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第二部
プロローグ
しおりを挟むルファイリアス帝国内、王都、貴族街、深夜――。
◇
『ふざけるなッ!!!』
真夜中、大きな怒鳴り声に驚き、モンテル・ニコラス・ストレイト侯爵令息は目を覚ました。上半身を起こし、周囲を確認する。目の前に広がる夜の闇と、耳に聞こえる静寂に、先ほどの怒鳴り声は夢だったのかもしれないと、モンテル少年は考える。
十歳になったばかりのモンテル少年が悪夢に魘されることは、それほど珍しいことではなかった。
――しっかりしなくちゃ。兄上さまも仰っていた……こんな弱虫のままじゃ、聖術士になれる魔力があるからって、司教になんかなれない。
今度こそ、朝まで深い眠りを得ようと、再びベッドに深くもぐり込み、目を閉じたその時――。
『……ってもらおうとは、思って……よ』
『――やめろッ! 貴様ッ!』
――確かに聞こえた! あれは父上さまの声だ! 今のは、夢でも幻聴でもない!
そう確信したモンテル少年は、ベッドから飛び起き、靴下だけを足に着けると、静かに部屋の扉に聞き耳を立て、廊下の様子を確認する。緊張から、心臓がバクバクと音を立て、恐怖から身体がすくむ。それでも、聞こえてきた父のピンチを聞き流すことはできなかった。
聖術士として――そして、侯爵令息としてのプライドが、それを許さなかった。
一つの明かりもついていない、月明かりだけが頼りの廊下を進み、父の声がする方角を目指し歩く。足音を立てないように静かに、そして迅速に。
モンテル少年の私室は二階にあるが、父の寝室と執務室は一階にある。声は階段を伝い、一階から聞こえてくる。足下が靴下だけであるため、気配を隠すのは容易いが、少し滑る。
モンテル少年は、足音を忍ばせながら、細い明かりが漏れる部屋の前へ辿り着いた。ここは、両親の寝室だった。
「そのような、教会の認定を受けていない古文書を信じ、この国を滅ぼすつもりか!」
父の怒号が響く。母はどうしたのだろうかと、少年の胸に少しの不安が込み上げてくる。
――兄上さまを、呼んでくるべきだったのだろうか……。
でももう、ここまで来てしまった。引き返すより、起こっていることを確かめる方が、早いと思ってしまった。ドアに忍び寄り、わずかな力を込めて、扉を少しだけ開ける。日頃から、使用人たちが清め続けているドアだ。耳障りな音を立てることなく、扉はほんの少しだけ開いた。
開いた扉の隙間から、中の様子をうかがい、見てしまった。
父が、見覚えのある男に刺し殺されるのを。
男が振り上げた右手には、月光を反射する短剣が握りしめられていた。それを、男は、父に――――振り下ろすのを。
「――ッ!!!」
悲鳴が漏れそうになり、慌てて口を押さえる。必死になり過ぎて、自分の顔に爪を立てていることにすら、気づかないほどに。
それでも、細心の注意を払っていても、モンテル少年はやはり十歳の少年だった。
――だから……だから言ったんだッ! 兄上さまのバカッ!!!
兄の私室がある二階へ戻ろうと踵を返し、自分の足に躓いた。静かな空間に、少年が転ぶ音は遠くまで響いた。当然、男のもとにも。
「誰だ!」
大人の男の殺意が込められた罵声。十歳になったばかりのモンテル少年には、これ以上ない恐怖だった。震えてこわばる身体に活を入れ、なんとか二階にある兄の私室へと走る。兄の私室は、自分の私室と正反対の場所にある。長い廊下の端と端に、お互いの私室はあった。
二階へ続く階段を駆け上っていたモンテル少年の目の前、薄暗い階段の踊り場に、一匹の白く輝く獰猛な獣がいたことに。
聖術士として目覚めたばかりではあったが、彼には分かった。あれは、忌むべき呪いに類する存在だと。神々しいばかりに白く輝いてはいるが、それは見かけだけ。その内には、悍ましいまでの妬み嫉みが渦巻いていることが、彼には分かった。
怯えて逃げようと、後ろを振り返りかけた時に、気づいた。淡く白い光を放つ獣の足下に、よく知る――――華族だった者達の姿があることに。
獣が放つ淡い光に照らされて、血に濡れた家族が――母と姉が。薄暗い中でも分かってしまった。恐怖に見開かれた瞳、引き千切られボロボロになった衣類、頭がそれ以上の理解を拒む、赤い景色。
叫び出しそうになる口を、押さえながら、モンテル少年は階段を駆け下りる。魔獣から逃げるために、犯人から逃げるために、兄の元へ危機を知らせるために。
――兄上さま、兄上さま……っ!!!
階段を駆け下り、使用人用の迷路のような通路を走り、兄の部屋を目指す。兄の部屋周辺には、獣から漂っていた禍々しい気配は感じられなかった。兄は無事でいるだろうか? 無事でなかったら……次に死ぬのは自分だ。
「兄上さま!」
私室の扉を乱暴に開き、兄が眠っているベッドのそばへと走り寄る。
――いない……兄上……さま……。
「こっちだ!」
ベッドに眠っていると思っていた兄がいないことで、全てを諦めかけたモンテル少年だったが、兄の声は部屋の奥から聞こえてきた。ベッド下から這い出てきた兄を見て、これまでの感情が爆発したのか、中腰体勢の兄に、モンテル少年は縋り付いて泣く。
「だから……だから言ったじゃないか! 兄上さまは、あんな人に誑かされて……!」
「ごめん、ごめんな……」
兄は、泣きわめくモンテル少年を抱きしめて、あやすように背中を撫でた。二人揃って、ベッドの脇に座り込んだままの体勢で。
少年は気づいた。閉じられた窓の隙間や、後方にある扉の隙間から、焦げ臭い匂いが漂ってくることに。日中であれば、周囲に漂う煙も見ることができただろう。
鉤爪が床板を削りながら立てる、カツリカツリという足音が、徐々に近づいてくる。扉の向こうから、獣の息づかいが聞こえる。
恐怖から、強く強く、兄にしがみついていたモンテル少年の耳に、カタン、という小さな音が届いた。視線を彷徨わせてみれば、兄が右手に短剣を握っているのが見えた。
――え……?
「兄上……さま?」
兄が、何とも言えない表情で、哀しみとも無表情とも思える表情で、自分を見ている。
「……すまない、モンテル――――」
それが、少年が最後に聞いた、兄の声だった――――。
◇
――号外・『エミール・ヴェルナー・バイアー王即位!』
サミュエル・ジェイ・ストレイトは、手にしていた号外を丁寧にたたみ、適当な大判書籍に挟み込み、私室の本棚へとしまった。窓からは、日の出間近の仄かな明かりが差し込んでいるとはいえ、小さな文字を追うには不便な明るさではあった。
それでも、サミュエルは明かりをつけようとはしなかった。
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