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◆ 第5章

25. 仮初め夫は心配性 前編

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 六月の最終出勤日。

 まだまだ梅雨が明けずどんよりと鈍い空模様に誘引されて雷が落ちたように、支倉建設秘書課の朝礼に激震が走った。強い衝撃を味わったのは、おそらく七海だけではない。

 室長の潮見に名前を呼ばれて課内全員の注目を受けた佳菜子が、少し照れたように微笑んで頭を下げた。

「私事で大変申し訳ございませんが、かねてよりお付き合いしていた男性との結婚を期に、このたび支倉建設を退職することとなりました」

 垂れた頭を上げて優しげにはにかむ佳菜子に、内心驚きつつも周りと同じように祝いの拍手を送る。

 もちろんおめでたい話であるし嬉しいと思う気持ちもあるが、佳菜子本人からも、そして彼女が秘書を担当している父・稔郎からも、七海は何も聞いていない。

 しかしよく考えてみれば父は業務上の雑談で知った秘書のプライベートをべらべら喋るような人物ではないし、同期とはいえ七海と佳菜子は特別に仲がいいわけでもない。

 すぐに「それもそうよね」という結論に達する七海だったが、何気なく秘書室内を見回してみると、数人の女性秘書が憮然とした表情で佳菜子を見つめていることに気がついた。

 それが裕美、智子、晴香の三人であると苦笑いするしかない七海だったが、本当の衝撃はこの後だった。

 潮見が引き継ぎや今後の秘書課内の担当について説明していると、ふと入り口の扉がコンコンとノックされた。七海を含めた室内の全員がそちらへ顔を向けると、ガチャ、と開いたドアの向こうから顔を出したのは、他でもない社長の将斗だった。

 にこりと微笑んだ将斗が、潮見に向かって軽く手を上げる。

「おはよう。悪いな、朝礼中に」
「ああ、いえ」
「手短に済ませるから、少しだけ時間をくれ。――新野さん」
「はい」

 意外なことに乱入してきた将斗が呼びつけたのは七海ではなく、たった今課内に結婚の報告をした佳菜子だった。将斗の突然の呼び出しにその場にいたほぼ全員が驚いたが、佳菜子と潮見だけは将斗の指示に対してそれほど驚く様子を見せない。

「会社への結婚報告、今日だって聞いたから」
「はい。支倉社長には本当にお世話になりました、ありがとうございます」
「いや? 俺の方こそ拓臣たくおみを引き取ってくれて感謝してる」
「たくおみ……?」

 七海を含めたその場の全員が将斗と佳菜子の会話をじっと見守っていたが、不意に差し込まれた名前に疑問を感じて、つい訝しげな声を発してしまう。それを聞いた将斗は佳菜子から視線を外すと、七海の顔をちらりと見つめてにやりと笑った。

には言ってなかったか? 新野さんの結婚相手、俺の友人なんだよ」
「えっ……?」

 さらっと告げられた台詞に驚いたせいで、思わず驚きの声が出る。佳菜子の結婚自体をいま初めて知ったのだから当然と言えば当然であるが、その相手と将斗が友人同士だとは微塵も想像していなかった。

 そしてその『友人』という単語から思考を巡らせて気がつく。これでも四年以上彼の秘書をしている七海だ。完璧ではないにしろ、多少ならば将斗の交友関係も把握している。

「あの、拓臣さんって、もしかして天宮あまみや旅館グループの天宮拓臣常務……ですか?」
「ああ」

 将斗が頷くと秘書室内にざわめきが広がる。

 天宮旅館グループといえば、古き良き和の趣を取り入れた『天宮旅館』をはじめとする『天宮スパリゾート』『天宮温泉』『天宮観光ホール』などの温泉ホテルや温泉旅館を経営する企業だ。

 天宮旅館グループのホテルや旅館の建築や建設にも支倉建設が携わっており、さらに常務である御曹司・天宮拓臣も三十代半ばの未婚男性であると記憶していたが――まさか将斗の友人だったなんて。

 しかもその友人と、佳菜子が結婚することになるなんて。

「実は柏木部長から、『私の秘書の新野さん、すごくいい子なんだが、誰かいい人いないだろうか』と相談を受けてたんだ」

 将斗の告白に思わず「えっ?」と不機嫌な声が出る。人の結婚話に首を突っ込みたがるおばさまの存在はたまに見聞きするが、まさか自分の父がそれと同じことをしていたなんて……と青褪めてしまう。

「お父さん……?」
「あ、支倉さん、違うのよ! 柏木部長はお節介とかハラスメントとかじゃなくて、本当に私の心配をしてくださってたの」

 七海のげんなりした声に反応したのは、将斗ではなく佳菜子だった。あわあわと手を振る様子から、父が部下の恋愛に首を突っ込むお節介おじさんではないと知り、ほんの少しだけ安心する。

「拓臣からも『誰か紹介してくれ』って泣きつかれててな。あいつ毎日死ぬほど忙しいくせに、親から結婚せつっかれて一時期相当参ってたみたいだから」
「では、それで二人を……?」
「ああ、ぴったりだと思って。いい判断だろ?」
「……」

 将斗ににこりと笑われても、七海は天宮グループの御曹司である天宮拓臣のプライベートな人柄はわからないので、簡単に頷くことはできない。だがちらりと様子を窺った佳菜子がとても幸せそうな表情をしていたので、それが答えなのだろうと思う。きっと、将斗の判断は間違ってなかったのだ。

「拓臣に『祝いを渡すから少し時間を作れ』と伝えてくれ。あとこれは、会社とは関係なく俺個人から新野さんに」

 黙り込む七海を余所に、将斗が佳菜子に封筒のようなものを差し出す。それが結婚祝が入った『祝儀袋』で、見た目の厚さからそれなりの金額が包まれていることを知ると、七海だけではなく佳菜子もぎょっと目を見開いた。

「そんな! 頂けません……!」
「いいから、受け取ってくれ。七海と仲良くしてくれてありがとう。拓臣のこと、頼むな」
「は……はい……ありがとうございます」

 将斗が〝七海の夫として〟佳菜子にお礼の言葉を告げる。その文言に何か微妙な引っ掛かりを覚えた七海は人知れず眉を顰めたが、違和感の正体に気づくと同時に、将斗に声を掛けられた。

「柏木。朝礼が終わったら、早めに上がってきてくれ。親父から帝祥ていしょう医大の緩和病棟増設の件で聞きたいことがあると言われたんだが、資料がどこにあるかわからないんだ。悪いが探してほしい」
「かしこまりました」

 プライベートの用件は終わったとばかりに呼び方を『柏木』に戻され、しかも仕事の用事を言いつけられたので、七海もプライベートの用件と感情を引っ込めて返答する。

 将斗が秘書室を出て行くと、一呼吸遅れて潮見がコホン、と咳払いする。その合図を受けた全員の視線がこの場を取りまとめる上司の元へ移動した。

「新野さんの業務の引継ぎについては、来週中に担当を振り分けて個別に依頼しますので各自で新野さんと連携を取って下さい。柏木部長の次の担当秘書についてはこちらで選出して、決まり次第再度共有します。では質問がなければ、本日の業務を開始してください」

 潮見が一気に指示を出して朝礼を終わらせる。怒涛のように告げられた伝達事項に混乱する七海だったが、朝礼が終了した直後に別の混乱がやってきた。

「柏木さん! 資料探すの、手伝いましょうか?」
「え……え?」

 まずは佳菜子にお祝いを……と思っていた七海の行動を遮るように、先輩の裕美が七海の元へ駆け寄ってくる。

 裕美の剣幕に押されて思わずビクッと驚く七海だが、彼女の魂胆はすぐに理解した。思わず、顔が引きつる。

「あ、ありがとうございます……。でもおそらく社長室のどこかにあると思うので、まずはそちらを探してみますね」
「何か手伝えることあったら、遠慮なく言ってね! いつでも協力するから!」
「は、はい」

 昨日まで、なんなら今朝まで七海に対して冷ややかな目線を向けてきた裕美の、この変わり身の早さ。表面上は穏やかに返答しながらも、内心では『ああ、やっぱり』と思う。

 さきほど感じた『違和感』の正体を――将斗の仕掛けた罠に、あっさりと獲物がかかったことを、一瞬で理解する。

 冷静に考えると、将斗の行動はかなりおかしい。

 本来なら上司から部下へのプライベートのお祝いを、わざわざ皆が見ている場所で渡す必要はない。しかももうすぐ仕事が始まる時間なのだ。秘書課の朝礼は他の部署より早いのでぎりぎり始業時間の前とはいえ、どう考えても将斗の行動は不自然である。

 確かに社長の将斗は忙しいから他に時間を作れない、改めて佳菜子に会う暇がない、と言われたらその通りかもしれない。

 だがこうやってこれ見よがしに佳菜子を祝うのは……佳菜子の結婚相手が自分の友人だとわざわざ明かすのは、それなりの理由があったのだ。

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