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土曜日~鍵~
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多くもない上半期の試験が金曜日に集中してあったのはインターンシップと嫌な話だが裁判のせいである。
なんだかここしばらくの騒ぎで裁判の日にちが詰まってしまったせいで、講師の方々にはレポートやら追試やらでフォローしてもらった結果として、少しばかり小言をいただきつつ、学部長教授からなにやら廻っているらしく意外と大した嫌がらせもなく順調に卒業単位を達成出来そうな雰囲気だった。
どうせ後期にも取れる単位数なのでソコはあまり問題ではないが、いちおうこの後、実験をおこなってソレっぽいものに仕上げるつもりがあると、やはり時間は余裕がほしい。
去年の例を見ても装置の立ち上げそのものは一週間もあれば形になるが、実際に動かしてみるまでは、試験に足りるだけの精度を出しているかは分からないし、上手くいってみるまでは装置が問題なのか、仮定とした根拠が問題なのか、それともナニかもっと他の例えば時間や温度といった操作しようのない環境に付随するものなのか、まず分からないというのが大学生の卒業研究の実験だったりするので、言えることはとにかく記録はしておけ、どんなクズデータでも思わぬ発見になるし、どうせ調整期間中のデータなんか図表にまとめることはないんだから記録メディアの中にチョロっと埋めておけばいいんだ。というようなアドバイスを、年度が変わって就職の挨拶にきた山下が忠告していた。
そういうデータの扱いはどうなのさ、という反発というか疑問は純一の頭の中にはあったが、それはそれとしても、クズのようなデータを山と見せられても実験の趣旨に対しての理解は得られないだろうし、そう言った山下の真意は伝わった。
つまるところ、早めに始めないとヤバイぞということである。
もともと伊藤研究室はレーザー光の周波数の可変性とその実用の研究をおこなっていた。用語上の表現を言えば、すでに光とは言えない帯域をも含んで扱っていたからメーザー光という表現も可能だが、扱いを狙うその幅の広さから伊藤研究室ではあくまで「レーザー」という呼び方にこだわっていた。そして、そういった技術の一つとして結晶の析出という分野を選んだ。
焦点の分子が運動していく状態にあわせて、温度やその挙動の変化から粒子の状態をマクロで把握しつつ、その粒子の成長方向にエネルギーと周波数を制御する、という酷く取っ掛かりが繊細な実験で、一度上手くいきだすとあっという間に結晶が育つという、工学のモデル実験では実にありがちなパターンを示す、しかしそのバランス点が理論と実地でほんの僅かにずれているために、程度がわからずクルクルとソノアタリをつつき回すという酷く装置や準備以外の点でややこしい実験であった。
とくに伊藤研究室の機材は様々な形で改造や試験がなされた、いわばオフルで構成されているために、装置本体はもとより計測器も微妙に信用がおけないという問題もあった。結局、そのひとつによって去年の卒業研究生は危うく卒業論文の提出に成功した試験の結果を載せられない可能性もあった。ならば新品の機材がいいか、と言うと実験に特化された改造を必要とするので結局は手が加わり信用ならないということになる。
純一はそうでなくても、複数の裁判というまた別の意味で神経を削るような作業を持っており、わずかに卒業に足りていない修了単位を前期のうちに獲得して面倒なく卒業論文に打ち込みたいと思っていたし、夏休みの前後で装置の仮組みと試運転をおこなわないといけないし、純一が就職内定したことで焦りを見せ始めた同じ班の山中と新谷にも連絡をとって調整を始めないといけない。そういえば、姫たちがどちらかに外遊に参られたいとか――。
――あー、パンクする!
「あー、もう、アッツイですねぇ。ナツいっつうかアツ本番っていうか」
試験のあと研究室に挨拶をしただけで早々に帰路につき、翌日土曜日、夜月に出されたアイスコーヒーを啜りながら阿吽魔法探偵事務所に午後から入り浸り、ソファーで純一はすっかりダレていた。
「まぁ、うん。クーラーなしの生活は日本の都会じゃ考えられませんね。ヨーロッパでも最近はクーラー無しでお年寄りが茹だって倒れる話が聞こえてくるんで、夏の間に外で歩きまわるなんて二十二世紀にはあり得ない所業ですよ、きっと」
二十一世紀に生きている社会人としてあるまじき言葉を夜月が吐いているのを、しかし純一は研究の予習の名目で暇つぶしに持ってきた去年の論文をパラパラ眺めながら同意した。
「こんなに学生であることがありがたい時期はありませんね。もうちょっとすると卒論で帰る家も意味も失くなる予定ですが」
ほとんど、脅しのように語られる理工科系四年生の卒業研究の生活は、すでに幾つかの研究室で始まっており、大学の傍に下宿している学生はもはやどちらに住んでいるのか分からない状態が始まっていた。
就職活動が一段落した学生は少し気が抜け最後の夏休みをとろうとしていたわけだが、純一の夏休みは裁判の日程と卒業研究の実験とですでに微妙に細切れにされていた。
そのために気分転換に意気上がる、「××旅行~」のようなプランはなく、かといってエイプリルフールのような、過度の快感はストレスでしかないというような人体機能の神秘の確認実験は正直もうけっこうと思っていたし、外出したからといって夜ナニするんだ昼ナニするんだで――
「あー。なんで!」
純一は大声を上げて跳ね飛ぶように立ち上がっていた。
「コーヒーまだありますよ?」
夜月はさすがにこれまでにない純一の様子に驚いたようだったが、口から出たセリフはそんなものだった。
「……ありがとうございます」
純一は夜月が傾けたコーヒーポットに歩み寄って自分でタンブラーに注いだ。
ここしばらくの淡々と圧力が残り続ける生活は純一を酷く圧迫しており、吐きそうな緊迫感を感じていた。
「ソープでもいきますか?あんまり妻帯同然の人に薦めることでもないんですけど、意外と知らない女の肌ってのは男に効きますよ」
夜月が本気で心配してくれているのは分かっていたが、余計な知恵をつけないでくれと純一は思った。金で買える女ならソレこそ金の分だけブチまけてやりたい、そんな魅力的な考えがちらついていた。
少し心配そうに夜月は純一を観察してため息をついて言葉を継いだ。
「――冗談ですよ。そんな怖い顔しないでもイイじゃないですか。私ならぁ、そうですねぇ。バッティングセンターでホームラン出るまで帰らないとか、そんな感じでいいと思いますよ。あるいはプールですかね。この時期だしきっと気持ちいいですよ。水着ならプールでも売ってますし、一日泳ぎ放題です。本当なら自転車で日本海見て太平洋見て戻ってらっしゃいというのが一番簡単なんですが、まぁアレです。今は裁判中ですからね。そうできないからクサクサしているのは分かります。男がクサクサしているときは発散の方法なんて簡単で暴力性交仕事運動、どれかで疲れるまでやってればイイんですが、セックスはもう嫌で暴力も避けたいとなって、大学生なら運動ですね。どっかの道場行ってパンパン投げられるのが一番効くんですが、まぁ畑中さんくらいだと町道場フラリと入ってもよほど運が良くないと面白くはないでしょうね」
純一は夜月の話を聞いているうちにそんなものかなぁと思うようになってきた。
言われてみれば、こういう得体の知れない何かというのは、身体を動かすとなんとなく消えてゆくような気が純一にもする。
バッティングセンターでホームランを打つことがどれほど至難か容易いか行ったことのない純一にはイマイチ分からないが、そういう気分転換が必要だという夜月の提言は重要に思える。
純一は息をつきながら伸びをする。それだけのことでなんだか幾つかのことが嘘のようにどうでもよくなっていた。もちろん現実にはナニも変わっていないが、変わっていなくても問題とするほど深刻でもない、いや、考える意味がない。
夜月は机の引き出しから階下の自転車の鍵を放って寄越した。
「バイクより自転車がいいでしょう。ヘルメットは置いていって良いですよ」
そんなふうに夜月は言った。
純一の挨拶に夜月は手で払うような仕草で追い出す。そこまで荒れていたらしい自分の雰囲気に思わず純一は苦笑してしまった。
そんな風に延びた陽を追いかけるように自転車を延々飛ばして、河川敷を走ってきた。バッティングセンターに着いてみると風が強く気持ちよかったがやはり暑く、ティーシャツどころか日除けに羽織っていたワイシャツまでが絞れるほどの汗をかいていた。
空はすでに夕焼けの時間帯も終いだったが、昼の日差しに焼けた夏の風は川をわたるモノでもやはり熱かった。
財布の中身を全く確かめずにきたが、財布を空にするか飽きるまでと想い定めてやってきたわけで、とりあえず手持ちの千円札を全部コインに換金してケージに入る。
ゴキンっガキンっという微妙に鈍い音をさせていたが、次第にバットの芯を捉える感触がわかってきた。レンタルのバットは流石に酷使されすぎて、様々な位置で変形していたので芯というのは少し癖があったが、よく飛ぶところが芯である、という大雑把な認識で良いという前提に立てるなら、まぁ芯という言い方でもいいと思う。その程度の下らない考察に思考を巡らせる余裕がある程度に、マシンの飛ばす軟球を持ったバットで弾き返すという作業に純一は馴れてきた。
だんだん欲が出てきて、ホームランのパネルを目掛けて打ち返すくらいの余裕が出てきたが、立ち位置の問題か純一の生来の癖かもう少し上手く調節ができない。ジリジリしながら打ち返す。
もうちょっともう一寸で、ジリジリと打ち返すと、隣のゲージで先にホームランが出た。
もう一発。となりの誰だかはとても上手い。
満足したのか、ワンコイン分でケージを出て行った。
純一は隣のスラッガーの存在にげんなりしながらしばらく頑張るが、急に集中力が落ちてきたのが分かった。さっきまで吸い込まれるようにバットに食い込んでいた軟球が全く近寄りもしなくなった。
さて、と思いながら、ケージを出て純一はジュースを飲む。
純一のズボンのポケットの中はまだコインで重たい。
球速は同じだったが隣のゲージのバットの方が、いやマシンの設定自体が、いやいやケージの位置自体がホームランのボードに近いのか。自分の理屈がおかしいことはわかっていたが純一は少しばかり本気でバッティングセンター攻略、というかホームラン賞――新品のボールがもらえるだけなのだが――を目指してケージに入っていた。
流石に二つ目のケージでは最初の時よりも純一の目も慣れ調整はうまくなっていた。だがやはり何かが違うらしく――もちろんバットも違う――ケージに置かれていたバットをワンコインづつ順番に振り抜き続け、しかし結局一周りしてもパネルにボールは当たらず、さっきは聞こえたファンファーレはならなかった。
隣のケージでボールを打ち返す音がし始めた。純一も改めて今度は左打者のボックスに入る。
バットは一周りしている。
キンっ。
悪くない音がしてボールがパネルのやや上に飛ぶ。
――惜しい。
そう思ってすこしばかり満足気な顔をしたその目の前でとなりのケージが弾き返したボールが、ぽくん、とパネルを叩いて、安っぽいファンファーレ。
さすがにムッときた。一球、見逃してしまうほどに純一は頭にきていた。
我ながら子どもっぽいと純一は思ったが、単純に気合が入っていた。
結局ワンコインづつバットを左右の打席で一周りさせたが、ファンファーレが鳴ることはなかった。
隣も今度はさすがに二度は鳴らさなかったが、そういう問題でもない。
まだ街の夏の空は暗いという程でもなかったが、充分に夜だった。
「ゴメン。晩ごはんいらないから、先に食べてて」
辛うじて思い出した家への電話をかけて、未来にそれだけ告げると電話を切り、純一はまた隣のケージに入った。
このケージは少し球速が速いらしい。
球速が違うとさっきまでとは少し雰囲気が違ったが結局は軟球だと当てれば感じはつかめてくる。最初は当てて次第に振り抜いていけば、いつの間にか球速にも慣れていた。球速が速いとマシンのばらつきも少ないらしく、打ち返すボールの行先もある程度は絞れ始めてきた。
なんとなくパネルの周りに集まり始めていた。
けンっ
多少あたりは悪かったが、フラっと上がった打球がパネルに向かっていた。
――イケるか。
キンっ
となりのケージからそれこそ矢のような打球が純一の打球をはじき飛ばし、パネルを叩いた。純一のボールは明後日に弾かれていた。
――ぱぱぱぱっぱぱー。
その光景を見て、純一は戦意を喪失してケージを出た。
隣のケージから出てくる人物をせめて見ようと純一は思った。
別に殴りかかるとかそんなつもりは純一には毛頭なかった。
この酷く交通の便が悪い客の少ないバッティングセンターでどんなダレが来ているのか。近くの高校球児か。ウチの大学の暇人か。一体どんな野郎があてつけがましくも、このへっぽこバッターのケージの隣でパカパカとホームランを出してみせたのか。まだ少し残っているコインを使う前に確認してから、別のケージに入ろう、と純一は思っていた。
出てきた人物を見て、純一は驚いた。
金城基女史だった。
「お、エラい頑張ってるからダレかと思ったら、畑中くんか。こんばんは、奇遇ね」
「こ、こんばんは。こんなところでお会いするとは」
流石に純一に言葉もなかったが、とりあえず挨拶を返すくらいの知性は残っていた。
「うん。私も驚いた。会社からちょっと遠いから、知り合いに遭わないと思っていたんだが、まさか君と遭うとは思わなかった」
金城女史は身体を動かし暖まった柔らかさのままにニコヤカに言った。
服装は白衣以外はオフィスの姿と大差なかったが少し違和感を感じた。目の高さが低い。
「――お、そうだった。プレゼントありがとう。コレいい感じね」
金城はたったまま足を組んでかかとを浮かせてみせる。足元にはプレゼントしたハーフブーツ。
「あ、使ってくれているんですか」
「なかなか気の利いた誕生日プレゼントだったわ。まさかこの歳になってもらうとは思わなかったから、ちょっと驚いたけど実にいい感じ。普段使いに使っているわ。よく私の足の大きさなんて知ってたわね」
「はぁ、静電靴あったんで、同じ大きさならイケるかなと」
「あー、なるほど。けっこう私のサイズになると国産のものが減っちゃうのよね。ユニセックスデザインかもだけど気に入ったわ。ありがとう」
「いえ、使っていただけているならウレシイです」
どことなく呆けたまま純一は応えた。
「じゃぁ、私はつかれちゃったから帰るね。バイクでしょ?送らないわね。またそのうち」
今ひとつキレの悪い純一を疲労困憊と見たのか、金城は純一をおいて帰っていった。
スッカリ日も暮れて遅くなって事務所に帰ると鍵がかかっていて、ギルガメッシュタバーンのマスターが鍵と伝言を預かってくれていた。
さして旨くもないラーメンを食べて家に帰ると未来がお茶漬けを用意してくれた。
疲れてはいたが、クサクサした気分は抜けていたので、妙に腹の具合がよかった純一は、美味しく食べた。
風呂にはいる準備をしようと部屋に戻った純一はふと引き出しの中の鍵を見てみる。夜月の事務所の鍵を並べると鍵の頭の部分が一回り長く複雑に見える。厚みのある扉であることはわかる。
鍵の話を寝物語に未来に聞いてみることにした。
なんだかここしばらくの騒ぎで裁判の日にちが詰まってしまったせいで、講師の方々にはレポートやら追試やらでフォローしてもらった結果として、少しばかり小言をいただきつつ、学部長教授からなにやら廻っているらしく意外と大した嫌がらせもなく順調に卒業単位を達成出来そうな雰囲気だった。
どうせ後期にも取れる単位数なのでソコはあまり問題ではないが、いちおうこの後、実験をおこなってソレっぽいものに仕上げるつもりがあると、やはり時間は余裕がほしい。
去年の例を見ても装置の立ち上げそのものは一週間もあれば形になるが、実際に動かしてみるまでは、試験に足りるだけの精度を出しているかは分からないし、上手くいってみるまでは装置が問題なのか、仮定とした根拠が問題なのか、それともナニかもっと他の例えば時間や温度といった操作しようのない環境に付随するものなのか、まず分からないというのが大学生の卒業研究の実験だったりするので、言えることはとにかく記録はしておけ、どんなクズデータでも思わぬ発見になるし、どうせ調整期間中のデータなんか図表にまとめることはないんだから記録メディアの中にチョロっと埋めておけばいいんだ。というようなアドバイスを、年度が変わって就職の挨拶にきた山下が忠告していた。
そういうデータの扱いはどうなのさ、という反発というか疑問は純一の頭の中にはあったが、それはそれとしても、クズのようなデータを山と見せられても実験の趣旨に対しての理解は得られないだろうし、そう言った山下の真意は伝わった。
つまるところ、早めに始めないとヤバイぞということである。
もともと伊藤研究室はレーザー光の周波数の可変性とその実用の研究をおこなっていた。用語上の表現を言えば、すでに光とは言えない帯域をも含んで扱っていたからメーザー光という表現も可能だが、扱いを狙うその幅の広さから伊藤研究室ではあくまで「レーザー」という呼び方にこだわっていた。そして、そういった技術の一つとして結晶の析出という分野を選んだ。
焦点の分子が運動していく状態にあわせて、温度やその挙動の変化から粒子の状態をマクロで把握しつつ、その粒子の成長方向にエネルギーと周波数を制御する、という酷く取っ掛かりが繊細な実験で、一度上手くいきだすとあっという間に結晶が育つという、工学のモデル実験では実にありがちなパターンを示す、しかしそのバランス点が理論と実地でほんの僅かにずれているために、程度がわからずクルクルとソノアタリをつつき回すという酷く装置や準備以外の点でややこしい実験であった。
とくに伊藤研究室の機材は様々な形で改造や試験がなされた、いわばオフルで構成されているために、装置本体はもとより計測器も微妙に信用がおけないという問題もあった。結局、そのひとつによって去年の卒業研究生は危うく卒業論文の提出に成功した試験の結果を載せられない可能性もあった。ならば新品の機材がいいか、と言うと実験に特化された改造を必要とするので結局は手が加わり信用ならないということになる。
純一はそうでなくても、複数の裁判というまた別の意味で神経を削るような作業を持っており、わずかに卒業に足りていない修了単位を前期のうちに獲得して面倒なく卒業論文に打ち込みたいと思っていたし、夏休みの前後で装置の仮組みと試運転をおこなわないといけないし、純一が就職内定したことで焦りを見せ始めた同じ班の山中と新谷にも連絡をとって調整を始めないといけない。そういえば、姫たちがどちらかに外遊に参られたいとか――。
――あー、パンクする!
「あー、もう、アッツイですねぇ。ナツいっつうかアツ本番っていうか」
試験のあと研究室に挨拶をしただけで早々に帰路につき、翌日土曜日、夜月に出されたアイスコーヒーを啜りながら阿吽魔法探偵事務所に午後から入り浸り、ソファーで純一はすっかりダレていた。
「まぁ、うん。クーラーなしの生活は日本の都会じゃ考えられませんね。ヨーロッパでも最近はクーラー無しでお年寄りが茹だって倒れる話が聞こえてくるんで、夏の間に外で歩きまわるなんて二十二世紀にはあり得ない所業ですよ、きっと」
二十一世紀に生きている社会人としてあるまじき言葉を夜月が吐いているのを、しかし純一は研究の予習の名目で暇つぶしに持ってきた去年の論文をパラパラ眺めながら同意した。
「こんなに学生であることがありがたい時期はありませんね。もうちょっとすると卒論で帰る家も意味も失くなる予定ですが」
ほとんど、脅しのように語られる理工科系四年生の卒業研究の生活は、すでに幾つかの研究室で始まっており、大学の傍に下宿している学生はもはやどちらに住んでいるのか分からない状態が始まっていた。
就職活動が一段落した学生は少し気が抜け最後の夏休みをとろうとしていたわけだが、純一の夏休みは裁判の日程と卒業研究の実験とですでに微妙に細切れにされていた。
そのために気分転換に意気上がる、「××旅行~」のようなプランはなく、かといってエイプリルフールのような、過度の快感はストレスでしかないというような人体機能の神秘の確認実験は正直もうけっこうと思っていたし、外出したからといって夜ナニするんだ昼ナニするんだで――
「あー。なんで!」
純一は大声を上げて跳ね飛ぶように立ち上がっていた。
「コーヒーまだありますよ?」
夜月はさすがにこれまでにない純一の様子に驚いたようだったが、口から出たセリフはそんなものだった。
「……ありがとうございます」
純一は夜月が傾けたコーヒーポットに歩み寄って自分でタンブラーに注いだ。
ここしばらくの淡々と圧力が残り続ける生活は純一を酷く圧迫しており、吐きそうな緊迫感を感じていた。
「ソープでもいきますか?あんまり妻帯同然の人に薦めることでもないんですけど、意外と知らない女の肌ってのは男に効きますよ」
夜月が本気で心配してくれているのは分かっていたが、余計な知恵をつけないでくれと純一は思った。金で買える女ならソレこそ金の分だけブチまけてやりたい、そんな魅力的な考えがちらついていた。
少し心配そうに夜月は純一を観察してため息をついて言葉を継いだ。
「――冗談ですよ。そんな怖い顔しないでもイイじゃないですか。私ならぁ、そうですねぇ。バッティングセンターでホームラン出るまで帰らないとか、そんな感じでいいと思いますよ。あるいはプールですかね。この時期だしきっと気持ちいいですよ。水着ならプールでも売ってますし、一日泳ぎ放題です。本当なら自転車で日本海見て太平洋見て戻ってらっしゃいというのが一番簡単なんですが、まぁアレです。今は裁判中ですからね。そうできないからクサクサしているのは分かります。男がクサクサしているときは発散の方法なんて簡単で暴力性交仕事運動、どれかで疲れるまでやってればイイんですが、セックスはもう嫌で暴力も避けたいとなって、大学生なら運動ですね。どっかの道場行ってパンパン投げられるのが一番効くんですが、まぁ畑中さんくらいだと町道場フラリと入ってもよほど運が良くないと面白くはないでしょうね」
純一は夜月の話を聞いているうちにそんなものかなぁと思うようになってきた。
言われてみれば、こういう得体の知れない何かというのは、身体を動かすとなんとなく消えてゆくような気が純一にもする。
バッティングセンターでホームランを打つことがどれほど至難か容易いか行ったことのない純一にはイマイチ分からないが、そういう気分転換が必要だという夜月の提言は重要に思える。
純一は息をつきながら伸びをする。それだけのことでなんだか幾つかのことが嘘のようにどうでもよくなっていた。もちろん現実にはナニも変わっていないが、変わっていなくても問題とするほど深刻でもない、いや、考える意味がない。
夜月は机の引き出しから階下の自転車の鍵を放って寄越した。
「バイクより自転車がいいでしょう。ヘルメットは置いていって良いですよ」
そんなふうに夜月は言った。
純一の挨拶に夜月は手で払うような仕草で追い出す。そこまで荒れていたらしい自分の雰囲気に思わず純一は苦笑してしまった。
そんな風に延びた陽を追いかけるように自転車を延々飛ばして、河川敷を走ってきた。バッティングセンターに着いてみると風が強く気持ちよかったがやはり暑く、ティーシャツどころか日除けに羽織っていたワイシャツまでが絞れるほどの汗をかいていた。
空はすでに夕焼けの時間帯も終いだったが、昼の日差しに焼けた夏の風は川をわたるモノでもやはり熱かった。
財布の中身を全く確かめずにきたが、財布を空にするか飽きるまでと想い定めてやってきたわけで、とりあえず手持ちの千円札を全部コインに換金してケージに入る。
ゴキンっガキンっという微妙に鈍い音をさせていたが、次第にバットの芯を捉える感触がわかってきた。レンタルのバットは流石に酷使されすぎて、様々な位置で変形していたので芯というのは少し癖があったが、よく飛ぶところが芯である、という大雑把な認識で良いという前提に立てるなら、まぁ芯という言い方でもいいと思う。その程度の下らない考察に思考を巡らせる余裕がある程度に、マシンの飛ばす軟球を持ったバットで弾き返すという作業に純一は馴れてきた。
だんだん欲が出てきて、ホームランのパネルを目掛けて打ち返すくらいの余裕が出てきたが、立ち位置の問題か純一の生来の癖かもう少し上手く調節ができない。ジリジリしながら打ち返す。
もうちょっともう一寸で、ジリジリと打ち返すと、隣のゲージで先にホームランが出た。
もう一発。となりの誰だかはとても上手い。
満足したのか、ワンコイン分でケージを出て行った。
純一は隣のスラッガーの存在にげんなりしながらしばらく頑張るが、急に集中力が落ちてきたのが分かった。さっきまで吸い込まれるようにバットに食い込んでいた軟球が全く近寄りもしなくなった。
さて、と思いながら、ケージを出て純一はジュースを飲む。
純一のズボンのポケットの中はまだコインで重たい。
球速は同じだったが隣のゲージのバットの方が、いやマシンの設定自体が、いやいやケージの位置自体がホームランのボードに近いのか。自分の理屈がおかしいことはわかっていたが純一は少しばかり本気でバッティングセンター攻略、というかホームラン賞――新品のボールがもらえるだけなのだが――を目指してケージに入っていた。
流石に二つ目のケージでは最初の時よりも純一の目も慣れ調整はうまくなっていた。だがやはり何かが違うらしく――もちろんバットも違う――ケージに置かれていたバットをワンコインづつ順番に振り抜き続け、しかし結局一周りしてもパネルにボールは当たらず、さっきは聞こえたファンファーレはならなかった。
隣のケージでボールを打ち返す音がし始めた。純一も改めて今度は左打者のボックスに入る。
バットは一周りしている。
キンっ。
悪くない音がしてボールがパネルのやや上に飛ぶ。
――惜しい。
そう思ってすこしばかり満足気な顔をしたその目の前でとなりのケージが弾き返したボールが、ぽくん、とパネルを叩いて、安っぽいファンファーレ。
さすがにムッときた。一球、見逃してしまうほどに純一は頭にきていた。
我ながら子どもっぽいと純一は思ったが、単純に気合が入っていた。
結局ワンコインづつバットを左右の打席で一周りさせたが、ファンファーレが鳴ることはなかった。
隣も今度はさすがに二度は鳴らさなかったが、そういう問題でもない。
まだ街の夏の空は暗いという程でもなかったが、充分に夜だった。
「ゴメン。晩ごはんいらないから、先に食べてて」
辛うじて思い出した家への電話をかけて、未来にそれだけ告げると電話を切り、純一はまた隣のケージに入った。
このケージは少し球速が速いらしい。
球速が違うとさっきまでとは少し雰囲気が違ったが結局は軟球だと当てれば感じはつかめてくる。最初は当てて次第に振り抜いていけば、いつの間にか球速にも慣れていた。球速が速いとマシンのばらつきも少ないらしく、打ち返すボールの行先もある程度は絞れ始めてきた。
なんとなくパネルの周りに集まり始めていた。
けンっ
多少あたりは悪かったが、フラっと上がった打球がパネルに向かっていた。
――イケるか。
キンっ
となりのケージからそれこそ矢のような打球が純一の打球をはじき飛ばし、パネルを叩いた。純一のボールは明後日に弾かれていた。
――ぱぱぱぱっぱぱー。
その光景を見て、純一は戦意を喪失してケージを出た。
隣のケージから出てくる人物をせめて見ようと純一は思った。
別に殴りかかるとかそんなつもりは純一には毛頭なかった。
この酷く交通の便が悪い客の少ないバッティングセンターでどんなダレが来ているのか。近くの高校球児か。ウチの大学の暇人か。一体どんな野郎があてつけがましくも、このへっぽこバッターのケージの隣でパカパカとホームランを出してみせたのか。まだ少し残っているコインを使う前に確認してから、別のケージに入ろう、と純一は思っていた。
出てきた人物を見て、純一は驚いた。
金城基女史だった。
「お、エラい頑張ってるからダレかと思ったら、畑中くんか。こんばんは、奇遇ね」
「こ、こんばんは。こんなところでお会いするとは」
流石に純一に言葉もなかったが、とりあえず挨拶を返すくらいの知性は残っていた。
「うん。私も驚いた。会社からちょっと遠いから、知り合いに遭わないと思っていたんだが、まさか君と遭うとは思わなかった」
金城女史は身体を動かし暖まった柔らかさのままにニコヤカに言った。
服装は白衣以外はオフィスの姿と大差なかったが少し違和感を感じた。目の高さが低い。
「――お、そうだった。プレゼントありがとう。コレいい感じね」
金城はたったまま足を組んでかかとを浮かせてみせる。足元にはプレゼントしたハーフブーツ。
「あ、使ってくれているんですか」
「なかなか気の利いた誕生日プレゼントだったわ。まさかこの歳になってもらうとは思わなかったから、ちょっと驚いたけど実にいい感じ。普段使いに使っているわ。よく私の足の大きさなんて知ってたわね」
「はぁ、静電靴あったんで、同じ大きさならイケるかなと」
「あー、なるほど。けっこう私のサイズになると国産のものが減っちゃうのよね。ユニセックスデザインかもだけど気に入ったわ。ありがとう」
「いえ、使っていただけているならウレシイです」
どことなく呆けたまま純一は応えた。
「じゃぁ、私はつかれちゃったから帰るね。バイクでしょ?送らないわね。またそのうち」
今ひとつキレの悪い純一を疲労困憊と見たのか、金城は純一をおいて帰っていった。
スッカリ日も暮れて遅くなって事務所に帰ると鍵がかかっていて、ギルガメッシュタバーンのマスターが鍵と伝言を預かってくれていた。
さして旨くもないラーメンを食べて家に帰ると未来がお茶漬けを用意してくれた。
疲れてはいたが、クサクサした気分は抜けていたので、妙に腹の具合がよかった純一は、美味しく食べた。
風呂にはいる準備をしようと部屋に戻った純一はふと引き出しの中の鍵を見てみる。夜月の事務所の鍵を並べると鍵の頭の部分が一回り長く複雑に見える。厚みのある扉であることはわかる。
鍵の話を寝物語に未来に聞いてみることにした。
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復讐のための五つの方法
炭田おと
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