16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第10章 ふたりのルイスと魔王1

アベルとカイン 1555年 尾張国

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〈織田信長、小者、雪沙、織田信勝〉

 頼りにしていた叔父の織田信光が不慮の死を遂げた後で、織田上総介信長は少々落胆していたようだ。妻の帰蝶も心配はしていたのだが、それを表に出すような夫ではなかったし、また、それに長く取り合っているわけにもいかなかった。

 実際、清洲城に移った信長のもとには近郷近在から「御家来衆に取り立ててほしい」という若者が集まって来ていたのだ。

 清洲城はその前よりずっと明るい所帯になりそうだった。かつて村木城の戦いでは郎党を多く失ったが、ここで新たな家臣団が形成されようとしていた。
 家臣団と一言で書いたが、構成は3つに大別される。
 まずは身内、血縁者の集まりである。急逝した信光も、弟の信勝もここに含まれる。連枝衆といわれる。ついでそこに仕える武将の集まりがある。信長の父の代から仕える林秀貞が筆頭であるが、そこに柴田勝家や佐久間秀盛らが加わる。
 信長直属の家臣団としては官吏の村井貞勝など、こちらも先代から仕える者が脇でがっちり支える役目をしている。
 清洲城を賑やかにする勢力として挙げるのは、残る新しい一団、彼の与力(よりき)。すなわち指揮に従って軍を動かす人びとである。この位置に立つのは土豪などの有力者であるが、それに加えて信長は出自にこだわらず人を迎え入れてもいた。

 先頃に行った「あまが池の蛇を探すための水抜き」での剛毅な行動を見た人びとが信長を支持するようになっていたことも無縁ではないだろう。

「お屋形さま、城普請のよい図ができましたで、ご覧になってちょうだいませ」
 小者(城で下働きをする者)の一人が信長に紙を持って差し出す。
「ん? おぬしが書いたのきゃ」と信長が聞き返す。
「お屋形さま、文字なぞ書けませぬ。書けませぬ身で普請の中身を書いてお出しできるとはこれいかに」と小者がひょうげた調子で、しかしそれなりには慎重な様子で主に問う。
「おぬし、どこかで城普請をよう知っとる者を探したのであろう。それでまばたきほどの間にこれを書かせたと」
「お屋形さま! ご明察。さすがでございます。ただし、まばたきよりはかなり長く、この書を綴っているところに乗り込んで待っておりましたら、あくびと眠気が何十回も交互にやってきましたもんで、思わずよだれを垂らしそうになりました」と小者は丁寧に、かつ面白おかしく事情を説明した。
 信長は笑った。
「まあ、都合に叶った輩を口説くのにおぬしが秀でとるのはよう分かったわ」

 嬉しそうな顔をして小者は下がっていった。
 信長は普請の図を広げてじっくりと眺める。思ったよりはるかに細部まで描かれており、そのまま使ってもよさそうだ。あの小者がただ居眠りをして待っていただけではないだろうと容易に想像がつく。

 まだまだ片をつけていかなければならないことはたくさんある。織田家も一枚岩ではない。弟の信勝を当主に推す動きがなくなったわけではないし、駿河・遠江の太守・今川義元は何かと横やりを入れてくる。それでも城の普請ではないが、自分の基盤となるものが着々とできているような気分になるのである。

 ただ、ほころびは見えはじめている。
 身内に何とも言い難い愚かな行為が続くのである。
 叔父の織田信光がもともと在していた守山城にはその兄弟の織田信次が入っていた。信次が於多井川(庄内川)で御付きの者らと川漁をしているとき、彼らの前を堂々と騎乗で横切った若者がいた。信次の側では無礼だと憤り、洲賀某という男が若者に向けて矢を放った。
 若者は射られて馬から落ちた。
 信次の御付きの一人がその顔を改めて、
「あっ」と小さく声をあげて青ざめる。
 いちばん顔色を変えたのが、信次である。
 なぜなら、その若者は、
 信長の弟、秀孝だったからだ。
 この行為がどのような結果を招くのか、
 信次は考えるだに恐ろしかった。
 そして、後のことを御付きの者にまかせて、
 信次は逃げてしまった。

 そのことを信長の弟の信勝が知る。憤って自身の郎党を駆って小牧に攻め込んだ。そして、主が不在の小牧城に火を放って焼き討ちにしてしまった。これ以後、信光と信次に近い信長も廃されるべきだという動きが顕著になるのである。もちろんそれはきっかけにすぎないのだが、これで織田家の導火線に火がつけられたのだ。

 信長は不意に雪沙と話したくなって、愛馬を彼の庵まで一気に走らせた。

「もう、正面切って戦わなければならないようだな」
「ああ、ここからはわしにも想像がつかんでいかん」と信長は胡座から天井を仰ぐ。雪沙はしばらく腕組みをして黙っていた。
 信長は彼の言葉を待っている。
 小さな庵にしんとした空気だけが流れている。
「うむ。理解し合うことが叶わず、兄弟が貴殿を殺そうとやって来るのなら、倒さねばなるまい。ただひとつ、貴殿がじかに手を下さぬようにした方がよいかもしれない……」
「じかに手を下さぬとは……詰め腹を切らせろということか」と信長は聞く。
「上総殿、肉親に手を掛けるというのは、それほど重いことなのだ。そのような例はこの国では珍しいことではないのかもしれぬが、その重さは経験しないと分からない類いのものだ。世評はもちろん、のちのちまで軛となって手を下した者にまとわりつくだろう」
「ならば、されるがまま討たれよと申すか」と信長は反駁する。
「いや、そうは申さぬ。さようなことだと覚悟ができるかと言っている。貴殿がその軛に絡め取られるのをわしは見たくないのだ」と雪沙は淡々という。
「なぜ、さように言い切れる」と信長は雪沙の目を見る。
「私がそうだからだ」

 雪沙の言葉に信長はごくりと唾を飲んだ。

「私は自身の側近に命じて、弟を密かに殺させた。そして川に放り捨てた。父は行方不明になった弟を案じて、気も狂わんばかりになって、夜も昼もなく人を使って探させた。そして、川船の船頭が変わり果てた姿の弟を引き上げた。父は嘆き悲しみ、犯人を懸命に探していた」

「それで、どうなった」

「父には知らせた。
その場に崩れ落ちて泣いていた。母には父が知らせたが、もう一切会っていないのでどう思ったかは知らぬ。知っても何の役にも立たないだろう。貴殿はそうなったならば母御の顔をまっすぐに見られるか。
一時の感情で簡単にすることではない」

 信長は黙り込んだ。
 雪沙はシワだらけだが柔和な表情で信長を見る。
「私の国の宗教では、人類が最初に行った殺人は兄が弟に手を掛けたものだという。神はそれを許しはしなかった。他の者にさせたとはいえ、私のしたこともそれと違わない。だからこそ言うのだ。ただ、それで貴殿が討たれることも望まない。覚悟を持つべきーーというのが私の伝えたいことだ」

 信長は雪沙の弟が絶命してローマのティベレ川に放り込まれたのも、旧約聖書のカインとアベルの話も、雪沙の父がそれを原典のひとつとする宗教を指導する立場の人だったことも知らない。

 ただ、信長はぼんやりと思っていた。
 今の自身の立場を本当に理解できるのは、この老人だけかもしれないと。

 事態は待ってはくれない。
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