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネがモンゴルに派遣されている。ヨーロッパが戦々恐々とした元(げん)の勢力拡大のさまはすさまじい。日本にも1274年と1281年、2度に渡って襲来している(元寇)。善し悪しはともかく、ユーラシア大陸を揺るがす一大騎馬軍団帝国であった。
そのときのフランシスコ会士は外交官のような役割を任されたということで、16世紀とは趣が違う。
ちなみに彼は、世界史の教科書ではプラノ・カルピニとして紹介されている。マルコ・ポーロやイブン・バットゥータ、シルクロードと同じ箇所になるだろう。いわゆる大旅行家である。
13世紀まで時を戻してしまったが、16世紀に進もう。
さて、イエズス会と名付けられた新しい修道会、その会員は教皇の指示に基づいて各地に出ていくことになる。ローマにはロヨラを長にした事務局、本部が作られることになる。
プロテスタントの勢力が強い国に赴くのはピエール・ファーブルに決定し、1539年の秋から長い宣教の旅に出発した。彼はこの旅において、ヨーロッパ中をくまなく回ることになる。
(このイラストは改築後のものです)
教皇パウルス3世は教皇庁の執務室を出て、外の空気を吸おうと広場に出た。石畳をゆっくりと踏みしめて、サン・ピエトロ聖堂をあおぐ。
「やはり古い……在任中に工事が始められればよいのだが」
パウルス3世は聖堂をしげしげと眺めてからまた歩き出した。古くなったのは建物だけではない。改修・改築案を出した設計者も、プランが実現しないうちに逝ってしまう。ブラマンクしかり、ラファエロしかりである。今回はサンガッロに設計案を描かせたところだ。
教皇は次にシスティーナ礼拝堂に向かう。高い石の壁が屹立(きつりつ)している印象である。教皇庁の建造物のなかでは地味な外観である。しかし、華美を廃するがごときこの建屋の中は、絢爛豪華としか言いようがない。広い回廊から美術品で埋め尽くされている。それを見慣れている教皇は、目新しいもののある方へ進んでいく。
「だいぶ進んだようだな、ミケランジェロ・ブォナローティ。もう腰は大丈夫なのか」
そう言われた芸術家は後ろを振り返る。何人かの弟子が一斉に振り向いてひざまずくが、ミケランジェロは会釈しただけだった。
「おかげさまで、だいぶよくなりましたが……ぴーちくぱーちく言う雀には少々うんざりしてますよ。出入り禁止にしてもらえると嬉しいですね」
教皇は苦笑する。
描かれている人間が裸体であると苦情を述べ立てる人間がいることは、教皇も知っている。というより、教皇に直接そのような苦情が来ているのだ。しかし、教皇はミケランジェロが思うように描けないことで作業が中断してしまうことは避けたかったし、裸体が美の象徴であるというミケランジェロの主張にも一理あると思っていた。もう老境のパウルス3世にしてみれば、描かれた肉体はもう得ることのできないものだったから。
教皇みずからがどうしても許せなければ、この巨大な壁画はとっくにご破算になっていただろう。
『最後の審判』は初めは人物(男性)に腰布が付いていなかった。
そして、ミケランジェロも、もう若くないことをよく分かっていた。かれこれ30年前に、『天地創造』の天井画を描いていた、そのときほどの体力はもうないのだ。その証拠というわけではないが、『最後の審判』を制作中にミケランジェロは足場から転落し、ひどい腰痛にさいなまれることとなった。
今描かなければ、この芸術家に描いてもらわなければ、永遠に作品が表に出る機会を失ってしまうかもしれない。
この感覚は、自分の人生の残り時間を悟り始めた人間にしか理解できない。そして、それを悟る機会を与えられるのは幸せなことかもしれない。
今ここでこの人に描いてもらうことが何よりも重要なのだ。
「ああ、ぴーちくぱーちく言う者には、あまり邪魔をしないように伝えておく」と教皇は微笑んで、芸術家が引き続き作業をするのをただ眺めていた。
◆◆
その頃、ヴェネツィアのニコラスはたびたびフェラーラのエルコレ・デステ公爵のもとを訪問していた。そして、エルコレも快く彼の相談に乗っている。
相談の内容はひとつしかない。
ニコラスの母、ソッラをリスボンから連れ戻すこと。もし、今の夫や家族が反対するのであれば、彼らもまるごとイタリア半島に来てもらえないか交渉することである。
ニコラスは母の身を案じていた。
このまま歳を重ねてしまうと、長い移動がいっそう困難になるだろう。そうしたらもう一生会うことができなくなるかもしれない。
ニコラスは自分がリスボンに赴くとエルコレに明言した。
心配なだけではない。
彼はただただ、母親に会いたかったのだ。
フランシスコ・ザビエル、ピエール・ファーブルを先遣とする修道士の一団が教皇パウルス3世に謁見したのは1537年のことだった。
(そのくだりについては2章の『巡礼船に乗るために』および前節『地球を東西に分ける線』をご覧ください。2章では「パウロ3世」としています)
ローマを40数年、定点観測で見てきたパウルス3世は、カトリックとプロテスタントの融和をはかる公会議を開催するために、この修道会に大いに働いてもらおうと考えた。現代、「対抗宗教改革」と呼ばれている活動の端緒である。
いくらプロテスタントの地域に枢機卿(すうきけい、すうききょう)を派遣してもそれはローマの権力者にほかならない。キリスト教の精神を具現化し、どこへでも動く人々が対話にあたらなければ効果はない。
のちにローマ入りした修道会の代表、イグナティウス・ロヨラと教皇はその点について対話を行なった。
ロヨラは当初の誓願に含まれる「聖地イェルサレムへの巡礼」を当面断念しなければならないことについて懐疑的だったが、実際にプレヴェザの海戦の余波で巡礼船が出ないのだからどうしようもない。何より、教皇がじきじきに自身らに任務を与えることは願ってもないことなのである。
会士と話し合った結果、教皇の希望に沿って活動をすすめることになった。それがいよいよスタートするのが、1540年のことだった。
このような例がまったく初めてだったわけではない。かつて、中国の元王朝がアジアからロシア地域を席巻した13世紀にも、当時はまだ新しかったフランシスコ会の会士ジョヴァンニ・ダ・ピアン・デル・カルピネがモンゴルに派遣されている。ヨーロッパが戦々恐々とした元(げん)の勢力拡大のさまはすさまじい。日本にも1274年と1281年、2度に渡って襲来している(元寇)。善し悪しはともかく、ユーラシア大陸を揺るがす一大騎馬軍団帝国であった。
そのときのフランシスコ会士は外交官のような役割を任されたということで、16世紀とは趣が違う。
ちなみに彼は、世界史の教科書ではプラノ・カルピニとして紹介されている。マルコ・ポーロやイブン・バットゥータ、シルクロードと同じ箇所になるだろう。いわゆる大旅行家である。
13世紀まで時を戻してしまったが、16世紀に進もう。
さて、イエズス会と名付けられた新しい修道会、その会員は教皇の指示に基づいて各地に出ていくことになる。ローマにはロヨラを長にした事務局、本部が作られることになる。
プロテスタントの勢力が強い国に赴くのはピエール・ファーブルに決定し、1539年の秋から長い宣教の旅に出発した。彼はこの旅において、ヨーロッパ中をくまなく回ることになる。
(このイラストは改築後のものです)
教皇パウルス3世は教皇庁の執務室を出て、外の空気を吸おうと広場に出た。石畳をゆっくりと踏みしめて、サン・ピエトロ聖堂をあおぐ。
「やはり古い……在任中に工事が始められればよいのだが」
パウルス3世は聖堂をしげしげと眺めてからまた歩き出した。古くなったのは建物だけではない。改修・改築案を出した設計者も、プランが実現しないうちに逝ってしまう。ブラマンクしかり、ラファエロしかりである。今回はサンガッロに設計案を描かせたところだ。
教皇は次にシスティーナ礼拝堂に向かう。高い石の壁が屹立(きつりつ)している印象である。教皇庁の建造物のなかでは地味な外観である。しかし、華美を廃するがごときこの建屋の中は、絢爛豪華としか言いようがない。広い回廊から美術品で埋め尽くされている。それを見慣れている教皇は、目新しいもののある方へ進んでいく。
「だいぶ進んだようだな、ミケランジェロ・ブォナローティ。もう腰は大丈夫なのか」
そう言われた芸術家は後ろを振り返る。何人かの弟子が一斉に振り向いてひざまずくが、ミケランジェロは会釈しただけだった。
「おかげさまで、だいぶよくなりましたが……ぴーちくぱーちく言う雀には少々うんざりしてますよ。出入り禁止にしてもらえると嬉しいですね」
教皇は苦笑する。
描かれている人間が裸体であると苦情を述べ立てる人間がいることは、教皇も知っている。というより、教皇に直接そのような苦情が来ているのだ。しかし、教皇はミケランジェロが思うように描けないことで作業が中断してしまうことは避けたかったし、裸体が美の象徴であるというミケランジェロの主張にも一理あると思っていた。もう老境のパウルス3世にしてみれば、描かれた肉体はもう得ることのできないものだったから。
教皇みずからがどうしても許せなければ、この巨大な壁画はとっくにご破算になっていただろう。
『最後の審判』は初めは人物(男性)に腰布が付いていなかった。
そして、ミケランジェロも、もう若くないことをよく分かっていた。かれこれ30年前に、『天地創造』の天井画を描いていた、そのときほどの体力はもうないのだ。その証拠というわけではないが、『最後の審判』を制作中にミケランジェロは足場から転落し、ひどい腰痛にさいなまれることとなった。
今描かなければ、この芸術家に描いてもらわなければ、永遠に作品が表に出る機会を失ってしまうかもしれない。
この感覚は、自分の人生の残り時間を悟り始めた人間にしか理解できない。そして、それを悟る機会を与えられるのは幸せなことかもしれない。
今ここでこの人に描いてもらうことが何よりも重要なのだ。
「ああ、ぴーちくぱーちく言う者には、あまり邪魔をしないように伝えておく」と教皇は微笑んで、芸術家が引き続き作業をするのをただ眺めていた。
◆◆
その頃、ヴェネツィアのニコラスはたびたびフェラーラのエルコレ・デステ公爵のもとを訪問していた。そして、エルコレも快く彼の相談に乗っている。
相談の内容はひとつしかない。
ニコラスの母、ソッラをリスボンから連れ戻すこと。もし、今の夫や家族が反対するのであれば、彼らもまるごとイタリア半島に来てもらえないか交渉することである。
ニコラスは母の身を案じていた。
このまま歳を重ねてしまうと、長い移動がいっそう困難になるだろう。そうしたらもう一生会うことができなくなるかもしれない。
ニコラスは自分がリスボンに赴くとエルコレに明言した。
心配なだけではない。
彼はただただ、母親に会いたかったのだ。
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