捨てられた花嫁ですが、一途な若社長に溺愛されています

紺乃 藍

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1巻

1-2

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 しかしこれ以上将斗の手を煩わせるわけにはいかない。七海としてはあの場を乗り切る手助けをしてくれただけでも十分ありがたいのだ。ここから先は自分の力で、この非常事態を乗り越えなければならない。

「空気を壊さず挙式の場を切り抜ける知恵をお貸し頂き、本当にありがとうございました。後ほど改めてお礼をさせて頂きたいと思いますが、先にプランナーの方と相談をしてきてもよいでしょうか? 今からキャンセルが間に合うかわかりませんが、とりあえず披露宴の中止を……」

 とにかく今は、この後に予定していた披露宴中止の対応をしなければならない。挙式に参列してくれたゲストはもちろんのこと、披露宴から参加予定の親族や友人、仕事の関係者やお世話になっている知人が大勢いるのだ。
 花婿がいない以上、披露宴は行えない。ならば七海をはじめとした柏木家、そして慎介を除いた佐久家の面々は、ここまで足を運んでくれた人々に事情を説明して参列者全員に謝罪をしなければならないだろう。

「は? おまえ、何言ってるんだ?」

 ところが七海の決意を聞いた将斗は、なぜか不機嫌な声を発する。いかにも不服そうな口調を不思議に思って顔を上げると、将斗が呆れた表情で七海を見下ろしていた。

「中止にする必要はない。披露宴もこのまま続ける」
「は……はい……?」

 思いもよらない将斗の発言に思わず声がひっくり返る。
 理解が追いつかないまま首を傾げると、七海に一歩近づいた将斗が口の端をニヤリとつり上げた。

「柏木、さっき俺と結婚するって誓ったよな?」
「え……? でも、だってあれはその場しのぎの嘘で……」
「俺がそんな無意味な嘘つくわけないだろ。本気に決まってる」
「!?」

 将斗の衝撃的な発言に再び固まってしまう。
 何かの冗談だろうか? 今の七海に、将斗の悪戯や遊びに付き合っている時間はないというのに。

「参列者の大半は、結婚相手が変わってもさほど問題には思わないだろ? 柏木の友人や親戚は佐久じゃなくても祝福してくれるだろうし、おまえも佐久もうちの社員なんだから、仕事関係者はみんな俺のこと知ってるしな」
「慎介さんの親族や友人にしてみたら、社長は他人じゃないですか……」

 もうどこからツッコミを入れていいのかわからない七海は、とりあえず最後の言葉だけを拾って反論を試みた。しかし将斗は七海の意見を聞いてもため息をつくばかり。

「花嫁置いて逃げた奴の身内のことまで、俺が知るかよ。そいつらが参加したいならすればいいし、帰りたいなら帰ればいい」

 どうやら将斗は、本当にこの後の披露宴も続行するつもりらしい。唖然とする七海の前で、腕を組んだ将斗が小さく唸る。

「あとは俺の身内か。まあ、呼べば今から来る奴もいるだろうが、そこはいなかったらいないでもいいだろ」
「社長……? ご自身のお立場、わかっておいでです……?」

 あくまで披露宴開催の方向で話を進めようとする将斗の提案に、驚き半分呆れ半分の気持ちで問いかける。だが将斗は七海の懸念も軽く受け流し、続行を前提に状況の立て直しを図ろうとする。

「俺の立場なんて大したものじゃない。それより今から披露宴をドタキャンして、式場や参列者に迷惑をかける方が問題だ。中止にすれば結婚を報告してきた奴らにも白い目で見られる。会社としても外聞が悪いし、縁起も悪い。おまえはもちろん、普段から一緒にいる俺までいい笑い者だ」

 確かに、将斗の言い分も一理ある。
『柏木七海』は支倉建設の代表取締役社長である『支倉将斗』の秘書を務めている。就職した初年度から秘書課へ配属となり、一年目は先輩秘書に付いて勉強と研修、二年目は人事部長の秘書補佐を勤めていたが、三年目に当時の社長秘書が産休に入ったことにより七海が後任として抜擢された。
 以来二年半以上、膨大な仕事量に食らいつき将斗にこき使われてきた七海は、社内外を問わず『将斗の女房役』として認識されている。七海自身にもその自覚がある。
 つまり将斗の成功は七海の成功であると同時に、七海の失態は将斗の失態にもなりうるのだ。七海が結婚式をキャンセルして多くの人に迷惑をかければ、将斗の社会的評価にも影響する――と言われれば、絶対にあり得ないとは言い切れない。

「だから柏木。俺に恥をかかせたくないなら、おまえは今夜を乗り切ることだけに集中しろ」
「で、ですが……」
「別に難しいことじゃない。いいか? おまえは想定外の事態に乗じて思いもよらない求婚をされた花嫁だ。片想いをこじらせた上司からの突然の申し出を断れず、俺の想いを受け止めざるを得なくなった秘書として振る舞えばいい」
「社長が、私を……?」

 将斗が提示してきた偽りの設定に、訝しげに首を傾げる。どう考えてもあり得ない、明らかに嘘だとわかる作り話に言葉を失っていると、七海の表情を確認した将斗が一瞬表情を曇らせた。

「っ……そういう設定、だ」

 ほんの少しムッとした表情を見せた将斗が、何かを言いかける。だがそれは呑み込むことにしたらしく、代わりにため息交じりで『設定』の一言を吐き出された。いつも強気な将斗にしては珍しいやや弱腰の態度が気になる七海だったが、今はそれ以上に気になることがあった。

「ですが、それでは社長が……」

 七海は将斗の女房役として認識されているが、未来永劫、何をするにも運命共同体というわけではない。確かに結婚式の最中に花婿に逃げられ、方々に迷惑をかけて謝罪して回ったなど、醜聞もいいところだ。懇意の取引先や仕事関係者にも結婚の報告をしているのだから、彼らが七海を心配したり、逆に面白おかしく騒ぎ立てられることもあるだろう。
 だがだからこそ、今回の件と将斗が無関係であると印象づけておきたい。業務上将斗の都合に七海が巻き込まれることはあっても、七海の事情に将斗を巻き込むことなど決してあってはならない。自分の失態が原因で将斗のプライベートを奪うことだけは、絶対にしたくない。
 将斗にもその意図は伝わっただろう。しかし確かに通じたと思ったのに、彼は七海の意思とはまったく違う方向へ舵を切った。

「わかった。じゃあ少し時間を空けて『やっぱり上手くいかなかった』と言って離婚すれば、納得するんだな?」
「え? ……はい?」
「まあ確かに、今の時代バツの一つや二つ、さほど珍しくはないもんな」
「いえ、そういう意味じゃ……!」

 将斗の的外れな提案に狼狽する七海だったが、口を開いた瞬間、控室の扉がコンコンとノックされた。室内に響いた高い音にハッと振り返ると、扉の外から『柏木さま……?』と不安そうな女性の声が聞こえてくる。声の主は今回の挙式と披露宴の企画から準備、実際の進行まで一手に担ってくれているウェディングプランナーのものだ。

「とにかく、披露宴を台無しにして参列者を失望させたくなかったら、ここは俺に任せてくれ」

 女性の声を聞いた将斗も、秘密の作戦会議を一度引っ込めるべきだと悟ったらしい。有無を言わさずそう宣言した将斗が、扉に向かって歩き出す。
 そんな将斗が扉を開ける直前、ふと首だけでこちらへ振り返ってニヤリと笑った。

「ま、その前に乗り越えなくちゃならない修羅場があるんだけどな」
「え……?」

 意味深な発言と同時に将斗が扉のドアレバーをがちゃりと引き下げる。扉を開いた先に広がっていた光景を目の当たりにした七海は、彼の言葉の意味をすぐに理解した。
 将斗の言う通り、そこは修羅場の真っ只中だった。

「これは一体どういうことですか、佐久さん!」
「わ、我々だって混乱してるんだ! まさか慎介がこんなことをしでかすなんて……!」
「私たちだって、まさか七海がこんな仕打ちを受けるとは思ってもいませんでしたよ!」
(お、お父さん……大激怒してる!)

 友人たちや他の親族たちはチャペルがあるフロアを出て、ホテルのロビーや披露宴会場であるホールへ先に移動したのだろう。その場に残っていたのは七海の両親と慎介の両親だけだったが、両父親たちは今にも掴みかかりそうなほどの苛立ちと興奮――まさに一触即発状態だった。
 緊張の現場を目にした七海も言葉を失って立ちすくんだが、そこに堂々と足を進めたのは他でもない将斗だった。

「まあまあ、柏木部長。少し落ち着いてください」
「! 支倉社長……」

 総務部長である稔郎にとって、社長である将斗は二回り年下の上司である。目上の者にまで迷惑をかけたと知ると、それまで憤慨していた父の激昂が少しだけ和らいだ。
 そもそも将斗が披露宴からではなく挙式から参列していた理由は、彼に披露宴で祝言の挨拶をお願いしていたからだ。七海と慎介の結婚を職場の代表、そして共通の上司として見届けるはずだった将斗にとんだ無駄足を運ばせてしまったとあれば、稔郎も申し訳ないと地に額を擦りつけたくなることだろう。

「このたびはお見苦しいところを……。身内の問題に社長を巻き込んでしまい、お恥ずか……」
「頭を上げてください。柏木部長はこれから、俺の義父ちちおやになるのですから」

 謝罪の言葉を並べて深々と頭を垂れる稔郎に、将斗がさらりと言い放つ。堂々とした台詞に驚いたのは、将斗以外のその場にいる全員だった。

「……え」
「はい……?」

 七海と稔郎の声が重なると同時に、全員の動きが停止する。
 だが場の空気が変わっても将斗の笑顔は変わらない。

「先ほどお伝えした通りです。俺の仕事は柏木に――七海さんに支えられることで成り立っています。彼女の溌溂とした仕事ぶりと秘書としての優れた能力、自分の都合よりも上司の仕事や体調を優先して気遣ってくれる健気さと優しさ……不甲斐ない俺を叱咤激励してくれる強さに、毎日助けられています。そんな七海さんに、俺は以前から惚れ込んでいました」
「え、ちょ……しゃちょ……?」
「けど自分の感情を自覚した矢先に、恋人がいると聞かされました。だから諦めていたんです。ですが七海さんが結婚しないというのなら、俺はこの機会を逃したくない」
「……」

 少し困ったような笑顔を浮かべて照れくさそうに内心を吐露する将斗だが、この場にいる人々の中で七海だけは彼の本音を知っている。
 将斗の言い分はすべてフェイクだ。披露宴を土壇場でキャンセルするという最悪の事態を回避すべく、自ら考えた作戦をより信憑性の高い事実に見せるために言葉のトリックを使っているようなもの。事実を知る七海にしてみれば、詐欺に近いとさえ思う。

(確かに、この状況でそれっぽい作り話を噛まずにスラスラ言えちゃうのはすごいけど……)

 七海しか見ていない場所では完全にだらけきっていて、来客用のソファに寝転がったまま起きやしないし、書類仕事からは逃亡しようとするし、すぐに七海にじゃれついてくる。これが大企業の社長だなんて、世も末だと思うほどだ。
 だが一度仕事のスイッチが入ると、別の意味で手に負えない。集中力はどこまでも持続するし、相手がどんな大企業の重役であろうと決して屈さない。自分に有利な取引を進める話術や交渉術にも長けていて、本気になった将斗を横目で見るたびに虎視眈々と獲物を狙う獣のようだと思う。
 将斗を一言で表現するならば『やる気のない天才』だ。彼は相手が誰であっても、絶対に爪や牙を見せない。柔和な態度で、紳士的な姿勢で、優しさの権化みたいな笑顔で相手に近づいていく。
 それは今だって同じだ。ずっと惚れていた、けれど七海の幸せを願って身を引いていた、なんて切ない表情で語られれば、皆あっさりと信じるだろう。つい数分前まで偽装結婚の作戦を立てていた七海ですら、危うく信じそうになるぐらいだ。

「柏木部長。この場をどうか、俺に任せてくれませんか」

 将斗の豹変ぶりと咄嗟の演技力に呆れ半分感動半分の気持ちで立ち尽くしていると、将斗が稔郎に向き直った。

「俺がどんなに本気でも、心を込めて七海さんへの想いを語っても、この状況では七海さんも柏木部長も奥様も、すぐには受け入れられないでしょう。あんな事があった直後に別の男の言葉を信じられないのは、当然だと思います」

 将斗の言う通りだ。どれほど熱烈に想いを語られても、急遽新郎を交換して披露宴まで続行するなんて、いくらなんでも無理がある。七海も十分傷ついているが、それは両親だって同じこと。挙式の真っ最中に花婿が結婚を放棄したさっきの今で、別の男性との結婚など考えられるはずがない。
 まして代わりに名乗り出た相手は、大企業の御曹司で会社のトップに君臨する『社長』なのだ。上司と秘書という間柄のため日々の接点は多いが、ごく一般人である七海との結婚を簡単に決めていいはずがない。

「ですから態度で示します。今夜の披露宴、俺が支倉建設の体裁と柏木部長の面子を保つためにも、全身全霊をかけて必ず成功させます」
「……!」

 そう思っていた七海たち親子の前に将斗が並べたのは、あろうことか『会社のイメージの損失』と、総務部長という立場にある稔郎の『社会的責任』だった。
 稔郎も察したのだろう。ここで結婚式と披露宴が失敗するようなことがあれば、努力家で責任感の強い稔郎の社会的地位が脅かされるかもしれない。取引先や顧客の耳に入れば、祝言の挨拶をする予定だった将斗や、彼が背負う支倉建設のイメージダウンにも繋がりかねない。

(……違う)

 否、本当はそれすら些末事にすぎない。将斗に稔郎を脅すつもりがないことを――将斗の言葉にそれよりも深い思考と感情が含まれていることを、おそらく今の一瞬で稔郎も正確に読み取った。
 将斗が本当に心配しているのは、支倉建設の体裁や稔郎自身の立場が危ぶまれることではない。彼は周囲の者が辛い状況に陥ることで、結果的に『七海が悲しむこと』を危惧している。父や上司が後ろ指をさされたり非難されたりする姿を目にすれば、七海が苦しみ、自責の念に駆られるかもしれない。その状況を何よりも憂いている、と匂わせているのだ。

「私は……」

 将斗の言葉は、稔郎の不安を揺さぶる火種としては十分すぎる威力があった。七海を傷つけたくないという点においては、愛娘を想う稔郎の親心と片想いの相手を慮る将斗の思惑は完全に一致している。そこを突かれた稔郎の動揺が、七海にもひしひしと伝わってきた。
 物静かで厳格な父の困惑の表情を見ていると七海もまた動揺してしまう。父にこんな思いをさせている自分が、ただただ不甲斐なく情けない。

「もちろん七海さんを困らせることがないよう、最大限に配慮してフォローします。ですから……そうですね、一年の猶予をくれませんか」
「一年の、猶予……?」

 将斗の提案に稔郎が顔を上げる。

「ええ。一年かけて、七海さんに惚れてもらえるよう努力します。その間、俺が七海さんの幸せと笑顔を保証します。けれどもし一年経っても俺が七海さんに相応しくないと判断されるのであれば、そのときは潔く身を引きましょう」

 将斗の真剣な横顔を見ているうちに、彼の真意を知る七海までドキドキと緊張してくる。将斗の言葉と態度はすべて演技だと知っているのに、まるで本当に七海に恋焦がれていて、熱烈に求愛されているように錯覚するのだ。

「もちろん俺の片想いですから、同居してほしいとは言いません。別居でも実家暮らしでも構いませんし、プライベートで会うときはご両親の許可を頂く形でも……」
「わかりました……」
「え、お……お父さん!?」

 真剣に言い募る将斗に根負けしたのか、稔郎が将斗の言葉をぽつりと遮った。その瞬間つい大声を出してしまう七海だったが、改めて父の表情を確認するとそれ以上の言葉は出てこなくなる。

「私の体裁なんて、本当はどうでもいいんです。私はただ大事な娘に……人生に一度きりの晴れ舞台で、みじめな思いをさせたくないだけなんです」
「お父、さん……」

 父の姿が小さく思えた。それに寄り添う母の姿はさらに一回り小さく感じた。それぐらい父と母を驚かせて深く傷つけてしまったのだと思うと、慎介の顔を平手打ちしたい気持ちよりも、自分の頬を自分で殴りたい気持ちが勝る。晴れの舞台でこれ以上ない親不孝な状況を作り上げてしまった自分が許せなくなる。
 ぐっと手を握って俯いた七海だったが、隣に歩み寄ってきた将斗に肩を抱かれたことで我に返った。顔を上げると同時に、さらにその肩を強く抱かれる。
 肌が露出している寒さなのか、後悔なのか、それとも『将斗の妻』という突然やってきた想像だにしない大役に怖気づいているのか。入り乱れる感情に揺れて無意識に震えていた身体に、ふとぬくもりを与えられる。将斗の温度で、ゆっくりと平常心を取り戻していく。

「たとえ急ごしらえの披露宴になっても、俺の気持ちだけは本物です。七海さんを悲しませるようなことだけは、絶対にしません」
「……七海は、どうなんだ」

 ふと稔郎に声をかけられたことで、自分の意思を訊ねられていることに気づく。
 ――一瞬だけ、迷う。
 心の中は荒れていた。社長にそんなことはさせられません、と言いたかった。だがもう時間がない。家族を悲しませたくないという気持ちは、七海も両親に負けないほど強く持っていた。

「社長……よろしく、お願いします」
「――決まりだな」

 一つの宣言を残した直後、将斗の瞳の奥に小さな光が宿った。その瞬間を彼の腕の中から見つめていた七海も、条件反射的にピンと背筋を伸ばす。

「披露宴の開始を一時間遅らせます。参列者には受付で事情を説明して、参加するかしないかはご本人たちの判断を尊重してください。会場の装飾や装花、料理や飲み物はそのままで結構ですが、プログラムが大幅に変更になるので席から式次第を回収します。内容を見直したら変更箇所を伝えるので、進行係と介添の方に共有を。それからブライダルサロンにあるもので構わないので、俺が着れそうな衣装の用意をお願いします。あとは知人に頼んで『それらしい』ムービーを作らせるので、届いたらすぐに確認を。柏木部長は参列者への事情説明と挨拶の準備をお願いします」
「えっ、あ、あっ……」

 ウェディングプランナーは将斗の秘書ではない。七海のように慣れていないのだから、メモも用意していない相手にそんなに一気に指示するのは止めてあげたほうがいいのでは……と思ったが、見れば将斗の関心はもう次に移っている。
 ブライダルサロンの責任者の男性と話しているのは、参加人数が増えた場合や直前の変更に関わる追加費用のことらしい。全面的に自分が負担する、という将斗の提案に口を挟もうとした七海だったが、そこで将斗がふと言葉を切った。
 彼が七海の肩から腕を解いて向かったのは、慎介の両親の元だった。

「佐久さん」
「は、はい……」

 稔郎と異なり、佐久家の両親はどちらも支倉建設とは一切関係のない仕事をしている。それでも息子が勤める会社の社長相手だ。将斗に何を言われるのかと不安になって縮こまる二人だが、将斗がかけたのは意外な言葉だった。

「息子さんのこと、あまり責めないであげてください。自分の気持ちに正直になるのが遅くて後悔したのは、俺も同じですから」
「支倉社長……」
「それに彼も、うちの大事な社員です。七海さんを傷つけたことは許してあげられませんが、周りに迷惑をかけたことは仕事で挽回できます。状況が状況なだけに後ろ指をさされることもあるでしょう。ですが自分に正直になった息子さんの意思を、ご両親だけは受け止めてあげてください」

 佐久夫妻には、将斗の言葉が天から赦された証のようにさえ感じられただろう。七海の両親に負けず劣らず小さくなって縮こまっていた二人が涙を浮かべて深々と頭を下げる。

「寛大なお心に感謝します。本当に、倅が申し訳ございませんでした……っ」

 将斗はそれ以上何も言わず、会釈だけを残してブライダルサロンの責任者との打ち合わせに戻っていく。ただし振り向いた瞬間に将斗が発した台詞を、近くにいた七海だけは聞き逃さなかった。

「俺の方が感謝してるさ」
「……社長?」

 音は聞こえたが意味はわからない。七海が首を傾げると、将斗がまたやわらかな笑顔を浮かべて傍に寄って来た。どうやら誤魔化されたらしい。

「さて、柏木。方針が決まったからにはやることが満載だぞ。いつもは俺が支えてもらってばかりだが、今夜は俺がおまえをサポートする」
「え……えっと……」
「俺がおまえを『愛され花嫁』にしてやる。だから佐久のことは、披露宴が始まるまでにちゃんと忘れとけ」

 にこやかな笑顔で言い放つ将斗に、困惑のまま曖昧に頷く。
 今の今まで目の前に両親がいたのに失礼だとは思うが、実をいうと急展開の連続に胃が痛み、早い段階で慎介のことは頭の中から抜け落ちていた。というより他に考えなくてはいけないことが多すぎて、今ここにいない慎介のために情報処理の領域を空けておけなかった。
 しかし将斗は、七海が今も慎介のことを想っていると認識しているらしい。完璧な偽装夫婦になりきるためには慎介が邪魔だと言わんばかりに……七海の心を占領する存在が疎ましいと言わんばかりに、七海の身体を抱き寄せて耳元に悪戯を囁く。

「ちゃんと忘れて――早く俺に惚れてくれ、七海」
「!?」

 耳元で囁く将斗の声が、低くて甘い。変更準備が始まって慌ただしく動き回るスタッフたちの喧騒の中でも、将斗の声だけがやけに鮮明に聞こえる。心臓の奥まで、直接届くみたいに。

(っ……ただの、演技だから)

 どきどきと緊張したまま立ち尽くす七海にふっと微笑みを残すと、その場で支倉建設の会長である将斗の父に連絡を取り始める。将斗の「今夜これから結婚する」という冗談みたいな報告に、スマートフォンの向こうからは『冗談を言うな』と当然すぎる怒声が聞こえてきた。だが「相手は柏木だ」と告げると、なぜか『それならいい。俺も今からそっちに行く』と返されたらしい。
 いや、よくはないでしょう――と思う七海だったが、最後の砦ともいうべき将斗の父親からあっさり許可が下りてしまったことで、突然の『偽装溺愛婚』が完全犯罪になってしまった。
 そこから数時間、七海はウェディングドレスに身を包んだまま途方に暮れることとなる。


 そうして急遽花婿をすげ替えて執り行われた披露宴だったが、将斗の采配により本当に一時間遅らせただけで間に合ってしまったのだから驚くほかない。突然の変更でパニックになることも想定していたが、親戚の一部に『招待状と名前が違う』と首を傾げられたことと、職場の仲間に腰が抜けるほど驚かれたこと以外、七海の招待客にはほとんど影響がなかった。
 将斗の友人や親戚も一部は参加してくれたが、大企業の御曹司である将斗の結婚式となれば、本来は著名人や親交のある人を呼んでもっと盛大かつ華やかに行われたことだろう。一人申し訳なさで縮こまる七海だったが、当の将斗と遅れてやってきた彼の両親はずっと嬉しそうな表情だった。
 結局何が何だかわからないうちに披露宴を終えた七海は、ほとんどの時間を放心状態で過ごすこととなった。


   * * *


 怒涛の披露宴を乗り越えた七海は、本来慎介と宿泊する予定だったセミスイートルームのベッドに身を投げ出し、呆然と天井を見つめていた。
 披露宴の予定を一時間後ろ倒しにしていることから、同じホテルのバーを貸し切って行う予定だった二次会は、すべてキャンセルさせてもらうことになった。事情が事情なだけにホテルの人も嫌な顔はせず、『通常営業に戻すだけなのでお気になさらず』と七海の心労を慮ってくれた。
 そのため予定通り二次会を行っていた場合と比較すると、むしろ本来のスケジュールより早く今日の日程を終えたことになる。だが心や身体は正直なもので、七海は今にも魂が抜け出てしまいそうなほど疲労困憊状態だった。
 参列してくれた人々に謝罪と挨拶を済ませ、ホテルやブライダルサロンのスタッフにも丁寧にお礼を伝え、先ほどようやくドレスを脱いだ。その後宿泊予定の部屋に戻ってシャワーを浴びると、疲労以外の大抵のものはお湯と一緒に流れ落ちていった。だが七海の元に残ったものもある。

「さすがのおまえも、体力の限界か?」
「!」

 足元から声をかけられ、ベッドの上にがばっと起き上がる。視線の先にいたのは、七海の後でバスルームを使っていた上司――つい先ほど追い詰められた勢いで結婚した相手、支倉将斗だった。
 いつも左サイドに軽く流してさわやかに整えている髪が下ろされていると、どことなく幼い印象を受ける。だが備え付けのバスローブを纏うと、大人の余裕ある色気も感じられる。
 ちぐはぐな印象に瞠目する七海だったが、肌に纏わりついていた汗と困惑と緊張がシャワーの水圧で剥がれ落ちたおかげか、我に返って最初に感じたのは将斗に対する感謝の気持ちだった。
 ベッドの上に正座した七海は、シーツの上に三つ指を揃えると勢いよく頭を下げる。

「社長。本日は本当に……本当にありがとうございました。上司である支倉社長に多大なご迷惑をおかけしましたこと、深く反省しています」

 七海は今夜、将斗の機転に助けられた。披露宴を直前でキャンセルして大勢の人に迷惑をかけるという最悪の事態を免れたのはもちろんのこと、七海自身、そして稔郎を守ることができたのも、すべて将斗のおかげである。


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