16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル

バオバブの木の中には 1541年 モザンビーク

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〈フランシスコ・ザビエル、ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシラス、ディエゴ・フェルナンデス、医師サラエバ、マルティン・アスピルクエタ、セサル・アスピルクエタ〉

 1551年8月の末に、私たちのインド艦隊はようやくモザンビークにたどり着いた。
 リスボンを出港して4カ月経っていた。その半分がギニア沖(アフリカ西岸)での凪だったことを思う。ずいぶんとひどい経験をした。
 風が吹き始めたら船は滑るように南に進み、大陸の端である喜望峰(現在の南アフリカ)まで順調に到達した。1488年、ここで嵐に遭ったバルトロメウ・ディアスはこの大陸の曲がり角を『嵐の岬』だと王に報告したが、最初の人が到達してから53年も経つのだと感慨深く感じたものだ。そして私たちは彼のような嵐に遭わずに済んだ。
 私は神に深く感謝の祈りを捧げていた。

 私たちの荷が重くなりすぎないよう、とりはからってくださったのだ。



 「嵐の岬」の代わりに「喜望峰」Cabo da Boa Esperançaとかつてのポルトガル王ジョアン2世が名付けた岬。その奇観を、私は幸運にも見ることができた。というより、セサルが見たいと言って私を甲板に連れ出したのだ。
 荒れてはいないものの、海風は冷たくなっていた。あまり長く外気にあたると、震えてくるほどだった。ついこの間まで熱にあえぎ苦しんでいたのが夢の中のことのように感じる。
 この辺りは冬なのだ。
 ゆっくりと進む船から、突き出たその岬を眺める。赤茶けているその姿は何かの生物のようだった。セサルはふむ、と思案しながら言う。
「あれは、プリニウスの『博物誌』に出ていた生物のようだ。ほら、ワニのような……」
「スキンクスですか? 確かにオオトカゲのようにも見えますね」と私は笑った。

 なぜ笑ったかわかるだろうか。
 かつて、シャビエル城の書斎にはプリニウスの『博物誌』があった。活版印刷で刷られた最も初期の本なのだ。私たちは当時、それを眺めては言葉の練習をしていた。ああ、学生の頃にも目にしたことがあったかもしれない。
 簡単に言えば、『博物誌』は私たちの「共通の思い出」だったのだ。

 セサルは変わらず元気だった。私は60も半ばを越えた彼を元気な状態に保っている源か何なのか、しばらく考えていた。船に強い体質かもしれないが、それだけではないように思えた。神が彼に与えた給うた、「自由」が主な理由ではないか。

 自然の生み出す困難に見舞われても、彼は「自由」だった。

 さて、喜望峰の景観について興味深く私たちは話をしたわけだが、『博物誌』の怪物だと言ったのは、そのような形だったというだけで、実物のワニに出会うのはまた別の機会になる。
 この頃には、私の体調も多少回復したようだ。

 船が動くようになると、日曜日には司祭として説教することもできるようになった。ミサとまでは言えないが、そのように陸上で馴染んでいるものがあるというのは人の心に安らぎを与えるものだ。モザンビークが近くなるにつれ、体力を回復する者も増えた。

 そして、回復しないまま天に召される者もいた。私は彼らの告解を聞く。故国から離れて、波に揺られる中で最期を迎える人々にとって、神のゆるしの秘跡を得ることがどれほど大切なことか……私は改めて深く考えることになった。ミセル、ディエゴ、マンシラスはそれを見守っていた。ミセルが担うこともある。それはわれわれの役目なのだ。

 セサルはそのような時、常に静かに私に寄り添ってくれた。そうだ、彼は枢機卿(すうきけい、すうききょう)、高位の聖職者だったのだということがふっと私の頭をよぎる。

 誰もそれを知らない。私とセサル以外は。
 それは決して誰にも明かすことのできない事項だったのだ。

 そこから大陸の東側、ポルトガルの要塞があるモザンビーク島(現在のモザンビーク)まではさほど時間がかからなかった。それまでの停滞を取り戻すかのように、風がうまく吹いてくれたのだ。
 私たちが上陸する、4カ月半ぶりの大地。

 ポルトガルがインド航路の拠点としていたのはモザンビーク島だったが、この地を統治するモノモタパ王国の中心地はそこより南方の大陸側のソファラにある(21世紀現在の首都はさらに南方のマプート)。そこは現地の人だけではなく、オスマン・トルコの商人も足しげく訪れる交易都市だった。この国は南のジンバブエから勢力を伸ばして北上し、モザンビークまでを支配下におさめたのだ。国王はポルトガルと友好関係を持つことを望んだので、拠点をそこに築くことを認めた。したがってこのときは住み分けがきちんとなされていて、大きないさかい(戦争)は起こっていないということだった。
 それも私たちを安堵させた。


「あれは、ヤシの木だな。ずいぶんと背が高い」とセサルは陸地を見てつぶやく。
「あの、海の浅瀬の底に広がっているのは何でしょう。海の色が違う」とマンシラスが不思議そうな顔をしている。
「珊瑚礁だ。陸地はずいぶん乾いているようだが、海の恵みは豊かなようだな」とセサルが言う。
 一同は感心してセサルを見る。この老人は背中も腰も曲がっていない。その年齢にふさわしいのは真っ白になった頭髪だけだ。そして、この老人が持っている見識が生半可なものではないことに気がついてもいた。
「さすが、ナワロ教授にずっと付いていただけのことはある」と私は彼を賞賛する。実のところ、ナワロ教授もセサルには舌を巻いていたはずだと思いながら。

 ナワロ教授、すなわち、私の母の従兄弟であるマルティン・アスピルクエタはリスボンの港には来てくれなかったが、私たちの作ったイエズス会の活動を、「陰ながらコインブラ大学から見守っていよう」と言って送り出してくれた。それをふっと思い出して、私はずいぶんと遠くに来たのだと感じてもいたのだ。

 モザンビーク島は確かに乾いていた。しかし、海際はまだいい。島から内陸に至ればさらに乾燥しており、慣れない者は口を被う布を付けなければ喉を痛めてしまうということだった。私はイベリア半島が世界一乾いた土地だと考えていたが、それは大きな間違いだった。この大陸(アフリカ)のかなりの部分を占めているのは巨大な、巨大な砂漠なのだ。

 セサルが言う通り、沿岸には大きなヤシの木が散見されるが、この土地ではすべてがみずからに水を蓄えようとしている。この地で馬と同様の役割を果たしている駱駝(らくだ)もそうだ。ヤシの木にしても、水をいっぱいに蓄えた実を人間に取られまいと、高く高く伸びているように見える。また、この地には私がこれまで見たことのない変わった木があった。ずんぐりとした丸い木だ。大きいものは巨人と見まがうほどだというが、私が見たのはそれほど大きなものではなかった。その木は叩いてみると乾いた音がする。中は空洞のようなのだ。そこに水を貯めるらしい。おそらく、それもこの土地に幹を馴染ませるための知恵なのだろう。
「この木は何と言うのだろう」と私はセサルに尋ねた。セサルはしばらく黙っていた。さすがの彼もお手上げらしい。私は近くにいる男性に尋ねてみる。
「バオバブですね。この地方に特有の木です」と男性は答えた。

 船酔いからは解放されたものの、私はまだ体調がすぐれなかった。それは私だけのことではない。船には亡くなった人の遺体も、重篤な患者もいた。重篤な患者は船から先に運び出され、要塞の中にある館に移った。しかし、陸地に上がったことを意識できないほどの状態な人もいた。私はヴェネツィアでの経験を生かして、ミセルやマンシラスやディエゴとともに看護活動についた。
 結果だけを言おう。
 モザンビークに上陸した前後で、40人が天に召された。そして、島にある墓地に埋葬された。

 もっとも大変なのはサライバ医師だった。それでも、眠る間もないような忙しさの中で、彼は私の体調をしばしば気遣ってくれた。彼は私がぐったりしていると刺絡の治療を施してくれる。それは、皮膚をわずかに切開して血の巡りを良くし、身体から毒を出す目的で行うものだ。それを何度も受けたものの、なかなか不調は去っていってくれなかった。
 私が横になって休んでいるとき、セサルはそっと様子を見に来る。相変わらず彼は元気だった。
「さすが、あなたは老いてなお強靭だ」と私はつぶやく。セサルは首を横に振る。

「フランシスコ、おまえは今、こんなに痩せて青白くなってしまったが、寝顔だけは昔と、シャビエル城にいた頃と変わらない。今でも私がシャビエル城で世話になった10年のことをよく思い出す。あれほど静かに、そして楽しく過ごせた日々はなかった。そうだな、あとはイーモラぐらいか。いずれにしてもそのような時間をくれたおまえが具合を悪くしているときに、私まで倒れるわけにはいかないだろう」

 私はまた、気分がすーっと落ち着いていくのを覚えた。
「セサル、そのイーモラの話をしてくれませんか」
 セサルはうなずいて話しはじめる。1502年、枢機卿(すうきけい、すうききょう)の役目を返上して教皇軍の司令官になったこと。そして、イタリア中部の統一を目指して進軍したこと。その合間にイーモラで、都市の設計をレオナルド・ダ・ヴィンチに任せたこと……。



「レオナルド・ダ・ヴィンチと懇意だったのですか?」と私は驚く。セサルはうなずいて、遠い目をする。
「今頃どうしているだろうか。私よりかなり歳上だったから、フィレンツェで晩年を過ごして世を去ったのかもしれない……」
 私はハッと思い出す。
 私が大学に入るためにナヴァーラを出てパリに向かっていた時のことを。そして、アンボワーズ城のほとりを歩いているときに食堂で聞いた話を。
 私は彼に伝えた。
 レオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレ・ボルジアが追放されたすぐ後にミラノに移った。そして、王フランソワ1世の招きを受けてフランスに渡り、アンボワーズ城の一画に小さな城を与えられて暮らしていたが、移ってから3年後の1518年に病気で天に召された……。

「アンボワーズでも城壁や水路を整備するよう設計案を描いていたそうです。地元の食堂の店主に聞きました。イーモラでしていたのも、そのようなものだったのでしょうね」と言って、私は彼を見た。

 セサルは目を見開いていた。
 その目から涙が留まることなく流れていた。

 私はいけないことを言ってしまったのだろうかと困惑していた。するとセサルは私にゆっくりと視線を向けて寂しそうに微笑んだ。
「いろいろな意味で聞けてよかった。フランシスコ……アンボワーズ城は私が結婚式をおこなった場所でもある。ありがとう」

 私はその時にはもう眠りに落ちそうになっていた。

「Mi chiedo se Michele sia vivo. Mi chiedo se Lucrezia sia viva. Se posso incontrarmi di nuovo……(ミケーレは生きているのだろうか。ルクレツィアは生きているのだろうか。もう一度会うことができたら……)」

 そのつぶやきを夢うつつで聞きながら、私は何か大切なことを思い出せていないような気がしていた。しかし、睡魔が私の思考のドアを閉じた。
ーーーーーー

 インド艦隊はモザンビークに数ヶ月間留まり、越冬してからインドのゴアに向かうことになった。
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