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深紅

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 まともに食事がでるはずがない場所だから、日帰りしたいくらいだった。だが、彼に少しでも会いたくて5日間だけ侯爵家にいる事だけを伝えると、毎日会いに行くと返事があり嬉しくて、あの家に行くのが楽しみになった。

 この思いが、少しでもいいから彼の元に届きますようにと、瞳を閉じて願う。

 侯爵家にたどり着き自室に入る。そこは、蜘蛛の巣が張られ、埃がかぶり、カビの臭いが充満していた。夏に来た時と同じ光景、いや、もっと酷い有様に苦笑する。
 相変わらず、この家では厄介者である事がまざまざと突き付けられて胸が苦しくなった。けれど、そんな事が気にならないほど、今日の夕方には会ってくれると言った彼の事を思い出して窓を開けて掃除をした。

 数日だけ雨風をしのげればいい。幸い天気がいいので、シーツをバルコニーで干し身支度をした。

 学園で貰った小遣いを貯めて、あの人と同じ色の水色のワンピースに袖を通す。くるりと回ると、フレアスカートのすそがふわりと踊り心まで弾んだ。
 
 そわそわと彼の訪れを待っていると、部屋がノックされた。珍しいなと思いドアを開けると、そこにはメイドがいて侯爵に呼ばれている事を聞かされた。

 彼女の後ろをついていくと、廊下の大きな窓から見える美しい庭で、ピジョンブラッドとアクアマリンの影が動いていた。何事かと訝しみつつ、嫌な予感がして立ち止まる。メイドに早く来いと急かされるけれど、そっと窓に近寄った。

 すると、信じられない光景が目に飛び込んできたのである。


 見知った美しい二色の糸が、隙間もないほど近づき絡み合っているではないか。


 深く紅い髪を持つラドロウと、婚約者であるはずのクアドリが、他には何も目に入らないかのように抱きしめ合い、深く唇を合わせていたのである。

(う、そ……。見間違い?、よね?)

 何度も離れては再び強い磁石で引き寄せられるかのように角度を何度も変え、口づけを交わすふたりが目を開けた。お互いだけをうつし潤んだ瞳で見つめ合う姿を見た時、これが夢でも幻でもなんでもなく、現実の目の前で起こった出来事だと痛感した。

(そんな……)

 そういえば、半年前、久しぶりに会ったクアドリの左手の薬指には何もなかった。それは、わたくしへの拒絶のようで悲しくなり、何も言えずにそこを凝視した。

『あ……ああ、くすんでいたから店に磨きに出しているんだ。今日には届くはずだったんだけどね。大丈夫、明日には戻って来るから必ずつけて君に会いに来るよ』

 そう言って頭を掻きながら謝罪をした彼の困ったかのような微笑みを見ると、もうそれ以上はなにも追及できずに口を閉ざした。
 それに、翌日にはピカピカに磨かれた真珠の指輪をはめて会いに来てくれたのだ。何を悲しむ事があるのだろうか、と彼の事を少し疑った自分を恥じると同時に、幸せな気分になった。

(政略だし、こんなわたくしに優しく誠実に対応してくれているだけでもありがたいのよ。でも、彼があんまりにも優しいから勘違いして、身の程知らずな夢を見てしまう……。馬鹿ね、白い髪のわたくしに、こうして会って結婚してくれるだけでいいじゃない……)

 そう何度も言い聞かせても、彼の心を望まないようにどんなに心を誤魔化して偽っていても、日々募り深くなる彼への慕情は止まらなかった。

 本当はわかっていた。真珠の指輪が、いつも新品同様に綺麗で輝いているのは、わたくしと会う時以外あの指輪は箱にしまわれていたままなのだ、と。

 遠く離れても、こうしてお互いに薬指に付け合っている限り、彼との絆は切れないだなんて愚かな夢物語の中にいるのはわたくしだけなのだ、と。

 隣国では、こんな風に胸が切り裂かれたかのような痛みを覚える事はなかった。人間という嫌われ者だという存在ながらも、彼らは彼らなりにわたくしを受け入れてくれたから。

(だから、そんな日常が当たり前になってしまって、いつの間にか傲慢になっていたんだわ)

 皆と同じように、わたくしにもささやかな幸せな未来があると思いあがっていた。そんなものはないと、まざまざと指し示すかのように、侯爵家のわたくしへの仕打ちや、目の前の深紅と水色が混じり合う光景が、身の程知らずの愚か者だとわたくしを嘲笑っているではないか。

「ふふ、お似合いですわよね。誰かさんとちがって。あーあ、旦那さまの子でもないのに、誰かさんが図々しく婚約者の座に居座っているからおふたりは……。お気の毒ですわぁ……」

 すぐ側でしゃべっているはずの声が、何重にも覆われたベール越しに聞こえるかのように、くぐもっているみたいに耳に入る。

 窓に当てた左手の薬指のアクアマリンが、皮肉にも太陽光を浴びてきらりと光った。

「もう、いい加減について来ていただけませんかね? こっちは、あんたと違って忙しいんですよ!」

 瞼が瞬きを忘れてあっという間に目が乾く。でも、それを忘れたかのように目を見開いたまま、メイドに腕を乱暴に取られ無理に動かされた。

 気が付けば、執務室に立っており、目の前の侯爵が嬉しそうにしていた。どう考えても、わたくしに会えて嬉しいといった笑顔ではない。

「やっと私の唯一の血を引くラドロウが、後継者になる事が認められた。お前のせいでなかなか手続きが出来なかったがな。この侯爵家はラドロウとクアドリが結婚した後引き継がれるのだ。イリア、産まれたばかりのお前を、私を裏切ったあの女が連れて行くと言うから、魔法契約でお前をこの家の後継者として縛っておったがな。ふん、あの女の思い通りにさせるものかと思っていた当時の私は、何という愚かな真似をしたのか。おかげでこんなに苦労するとは思わなんだ。だが、そんな苦労は報われたんだ。お前は、もう用済みだ。今すぐこの家を出て行き、どこへでも好きな場所に行くと良い」

 そこからは、何をどうしたのか覚えていない。ただ、気が付くと隣国行きの乗合馬車に乗っていた。

(ふふ、わたくしは最初からいらない子だったのよ。最初から、ふたりを結婚させ侯爵家を継がせる予定っだのに。それまでの中継ぎで、政略結婚の相手でもなんでもなかった……何も知らなかった、何も、聞かされていなかったなんて……馬鹿みたい……)

 もうつけていても意味のないアクアマリンの指輪は、わたくしの左手の薬指で光ったままそこにある。それを抜こうとした右手が、指輪に指先をつけたまま動かなかった。

(馬鹿、みたい……)

 ぎゅっと、右手で左手をそのアクアマリンの輝きごと握りしめる。

(こんな目にあっても、クアドリ様を想っているだなんて、ほんと、馬鹿みたい……)

 ガタガタと揺れるその馬車を、沈みかけた深紅の太陽が照らし長い影を作っていたのであった。
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