「オレの友情は、愛よりも重い。」~龍神少年 肆~

火威

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「オレの友情は、愛よりも重い。」~龍神少年 肆~

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序幕

 おまえが望むなら、オレは一緒に堕ちてやる。

翡蓮ひれん、何があった!?どうして泣いてる?」
 声を張り上げたオレに、翡蓮は白い首をかしげた。
 細い首筋を、雨が伝っていく。
 真冬の雨なんて浴び続けてたら、風邪ひくだろうが。さっさと下りて来いよ、馬鹿。いつもなら簡単に口にできる罵倒の言葉が、今は言えない。
 何か一つでも間違えたら、翡蓮の張り詰めた糸が、切れてしまいそうだった。
 翡蓮が笑う。透き通った笑顔。翡蓮の顔なんて見慣れているのに。初めて見る笑顔だった。
 こんなに哀しそうな笑顔を、オレは知らない。
「翡蓮!!答えろ!なんで泣いてるんだ!!」
「泣いてなんかいないよ?」
 嘘だ。
 白い頬を、次々と、光る雫がこぼれ落ちていく。
 澄んだ碧の目が濡れて、金色のまつげから、また一つ。
「これは雨だよ。泣いてなんかいない。だって、オレはもう決めたから。」
 翡蓮が笑う。泣きながら笑う。
 やめろ、とオレは叫びそうになる。
 オレが見たいのは、そんな苦しそうな顔じゃねーんだよ!
 だけど、オレは怒鳴りたいのを必死にこらえる。
 駄目だ。
 今、この均衡を崩したら、翡蓮は。
 オレは、できるだけ声を抑えて訊く。
「おまえ、一体何をしようとしている?」
「消すんだ。」
 いつもの翡蓮なら、絶対言わないことを、笑いながら言う。
「みんな殺す。」
 いともあっさり言い放つ。
「オレからおまえを奪う者は、全部。」
 何かが、ピシリと音をたてて割れた気がした。

第一幕

 龍神国は、七柱の龍神によって創造され、守護されている国である。
 炎と太陽を支配する紅龍。
 光と安らぎを司る橙龍。
 大地に実りを約束する黄龍。
 風を統べ、嵐を起こす翠龍。
 天空と氷雪を操る青龍。
 海と水の象徴である藍龍。
 雷光と雷鳴を呼ぶ紫龍。
 龍神の力を使い、人々は邪悪を打ち払う。
 その技を、神術、それを操る者を神官と呼ぶ。
 神官の中でも、特別に龍の加護を受ける者は、証として瞳にその色彩いろを宿す。それが、<龍神の御子>。

「二級神術発動、烈火狂爆、狂咲!」
 ババババババッ!!
 火球が周囲を覆い尽くす。
 人の頭ほどもある火の玉が弾け、爆発する。
 火球を放った少年の銀の髪が、烈しくなびき、冬の日射しを乱反射する。
 研ぎ澄まされた刃のように、鋭利な眼差しの少年だった。鮮血の真紅、という色彩が、苛烈さに凄みを加えている。
 年の頃は、十二、三にしか見えないが、年齢にそぐわぬ、修羅の気配が漂う。
 細い体で、肌の色も蒼白いが、儚げ、という言葉とは対極の、牙をむく獣の獰猛さをまとう。
 整った顔立ちの華やかな美貌だが、抜き身の刃のようで、近寄り難い。
「二級神術発動、疾風千矢、凩!!」
 烈風が矢のように駆け抜ける。
 極寒の凍風は、火の玉に次々とぶつかり、相殺し、暴風と衝撃をまき散らす。
 風の矢を放つのは、眩い金の髪の少年だ。
 若葉を思わせる涼しげな翠の双眸で、凛と前を見据えている。
 華奢な体つきと優しげな美貌だが、眼差しの凛々しさで少年とわかる。
 銀髪赤眼の少年と、背格好はよく似ており、おそらく年も同じだろう。さらに、二人とも白の小袖に浅葱の袴だ。
 それなのに、面白いくらいに対照的な二人。
 対であるからこその、対極。
 二人の少年の戦いは続いている。
 火の玉は、風の矢に撃ち落されていく。
緋皇ひおう、もう終わりか?」
 金髪の少年が澄んだ声で呼びかければ。
翡蓮ひれん、それはオレを舐めすぎだろ!」
 紅い瞳の少年が、声を張り上げた。
「二級神術発動、天裂炎槍!!」
 緋皇の指先が紅く輝く。空中に描かれる紅い光の軌跡。
 その直後、翡蓮の真下から噴き出す炎。
「三級神術発動、風翼飛翔!!」
 翡蓮は風の翼で羽ばたいて、空へと逃れる。そのまま
「三級神術発動、無限旋風!!」
 地上の緋皇へと、竜巻が落とされる。
「三級神術発動、劫火狂獣!!」
 緋皇の前に出現した、炎の狼が、竜巻にその身を自らぶつける。

 延々戦い続けるうちに、周囲が闇に包まれていく。淡く薄い青い布が、一枚から二枚、二枚から三枚と重ねられていくように、夕闇は群青、そして藍へと濃さを増していく。
 ぜいぜいと肩で息をしながら、緋皇はそれでも膝を折らずに立っている。暗くなってきて良かったと思う。足が小さく震えていることは、翡蓮には見えていないだろう。
「なんだよ、もう、おしまいか?翡蓮。」
「そっちこそ、ずいぶん、息が上がってるじゃないかっ…。」
 翡蓮も荒い息の合間に返す。冷静で温厚で、落ち着いた振る舞いを常とする翡蓮だが、緋皇にだけは、負けず嫌いだったり、ムキになったりと、子どもっぽい面を見せる。
 陽の落ちた、骨まで冷えるような、真冬の黄昏時だというのに、白い頬には汗が光っている。けれど、それをぬぐう力も、翡蓮にはもう残っていない。
 緋皇には、わずかだが余力があるようで、手の甲で、あごの汗をぐいと拭ったのが悔しい。そして、翡蓮の瞳に悲愴な影が差す。
(やっぱり、緋皇の方が強い。)
 唇をかみしめる。
 桃花のような唇に血が滲み、紅をさしたように、夕闇にも鮮やかだ。
(まだ足りない。こんなんじゃ、全然。)
 その思いは、翡蓮より半歩、先にいる緋皇も同じ。本当は、翡蓮と競っているわけではない。
 明確にどこまで強くなれば、というものもない。
 どこまで上がれば安心できるのか、わからないのだ。
 だからこその、焦燥。
(もう限界かよ、くそっ…。)
 それでも、互いに、もうやめようとは口にせず。
「「四級…。」」
「そこまでになさい。」
 ぴしりと鞭打つように。感情を押さえた静かな声で、けれど厳しく告げたのは。
琥珀こはく教官…。」
 翡蓮が、若干の後ろめたさを覚えながら、その名を呼ぶ。
 緋皇は、ふん、とそっぽを向いた。
 うなじでまとめた、長い亜麻色の髪を揺らして、琥珀が二人の教え子に近づく。その双眸は、夕闇の中にあっても、きらりと光る黄金。何もかも見通すかのような。
「熱心なのは結構ですが、これ以上は明日の講義に響きます。あなたなら、それくらいわかっているはずですね?」
と、琥珀が翡蓮を見据える。
 翡蓮が一瞬、口ごもった隙に。
「うっせーな、ほっとけよ。オレたちの勝手だろ。」
と緋皇が吐き捨て、翡蓮は狼狽する。
「緋皇、教官に対する口の聞き方じゃないだろ!」
 しかし、琥珀は、そこは咎めなかった。翡蓮と緋皇を交互に見て。
「何を焦っているのです?あなた達は、十分に強い。候補生なら、四級を使えれば、優秀なのですよ。」
 深い声音で尋ねる。冷徹に見られるほど厳しいことで有名だが、その奥にある慈悲が透ける、真摯な声だった。
「…八岐大蛇の件ですか。」
 図星だったので、二人揃って黙り込む。
 先日、任務からの帰還時に調伏した妖については、報告を上げてある。翡蓮が、瘴気を浴びて倒れたことも。
 琥珀は、金色の目を細めて、緋皇と翡蓮を見る。
 緋皇の暴走なら珍しくもないし、翡蓮が何とか止めるだろう。というか、翡蓮にしか止められない。緋皇は、翡蓮以外の誰の言うことも聞かないのだから。
(ですが、翡蓮まで、となると…。)
 純粋でまっすぐな翡蓮。常に正しい道を選ぶ。
 けれど、少し、変わってきていて。その理由は、ただ一つ。否、ただ一人。
(いえ。もしかしたら、翡蓮は、最初から。)
 琥珀は、わずかに逡巡した後、決断する。
(過ぎた力が、身を滅ぼすことも有り得る。けれど、この子たちなら、きっと、互いが互いを。)
「強くなりたいなら、教えましょう。一級神術に至る道を。」
 二人の少年が、同時に息を呑む。

「一級神術は、二級までとは次元が違う。その威力は、下手をすれば地形どころか、時空すら歪ませる。それゆえに、行使するには龍神の審判を必要とするのです。」
 どこまでも、果てなく続くように見える、長い廊下。
 龍神国の神官たちを統治する正神殿の、最奥に向かって進みながら、琥珀が告げた。
 琥珀の口調は、常の講義のときと変わらぬ、落ち着いた語り口だが、淡々と語っているようで、声にこめられた力が強い。
 緋皇は
「そんなたいしたもんじゃなかったぜ。」
と、反論する。緋皇は、一度だけ、一級神術を展開できたことがある。翡蓮が八岐大蛇の瘴気に倒れた時に。
 実は、感情がふりきれていて、記憶も飛んでいるのだが、そのことは敢えて、口にしない。
 琥珀が首を振る。
「報告書は読みましたが、あなたが使った、「紅龍逆鱗」は、完全なものではないでしょう。一級神術であれば、邪神と言えど、塵一つ残らない。肉の一片が残って復活できたのなら、それは一級神術の本来の力ではない。」
 きっぱりと断言され、緋皇は鼻白む。ほとんど無意識に使った一級神術だが、ここまで否定されれば面白くはない。
「一級神術は、強く、正しい心で使わねば、龍神国に大いなる禍をもたらす。だからこそ、一級神術の行使を望む者は、己の心に向き合って、乗り越えねばなりません。」
 琥珀は、言葉を切り、足を止めた。背後を歩く二人の教え子を振り返る。
「オレたちが乗り越えなければならないものとは、何ですか。」
 翡蓮は琥珀を見上げる。翡翠の眼には、必死で前に進もうとする者だけが持つ真剣さがある。
 琥珀は、聡明で察しの良い教え子に、答えた。
「心の奥底に巣食う、恐怖と絶望。」
 緋皇が眼をすがめ、翡蓮が小さく息を呑んだとき。
 三人は、一枚の扉の前に立っていた。
 緋皇と翡蓮にとって、初めて見る部屋だった。この一帯は、神官候補生には、足を踏み入れることを許されない区域だ。何年もこの正神殿で暮らしているが、この広大な神殿には、知らない場所も多い。
「ここは、試練の間です。自分の心の闇に触れてでも強くなりたいのなら、入りなさい。」
 琥珀は、一歩下がった。
 進むのも、引き返すのも自由だと。
 緋皇が、ニヤリと不敵に笑う。
「上等。」
 微塵も躊躇わず、扉を開け放つ。
 緋皇と翡蓮は、視線を合わせることさえしなかったのに、全く同時に、部屋に足を踏み入れた。
 琥珀は、無言でその背中を見送る。

 部屋の中には、何もなかった。
 家具が置いていない、という意味ではない。
 どこまでも果ての無い、真っ白な空間が広がっている。
 まるで、白い闇。
 部屋の中とは思えない。深く濃い霧に閉じ込められてしまったような。
「何だ、ここ。おい、翡蓮、おまえ、どう思う?」
と、隣を振り返ると。
「この何もない場所が、おまえの心ってことだよ、緋皇。」
と、にっこりと微笑まれる。
 緋皇は、真紅の目を見開いた。
 凄まじい違和感が走り抜けた。
 恫喝するような低い声で、獣がうなるように、問う。
「なんだ、てめえは。」
 眼前で微笑むのは、見慣れた翡蓮の美貌。
 眩く煌めく黄金の髪も、触れたくなるほどすべらかな、白く綺麗な肌も、吸いこまれそうに澄んだ、新緑の双眸も、翡蓮そのもの。長いまつ毛の一本に至るまで。
 けれど、違う、と緋皇の心の奥底が叫んでいる。
 見た目で区別がつきにくくても、口に入れればはっきりと味の違う、砂糖と塩のような。本質の違い。
 翡蓮の姿をした何者かは、微笑みを崩さない。
「オレは、おまえの恐怖と絶望。それが、形をとったもの。」
 その声音すら、聞き慣れた翡蓮のものなのに。
「なぜ、この姿なのかを、聞きたいって顔だ。そんなの、ちょっと考えれば、わかるだろう?おまえにとって、翡蓮を失うことが、唯一の恐怖だから。そして、翡蓮が、自分だけのものにならないことが、絶望だから。」
 翡蓮なら、くすくすと笑いながら、そんなことは口にしない。絶対に。

 部屋の中は、果てが見えない、広大な森だった。
 季節は、初夏だろうか。まばゆい陽射しが、さんさんと降り注ぎ、爽やかな風が、新緑の葉を揺らしていく。潤いをたっぷり含んだ風が、翡蓮の髪をなびかせて吹き過ぎる。
 小鳥のさえずり、はばたき。
「なんで、部屋の中に森が?なあ、緋皇、これって、どういうことだ?」
と、隣を振り返ると。
「この森が、おまえの心ってことだ、翡蓮。おまえらしいよな。」
と、に、と笑いかけられる。
 緋皇は、翡翠の目を見開いた。
 凄まじい違和感が走り抜けた。
 警戒しながら、慎重に問いかける。
「緋皇じゃないな。誰だ?」
 眼前で、居丈高に腕を組んでいるのは、見慣れた美貌の緋皇。
 光り輝く純銀の髪も、手で包んであたためたくなる、蒼白い肌も、強烈な日差しのように胸を射る、紅玉の視線も、緋皇そのもの。不敵で不遜な表情まで。
 けれど、違う、と翡蓮の心の奥底が叫んでいる。
 この感覚には、覚えがある。
 鏡の付喪神。
 姿かたちを、どれだけ正確に似せても、魂までは、写せない。鏡の付喪神とは違い、瞳の色も緋皇と同じ真紅だが、それでも、やはり。
 緋皇の姿をした何者かは、笑ったまま告げる。
「オレは、おまえの恐怖と絶望。それが、形をとったもの。」
 その声音すら、聞き慣れた緋皇のもの。けれど。
「なぜ、この姿なのかを、聞きたいか?そんなの、ちょっと考えれば、わかるだろう?おまえにとって、緋皇を失うことが、唯一の恐怖だから。そう、おまえは、心のどこかで怖れている。」
 今の緋皇が、こんなに冷たい眼で、翡蓮を見るはずはない。絶対に。
 翡蓮の胸を抉る言葉を、笑みさえ浮かべて口にするはずがない。
「何年もの間、おまえは緋皇に傷つけられてきた。おまえは、ずっと緋皇のことが大好きで、緋皇のために全てを捨てて、神殿に来たのに。」
「今は違う!!」
 翡蓮は叫んだ。悲鳴のように。
 緋皇の姿をした何者かが、薄く笑う。
「そう、今は。だから、おまえは怖いんだ。緋皇が、また、おまえを裏切るかもしれないと。」
「そんなことない!!緋皇は、緋皇は、もう二度とオレを放さないって、そう言って。」
 翡蓮の声が震えた。
「緋皇のその言葉を、緋皇を信じきれないことが、おまえの絶望。」
 翡蓮の目の前が、真っ暗になった。
 比喩ではない。
 豊かな森が消えた。
 一筋の光もない、暗黒の闇の中。
 緋皇にそっくりな声だけが、背筋を凍らせる冷気を帯びて響く。
「考えてみれば、それも当然。緋皇は、本来、おまえなどが気軽に触れられる身分じゃない。廃嫡されても、その身に流れる血は不変。緋皇は、否、コウは、東西、両王家の血を引く若君。」
「やめろ!!もう、やめてくれっ!!」
 翡蓮は、ガタガタと震えた。
 心が、ズタズタに引き裂かれる。
 ギュッと目を閉じる。
 開いていても、閉じても、漆黒の闇。
 けれど、折れそうな翡蓮の心に。

『おまえはオレのものだ。だから、オレもおまえのものだ、翡蓮。一生な。』

 一筋の光が射す。
 清らかな白い光ではなく、鮮烈な真紅の光が。
 翡蓮は、ハッと顔を上げた。
「おまえの言う通り、オレは、本当は怖い。でも、緋皇が言ってくれた、「一生」を、オレは信じたい。」
 信じる、と言い切れない自分の心の弱さを、知っている。
 けれど、これが、嘘偽りない、今の自分の真実。
 ふっと、空気が柔らかくなる。
 闇の中なのに、緋皇の姿をした何者かが、微笑んだ気配。

<完全とは言えぬな。だが…仮で合格、ということにしておこうか。前に進め、我が御子よ。>

 緋皇の声ではない。知らない声。けれど、心の深いところに直接届いたその声は、ひどく懐かしく。まるで、生まれる前に聞いたかのような。そして、いつも自分を見守ってくれる、大きな存在の…。
「翠龍さま…?」

「ったく。ずいぶんといい趣味してんじゃねーか。」
 緋皇は、ハッと鼻で笑って、翡蓮の姿をした何者かをねめつける。
「この姿をとったことが気に入らないのか?まあ、当然か。おまえにとって、翡蓮は、ただ一つの聖域だからな。」
 何もかもを見透かしたように。
「おまえは、翡蓮以外の誰も大切に思えない。今までずっとそうだったように、これから何年生きようとも変わらないと、自分でわかっている。」
 緋皇の血赤珊瑚の瞳が、鋭さを増す。
 翡蓮の姿をした何者かは、意に介さず続けた。
「だから、おまえは、翡蓮には大切なものが数多くあることを、本当は許せない。それがおまえの真実。傲慢な独占欲。」
「知ったふうな口、きくんじゃねえよ。」
 ゾッとするほど冷たい声。対照的に、瞳には憤怒が燃える。
 普通の人間なら、声を失っただろう。だが、今、緋皇の眼前に立つ者は、平然と続ける。
「翡蓮は友人も多く、誰にでも好かれ、皆の中心にいる。また、神官候補生として、民に平等に手を差し伸べる。そういった、本来は美点であるはずの翡蓮の長所が、おまえにとっては、翡蓮を憎む理由になる。」
「…。」
 緋皇が、唇をかみしめた。
 ぷつっと、かみ切った。
 ぷっくりと、血の珠が唇に浮かぶ。
(これが、オレの心の闇かよ。)
 ふつふつと、腹の底から浮かぶ怒り。
 このまま、感情に任せて暴れたら、楽だろう。
 けれど、それでは、望む力は手に入らない。
(それじゃ、翡蓮を守れねーだろうが…!)
 緋皇は、真紅の目を閉じた。
 眼裏に浮かぶ、見慣れた翡蓮の顔。
 それだけが、唯一、緋皇を。
 緋皇が、急に肩の力を抜いた。
「ああ。その通りだな。」
 いともあっさり認めた緋皇に、翡蓮の姿をした何者かが、わずかに眉をひそめた。
「だけど、翡蓮が笑っていられるなら、オレは、それでいいって決めたんだよ!!」
 その瞬間。
 ぱあっと、霧が晴れたように、白い闇が消し飛んだ。
 純銀の光が満ちる。

<おまえの覚悟を認めよう。>

 それは、頭の中に直接響く声。威厳と慈悲。相反する二つを矛盾なく備え。

<おまえの思いは強すぎて、一歩間違えば破滅に向かう。だから、忘れるな、今の思いを。我が愛し子よ。>

 二人同時に、我に返った。
「翡蓮。」
「緋皇。」
 呼び合う声が重なる。
 一瞬の白昼夢が覚めたように。
 緋皇と翡蓮は、「試練の間」の前に立っていた。
 琥珀が、安堵したように微笑む。
「無事、戻れたようで何よりです。試練を乗り越えた感想は?」
 緋皇と翡蓮は、自分の体に目を向ける。
 見た目は何一つ変わっていない。
 だが、力が宿ったのを感じる。まだ、完全に目覚めてはいないだろう。それでも。
 今までとは桁違いの、そして神聖な力。
 同時に、今まで、荒れ狂う嵐の海のような焦燥に駆られていた心が、凪のように落ち着いたことも。
 緋皇と翡蓮の表情から、心情を読み取ったのだろう。
 琥珀は笑みを深くした。
「では、部屋にもどりなさい。明日の講義で居眠りなどしないように。ああ、その前に急いで大浴場へ行きなさい。そろそろ湯を落とされてしまう時刻ですよ。」
 この言葉で、二人の少年は、いつの間にかかなりの時間が経っていたことを知る。
 ここに連れて来られたのは、まだ夕方だったはずだが、今はもう、大浴場が閉まるくらいに遅いらしい。
「げっ、急げ、翡蓮!」
「うわっ、ちょっと待て、緋皇!」
 緋皇と翡蓮が慌ただしく駆けだして行ったのとは逆の方向から。
「神官候補生で一級を使うか。神殿始まって以来の神童ってとこか?」
 艶やかな黒髪を揺らして、美丈夫が現れる。
 均整のとれた長身に、紫水晶の瞳。
 袴の色は、神官の中で、ただ一人に許された紫紺。
紫天してんさま。」
 琥珀が、正神殿の、ひいては龍神国の神官全ての頂点に立つ、<龍王>の名を呼んだ。
 地位にふさわしくない、気安いもの言いで、紫天は養い子であり弟子でもある琥珀に話しかけた。
「翡蓮はともかく、おまえが緋皇にまで特別に手を貸すのは珍しいな、ハク?」
「私が、贔屓しているような言い方はやめていただけませんか。」
 琥珀が、ツンと肩をそびやかす。子どもがムキになっているようなその表情を、琥珀は紫天にしか見せない。もし、ここに翡蓮たち教え子がいたら、びっくりしただろう。
 紫天は、器用に片眉だけ上げてみせた。
「ほう。オレには、おまえが緋皇を敵視してるように見えてたけどな?」
「っ。それはっ、少し前までの緋皇は、問題ばかり起こしていましたから、緋皇が、紫天さまに害をなすことになりはしないかと心配を。」
と、そこまで言いかけて、琥珀はハッと口元を押さえた。早口で、取り繕うように言い直す。
「紫天さまへの害は、この正神殿への害という意味ですから。」
 琥珀は誤魔化したが、頬が赤くなっている自覚はあるので、紫天にはお見通しだろうとわかっている。しかし、紫天は指摘してからかうことはしなかった。琥珀は続ける。
「ですが、緋皇は変わりました。翡蓮が変えたのでしょう。今の緋皇を、私は信じたい。あの子も、私の教え子です。」
 幼い頃の自分に、少しだけ似たところのある、あの少年を。紫天が、琥珀を信じてくれたように。
「それに、緋皇には力が必要になるでしょう。武家と公家の世界では、あの子は、一神官候補生ではない。」
 東西両王家の血を引く、廃嫡された元日嗣の君。将軍の第一子。そして、母の御台所は、帝の妹姫にして、将軍の寵姫を殺した大罪人。
 紫天は、小さく息を吐いた。
「鳳凰城から使者が来たことを聞いたか。」
 琥珀が無言で首肯する。
 東の地を統治する、将軍の居城が、鳳凰城。西の地を支配する帝が住まうのが、麒麟城。正神殿は、そのどちらとも対等であり、友好的な関係を築いている。基本的に互いの領域を侵すことはない。
 将軍や帝、龍王の崩御や即位、年始の折には使者が行き交うが、今はそのどれにも当てはまらない。
「やはり、緋皇のことですか?」
「ああ。」
と、紫天は頷き、詳細を語る。
 琥珀は黄金の瞳を見開き、上ずった声で問う。
「紫天さま、それで、緋皇には。」
「明日、使者を会わせる。あいつが決めることだ。」
 厳しく言い切った<龍王>に、琥珀は
「…はい。」
と頷くより他なかった。
 脳裏に浮かぶのは、緋皇と、もう一人の教え子。

 冬の日射しは真昼でも弱々しい。空気はキンと冷えて、晴れ渡った青空も寒々しい。
 寒空の下でも、少年たちは、活力に満ちている…というより、元気があり余っている。
 正神殿の建物をぐるりと取り囲む深い森に、少年たちの声が響き渡る。
「緋皇、おまえ、また、こんなところでサボって!ちょっと真面目に講義受けてたと思ってたら、すぐこれだ!」
「るっせーな。いーだろ。もう一級使えるようになったんだから、講義なんて受ける必要ねーよ。」
「そんなわけあるか!おまえ、寒がりのくせに、こんなとこでって、あ、おまえまた、「劫火狂獣」出して!三級神術を暖とるのに使うなよ!」
「四級ならいいのかよ。」
「そういう問題じゃない!ほら、行くぞ!」
 と、翡蓮が緋皇の腕をつかんで引っ張り上げる。
 他の誰にも、こんなことを絶対に許しはしないし、大人しく引きずられていくこともないが、相手が翡蓮なので、緋皇は渋々ついて行く。
 しかし、数歩歩いたところで、翡蓮は足を止めた。緋皇が首をかしげ
「おい、翡蓮、どうした?」
と、声をかけたが。次の瞬間、真顔になった。
 近づいて来た初老の男が、足を止める。
 生地も仕立ても上等な、小袖に袴。袖なしの羽織に二本差し。
 一目で、高位の武家だとわかる。
 翡蓮は、必死で記憶をたぐり、彼が誰なのか思い出したようだった。
(こいつ、一回しか会ってねーのに、覚えてんだな。)
と、その記憶力に感心する。
 流石に、六つの歳まで毎日のように会っていた自分が忘れていたら薄情だろう。実の両親よりもずっと近しく、そして彼らよりよほど愛情を注いで育ててくれた相手だった。
 大罪人の子となった皇の処遇を巡って、幕府の重鎮たちの意見が割れていたときも、必死で皇を庇った。緋皇が、今生きていられるのは、何割かは彼の尽力だ。
 初老の男は、緋皇に膝をつく。深く、頭を下げた。
「お久しゅうございます、皇様…。」

 かつて、鳳凰城で、日嗣の君だった皇の、教育係を務めていた彼は、翡蓮に向かって大久保忠信ただのぶと名乗った。
「蓮殿でしたな。皇様も、蓮殿も、本当に大きくなられましたな…。」
 緋皇に顔を上げろと言われて従った彼の目じりには、光るものがある。
 その涙に、翡蓮は見覚えがある。
 幼い皇と蓮が遊んでいる姿を見つめていた彼の目にも、今と同じように涙が光っていた。
(ああ、この人は、ずっと緋皇のことを…。)
「もう二度と、御目にかかる日は来ないと思っておりました…。この大久保、皇様の元気な御姿が見られて、もう思い残すことはございません。」
 涙をふきつつそう言う大久保だが、緋皇は愁嘆場は苦手らしく、あっさり返す。
「すぐにくたばるよーな年でもねーだろ、相変わらず大袈裟だな。」
「緋皇、おまえ、なんてことを!」
 翡蓮は真っ蒼になったが、大久保はむしろ楽しげに
「よいのです。」
と笑っている。
 しかし、緋皇は、すうっと目を細めた。
「で、何の用だ?鳳凰城で、何が起きた?」
 緋皇は、熟知している。
 何かが起きない限り、廃嫡された元日嗣の君に、幕府の重鎮たる大久保が会いに来ることなど許されないことを。
 緋皇は、舌先が苦いなと思った。昨夜、唇に翡蓮が塗った薬よりも。緋皇の唇が血に濡れていることに、目敏く気づいた翡蓮は夜中に薬箱を引っ張り出してきた。うっかり舐めたら苦かったが、今は、それよりも。
 大久保も、表情を改めた。
「上様が、病に倒れられました。」
 緋皇は、表情一つ変えなかった。むしろ、翡蓮が瞠目した。
「それで?」
「某、上様の密命を受けて参りました。上様が、皇様に一目会いたいと。皇様、一度、鳳凰城にご帰還願いたい。」
 真冬の突風が吹き抜けた。枯葉を蒼天に舞い上げる。

 一年で一番日が短い師走。
 ちょっと日が傾いたと思ったら、すぐにとっぷりと暮れる。
 夕飯は済んだが、風呂に行くにはまだ早い時間。
 翡蓮は、ぱたんと本を閉じ
「緋皇。おまえ、本当に行かないつもりなのか?」
と問いかけた。
「うっせーな。しつこいぞ、おまえ。」
 緋皇はちょっとうんざりした顔をしている。
 昼間、将軍の命を伝えた大久保に、緋皇は、迷うそぶりも見せず、
「やだね。」
と言い放ったのだ。
 翡蓮は、(将軍の命令って断れるものなのか?断ったら、大久保さんの立場ってどうなるんだろう?そもそも、父君が倒れたのに、会いに行かないって…。)と、一瞬にしていろいろなことが頭を駆け巡り、結局その場では何も言えなかった。
 しかし、幼い頃の緋皇をよく知る大久保にとって、緋皇の返答は予想通りだったらしい。
「皇様なら、そうおっしゃるだろうと思っておりました。」
と、微苦笑した。去り際、大久保は、孫ほどの年の翡蓮に、深く頭を下げた。
「蓮殿。皇様が、これほど心を許せる相手は、生涯、貴方ただ一人でしょう。どうか、皇様を、よろしくお願い致します。」
 おそらく、講義をさぼった緋皇と、連れ戻そうとしていた翡蓮のやりとりを聞いていたのだろう。遠慮の無さが、そのまま親しさの裏返しだと見抜いて。
 翡蓮は、胸がいっぱいになって
「はい。必ず。」
と誓ったが、緋皇は、肩をそびやかした。緋皇は、ぐい、と翡蓮の肩に腕を回して
「べつに、おまえが頼まなくったって、こいつは、一生オレと一緒にいるんだよ。」
と胸を張ったが。
 大久保が立ち去った後、琥珀が「猊下は、緋皇の好きにしろと。」という<龍王>の言葉を伝えに来た。神殿としては、緋皇の選択に口を挟む気はないらしい。
 翡蓮は、まっすぐに緋皇を見つめる。
「将軍様に…父君にもう二度と会えないかもしれないんだぞ。」
「べつにかまわねーよ。」
 緋皇は、あっさり言う。
(意地張ってるとか、そーいうんじゃねーんだけどな…。)
 暖かい家庭で育った翡蓮には、想像ができないかもしれないが、緋皇にとっては、父も母もはっきり言えば、どうでもいい存在だ。それは、日嗣の君であった頃から。月に数度しか会わず、親子というより、将軍と御台所と日嗣の君という地位の方が多くを占める関係だった。
 翡蓮は、緋皇をじっと見つめてくる。
(ああもう。)
 実は、緋皇は、純粋でまっすぐな翡蓮の眼差しに結構弱い。翡蓮には、絶対知られたくないが。
「おまえが、そんなに言うなら行ってやるよ。その間、講義さぼれるしな。」
「緋皇。」
 あからさまにホッとした翡蓮に、
「だけど。」
と、緋皇は、悪戯っぽく、唇の両端をつり上げる。
「おまえも一緒に来い。」
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