16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第10章 ふたりのルイスと魔王1

洋の東西における軍事論議 1560年 尾張

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〈雪沙、織田上総介信長、今川治部大輔義元、カテリーナ・スフォルツァ、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバ〉

「ああ、司令官……いや、総大将をいち早く倒せば、軍勢は混乱し崩れるだろう。いずれにしても守備をしっかりと構えてから攻撃に出れば間違いない」
 小牧山の麓の庵、ろうそくの炎の向こうに雪沙の顔がぼうっと浮かんでいる。その口調は昔の打ち明け話をしているように、ぽつりぽつりとしたものだった。上総介信長は胡座に片肘をついて思案顔で聞いている。
「ただ、敵の数は相当なものだで、次から次へと押し寄せられたら飲み込まれてまうわ」
 雪沙は遠い目をして、何かを思い出している。
「少ない兵で済むからといって、城に立て籠るのはいただけない。私も立て籠る敵を攻めたことがある。頑丈な要塞だったし手強かったが、内通者が出て落ちた。相手はイタリア半島随一の武人の末裔だったが、あっけないものだ。立て籠りに勝機はない。そうだな、城でなければ……イタリア半島の都市は丸ごと壁で囲われているのも珍しくない。非常時には町ごと封鎖できる。その場合、城よりは何らかの手段が取れるだろう。敗北するとしても降伏条件をゆっくり話し合うことができる」
 武人の末裔とはフォルリのカテリーナ・スフォルツァのことを指しているようだ。もちろん聞いている若者に具体的なことは分からない。カテリーナ・スフォルツァが武人というだけでなく、当代随一の美女だったこともこの話には関係のない事柄だ。

「ああ、町ごと囲ってしまえば確かに時は稼げるでや。此度は直接交戦するしかないだろうが、囲いか……うむ。それにしても、治部大輔(今川義元)を真っ先に狙うというのは難儀でや」
 雪沙はふっと笑う。
「そうだな。一目で判別しようとすれば難しい。あらかじめ知っておけばよい」
「ああ、斥候を至るところに張らせておけばよいのか。それならば、影武者と間違えることもない」
「貴殿は鷹狩りでもあちらこちらに人を置くだろう。それと同じだ。ただし、用意周到にこちらの縄張りまで進んでもらわねばならない。何かの情報を流すなどして誘導するのは必須だな」
「誘導か……よほどいい場を考えんといかんで……囲い込むことができんかや……」

 思案している信長に、雪沙はまたひとりの軍人の話をする。
 ろうそくがジジジと音を立てている。
「名前は覚えなくともよいが、昔、スペインという国にゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバという軍人がいた。前にも少し話したことがあったが、もう少し詳しく話そう。彼は大将とか守護大名と同格の身分だった。そして実によく戦の方法というのを考えていたのだ。軍隊が槍や剣や銃で真正面から衝突するのは兵の犠牲を多く出してしまう。もっと上手く迎え撃つ方法はないのかとな。そこで塹壕戦というのを実戦で使った。城に籠って応戦するのとは違う。土を入れた袋を効果的だと思ういくつかの地点に置く。そこに兵が隊列を組んで身を潜める。敵が来たら一斉に銃撃する。弾がなくなれば後ろの列と交替する。そして移動しながら攻撃を続ける。移動しながら、というのが肝要だ。これならば自軍の犠牲は少なくできる。槍でも同様にできるが、貴殿の使う三間(約5・4m)のものでもやはり接近する必要がある。五間にするか。そうしたらもう扱える代物ではないだろう。どちらも兵の一人ひとりが自分の役割をきちんと承知しておく要がある」
 信長はうーむと唸る。
「種子島(マスケット銃)か。確かに鑓よりは離れて使えるが、それだけの数と砲手がおらん。ただ確かに聡いやり方だで、さような戦い方ができるよう整えるようにしよう」

 信長と雪沙が延々と何を話しているかといえば、駿河・遠江の太守、今川義元をどう倒したらいいかということである。これまで義元は頻繁に三河から尾張の際まで侵攻し、信長を排除しようと周囲に調略の網を張りさえした。
 信長にとって、真っ先に倒すべきは今川義元だった。そして倒すならば徹底的に敗北させなければならないと考えていた。そのために、西三河の有力者・同盟者である水野信元、近江の守護大名である六角義賢にも援軍派遣を取り付けている。これらはすべて秘密裡に行われ、準備が進んでいた。

 すでに事態は急を告げている。
 尾張の鳴海城はすでに今川方の岡部元信が占領していた。

 信長は城から20町(約2・2km)離れた丹下という村にある古屋敷を砦にし、水野忠光、山口守孝、柘植玄蕃頭、真木与十郎、伴十左衛門を配した。その東にある善照寺跡に要害を築き佐久間信盛、その弟信直を。南の中島村には梶原高秀を置き、脇の黒末川(現在の天白川)河口の対岸に鳴海城ー近隣の大高城間を遮断するように砦を2ヶ所築いた。一方の丸根山には佐久間盛重、もう一方の鷲津山には織田秀敏、飯尾定宗親子を置いた。
 地図を見れば明らかだが、鳴海城を取り囲むようにしているのは、丹下・善照寺・中島の砦・要害で、大高城と丸根・鷲津砦は鳴海城とは直接関係がないように見える。距離も少し離れている。
 しかしこれが信長の考えを反映した布陣だった。
 永禄3年(1560)早春のことである。

 信長が鳴海城を包囲したという報を受け、今川義元は2万余の軍勢を率いて駿河を出立した。


 その頃、ひっそりと小牧の庵を訪れた人がいる。訪問者を出迎えた雪沙は相手を見て驚く。春の温かい日差しが射す中で、その女性の顔は恐ろしく青白かったからだ。
「帰蝶さま、どうされました。こんなにおやつれになって」と雪沙は思わず声をかける。
「雪沙は変わらないのですね」と帰蝶が力なく微笑む。
「ずいぶんもうろくしました。何しろもう84になりましたから」
「そうなのですか、せいぜい80ほどにしか見えませぬが」
 帰蝶の言葉に雪沙も微笑む。
「とりあえず安心しました。どうぞお入りください」
 彼女が「はい」と言うのと同時に雲雀がチチチと愛らしくさえずる。
「あら、雲雀がわたくしと一緒にお邪魔したいと言っているわ。いいかしら」
「ええ、戸はしばらく開け放しておきましょう」
 雪沙も雲雀のさえずる方を見やる。

 尾張の春はこともなく長閑に過ぎていくように見えた。

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