2 / 4
第二幕
「オレの友情は、愛よりも重い。」~龍神少年 肆~
しおりを挟む
第二幕
鳳凰城。
天高くそびえ立つ天守閣。その左右の二の丸、三の丸が、まるで鳥の翼のように見える。
龍神国の半分、東の地を統治する幕府が置かれた、将軍の御座所。
だが、翡蓮にとって、ここは、それだけの城ではない。
(ここは、オレと緋皇の始まりの場所。)
六年ぶりなのに、はっきりと覚えていた。
それも当然。皇が大罪人の子となってから、蓮は、毎日この城を見上げて過ごした。来る日も来る日も。<龍神の御子>となって、正神殿に行くまで。己の無力さを憎みながら。
皇と出会った懐かしい場所であり、皇が囚われていた場所でもある。
しかし、複雑な思いを抱えて城を見上げる翡蓮とは対照的に、緋皇は、何の感慨も無いようだった。
「なに呆けてんだ、おまえ。」
ぺしっと、翡蓮の頭をはたく。
「いたっ。何するんだよっ!」
翡蓮が頭を押さえて緋皇をにらむ。やり返さないのは、温厚な性格ゆえか、緋皇の乱暴さに慣れているせいか、両方か。
「おまえがぼーっとしてるからだろ。さっさと済ませようぜ。おい、謁見っていつだ?」
緋皇はまったく悪びれず、謝りもしない。護衛役の武家をつかまえて訊いている。
大久保がいたなら、彼に訊いただろうが、今は別行動をとっている。大久保は、先触れとして、一足早く入城した。
「申し訳ありません、神官候補生殿。我らは、城までお二人をお連れせよ、とい命しか受けておりませんので…。部屋まで案内致しますので、後のことは、そちらでお尋ねいただければと。」
職務に忠実そうな、武家の青年の答えに、緋皇は
「チッ。使えねー。」
と舌打ちする、翡蓮は慌てて
「緋皇、失礼だぞ!すみません、こいつ、礼儀を知らなくて!後でしっかり言い聞かせておきますっ!」
と、平謝りだ。
神殿から、この鳳凰城まで、一週間ほどの旅だった。その道中で、相手が誰であってもないがしろにせず、敬意をもって接する翡蓮の姿を見てきた武家の青年は、微笑んで
「お気になさらず。」
と返した。周囲の、他の武家たちも同様の表情だ。生意気でふてぶてしく、態度の悪い緋皇だが、翡蓮とのやりとりは、やんちゃな弟が兄にだけは甘えているようで、武家たちの目には微笑ましく映ったようだ。また、武家社会は、礼儀を重んじるのと同時に、勇猛さや負けん気の強さを貴ぶ。緋皇の物に動じない性格も、彼らの気風からは好ましいのだろう。
「では、<宝珠>殿。参りましょうか。」
と、先に立って歩き出す。
緋皇と翡蓮は、彼らに続く。
絢爛豪華な、東の王城の中を。
複雑に、幾度も折れ曲がる、迷路のような廊下を、先導してくれる武家の青年。緋皇や翡蓮の背後を守るように、後方を歩く青年。
ここまで護衛を務めてくれた彼らは、緋皇の正体を知らない。
廃嫡された元日嗣の君が、鳳凰城を訪れると知れれば、大騒ぎになるので、下々には伏せられている。緋皇が、日嗣の君であった「皇」だと知るのは、将軍の密命を受けて、正神殿を訪れた大久保など、幕府の上層部のみだ。
次代の龍王である<宝珠>、翡蓮が、<龍王>の名代として、将軍を見舞う、という形をとっている。
彼らにとって、<宝珠>である翡蓮が主であり、緋皇は、<宝珠>の付き添いに過ぎない。
これは、<龍王>、紫天の案だ。
「翡蓮と一緒じゃねーなら、鳳凰城なんかに行かねーよ。」と言った緋皇に、紫天は、「もともと、おまえを一人で行かせるつもりはさらさらない。」と返したのだった。「いくらオレでも、お目付け役なしでおまえをほっぽり出す勇気は流石にないわ。何しでかすか、わかったもんじゃない。」と笑った紫天に、緋皇は憮然としていたが、真実なので、珍しく言い返さなかった。
(確かに、鳳凰城で騒動起こしたら、幕府と神殿の関係に亀裂が入る事態に発展するよな…。しっかり緋皇を押さえておかないと。)
と、苦労性で責任感の強い翡蓮が決意を新たにした時。
先を歩く武家の青年が、足を止めた。
「鳳凰城に逗留される間、御二方は、この部屋をお使いください。」
と、扉を開け放つ。
二十畳はあるだろうか。二人で使うには広すぎて落ち着かない。金箔がふんだんに使われた屏風。襖に描かれた四季それぞれの情景も、筆致が流麗で、桜の枝に止まる鶯の鳴き声まで聞こえてきそうだ。文机や飾り棚はもちろん、衣桁にまで蒔絵が施されている。花台に置かれた花瓶は、一人では持てないほどの大きさで、青磁の色が見事だ。そこにふんだんに生けられた白い山茶花のせいで、ただでさえ眩いほど豪奢な部屋が、よりいっそう華やいで見える。
ちょっと気後れする翡蓮とは対照的に、緋皇はすたすたと部屋に入って行く。翡蓮が慌てて追いかけた時。
廊下を渡ってくる足音が耳についた。
荒々しくならぬように気を遣っているのはわかる。それでも、切羽詰まった様子は隠しきれず。
「急なことで申し訳ありません、神官候補生様方。」
と、まず謝罪を口にしたのは、先触れで先に城入りしていた大久保だった。人払いをしていないので、「皇様」とは呼ばない。
不穏な気配に翡蓮は、思わず緋皇を見る。
緋皇も、つ、と紅の双眸をすがめた。
大久保が続ける。
「上様がお待ちです。<宝珠>様と、そのお連れの神官候補生様を、疾く案内せよと。」
☆
着いたばかりで、荷解きする間もなく謁見が行われるのは、不自然なほどの性急さだ。
「将軍様は、そんなに、おまえに早く会いたいのかな…?」
小声で尋ねた翡蓮に、緋皇は
「まさか。」
と鼻で笑った。
「ここは、ある意味魔窟だぜ。そーゆー世間一般の親子の情愛とか期待してんじゃねーよ。」
翡蓮は、それはひどく寂しいことのような気がするのだが、ここで生まれ育った緋皇に、感覚が違うと言われてしまえば、そうなのかと思うしかない。
目に映る何もかもが煌びやかな鳳凰城。この謁見の間は、緋皇と翡蓮が滞在することになった部屋よりも、さらに数段豪奢だ。欄間の透かし彫りや、脇息の螺鈿細工など、部屋を構成する全てを、一流の職人が心血注いで創り上げたことが伝わってくる。
けれど、それらを好ましく思うよりは、重く感じてしまうのは、権謀術数の渦巻く場所特有の冷たさが漂うせいだろうか。
「じゃあ、おまえは、本当に来たくなかったのか?オレがしつこく言ったから…。」
新緑の瞳を翳らせて呟く翡蓮に、緋皇は慌てる。翡蓮に責任を感じさせるつもりなどない。緋皇が、勝手に翡蓮を悲しませたくないと思っただけで。
そして、理由はもう一つ。
「この謁見には、何か裏がある。それを確かめて、ぶっ潰すために来たんだよ。」
剣呑に血赤珊瑚の瞳を光らせた緋皇に、翡蓮が息を呑む。
「それって、危険があるってこと。」
「上様の御成りです。」
翡蓮の言葉にかぶせて、謁見の開始を告げる声が響く。
☆
神官候補生は、将軍の臣下ではないので、平伏はしない。神殿に属する者は、神に仕える者であり、俗世の身分には縛られない。
小姓に両脇を支えられて、ようやく腰を下ろした将軍は、脇息に体重を預ける。病に倒れたとは言っても、一日中寝込むほどではないらしい。ただ、顔色は土気色に近く、目も虚ろだ。金糸銀糸で華やかに彩られた着物が、ひどく重たげに映る。
(緋皇にはあんまり似てないな…。)
と、翡蓮は思う。将軍も顔立ちそのものは整っているのだが、緋皇の目を惹く美貌には及ばない。何より、表情に生気がない。常に、鋭利な眼光で周囲をにらみつける緋皇の強気さとは、かけ離れている。
ふわ、と漂う甘い香り。着物に香を焚き染めているのだろうか。距離があるので、わずかに香るだけだが、それでも頭の芯をくらりとさせる。麝香なのか、伽羅なのか、上品でありながら強烈に鼻腔を刺激する甘さだ。
先に言い含められていたのか、小姓は将軍が座すと、そそくさと立ち去って行った。
将軍が口を開く。
「久しいな、一の君。息災であったか…?」
声も掠れて聞き取りにくい。だから翡蓮は聞き間違いかと思った。
(一の君…?)
翡蓮の怪訝そうな表情から、何を考えているか読み取った緋皇が、小声で教える。
「将軍の第一子って意味だ。」
翡蓮は、ずいぶん他人行儀だと感じる。実の親が、我が子の名前も呼ばないのは、冷たくよそよそしいと。翡蓮がそう考えたことが、緋皇には伝わるのだろう。
「ここじゃ、これが普通だ。おまえのそーゆー考えは通用しねーんだよ。」
と言ってから、緋皇は何の気負いもなく、将軍に答えた。
「見ての通り、ピンピンしてるぜ。アンタと違ってな。」
さらりと嫌味を投げて、翡蓮を絶句させる。
それが、六年ぶりに相対した、将軍と元日嗣の君の…実の親子の会話だった。
緋皇は、まるで神殿で、双子でも相手にしているかのような、常と変わり無い口調で言葉を継ぐ。
「さっさと要件言えよ。こっちは暇じゃねーんだ。」
将軍に対する態度でもなければ、父に対する態度でもない。礼儀の欠片もない。
翡蓮は、将軍が怒り出すのではないかと気が気ではないが、ここで、神殿にいる時のように、緋皇を窘めるわけにもいかない。翡蓮にできたのは、緋皇の右の小袖の裾をぎゅっと握りしめることだけだった。
緋皇は、そんな翡蓮に対し、
「何蒼くなってんだよ。」
と笑いながら、その手を、左手で軽く叩く。
確かに、翡蓮が心配する必要は無かった。
将軍は、緋皇の無礼に憤ってもいなければ、我が子の昔と変わらない態度を喜んでいるわけでもない。
その面は、能面のようで、顔立ちそのものは整っているだけに、暗がりで見る人形のような不気味さが漂う。
将軍は、その無表情のまま、「要件」を言う。ぽんと放り出すように、熱のない声で。
「一の君。そなたを、日嗣の君にもどしてやろう。」
「断る。」
間髪を容れない即答だった。
緋皇に、一切の迷いも躊躇も無く。
翡蓮が、ハッと緋皇を見る。金髪が激しく揺れた。
(日嗣の君に、もどすって…。)
「なぜ断る?そなたにとって、朗報であろう…?」
なぜと問いかけながらも、声には感情が無い。
「オレは、日嗣の君にもどる気なんて、全くねーよ。話がそれだけなら、帰るぜ。」
緋皇は立ち上がり、
「翡蓮、立てよ。」
と、状況についてきていない翡蓮の腕をつかんで、引っ張り上げる。利発で聡明で、意外と度胸も据わっている翡蓮が、呆然としているのは新鮮だ。特に、こういう場面で、緋皇が翡蓮に説教されないのは珍しい。
緋皇は(かわいいとこあるじゃん。)と、ちょっと面白いと思いながら、そのまま翡蓮を引っ張って、すたすたと歩いて行く。
「待て、一の君。話はまだ済んでおらぬ。そなたには、日嗣の君にもどってもらわねば、余が困るのだ。」
と言ってくる将軍に、緋皇はもう、一瞥すら与えない。
「勝手に困ってろよ。じゃあな、将軍。これが今生の別れだ。」
未練も情も、欠片もない。緋皇は、振り向きもせず背中で言い放ち、謁見の間を後にした。
☆
磨き上げられ、飴色に光る廊下は、折れ曲がって延々続き、果てがわからない。緋皇は、迷うことなくずんずん進み、逗留するように定められた部屋に辿り着く。
緋皇が襖を閉めたところで、翡蓮は崩れ落ちるように、畳に座り込んだ。翡蓮の腕をつかんだままだった緋皇も、引っ張られる形で膝をつく。
「どうしたんだよ。」
と、緋皇がのぞきこむと、翡蓮の顔は真っ蒼だった。今にも泣き出しそうな、恐怖に引きつった顔をしている。
緋皇がぎょっとした。
「そんなに緊張してたのかよ。将軍つったって、ただの人間、うわっ!」
言葉が途中で叫びに変わったのは、翡蓮が緋皇に抱きついたからだ。
溺れている者がすがりつくように。必死に、緋皇の首筋にしがみついて。
「おまえをっ、おまえを、日嗣の君に、もどすってっ…。」
喘ぐように苦しそうに、途切れ途切れに言う。
抱きつかれている緋皇には、翡蓮の顔は見えない。
翡蓮の白くて細いうなじが、目に焼きついた。
余裕の無さを示すように、翡蓮の腕には渾身の力が込められていて、結構痛い。けれど、緋皇は、翡蓮のしたいようにさせておいて、
「落ち着けって。」
翡蓮の背中をぽんぽんと軽く叩く。
「オレにそんな気は全然ねーから。おまえ、聞いてなかったのかよ?」
「だって、だって、相手は将軍なんだぞっ…。」
翡蓮の声が震えている。緋皇は、泣いているのかと心配になった。
六年も、俗世とは無縁の神殿で暮らしながらも、翡蓮の心の奥底には「身分」というものの残酷な重さが刻まれている。それは、階級社会で育ったというだけのことではなく。
身分ゆえに、友達に会うことすら許されなかった日々の辛さを、けして忘れることができないからだ。
緋皇自身は、身分なんてどうでもいいと思っているが、常識的な翡蓮が、自分と同じように考えていないことくらい承知している。
「あのな、あれは将軍の独断で、老中たちの許可は取ってないぜ。老中たちが承知してんなら、下のやつらが、オレを神官候補生として扱うわけねーよ。だから、病に倒れて、ちょっとおかしくなっちまった将軍の戯言で、本当になるわけねーって。」
「…でも、これから老中たちの賛同を得られる可能性もあるんじゃないのか…?」
論理的に諭されて、翡蓮は少し落ち着いたのが、声からも伝わる。
緋皇は、(あと一押しか。)と、頷いて、翡蓮の背中に腕を回した。
「絶対ねーよ。老中の一人は、今の日嗣の君のじーさんなんだぜ。オレが日嗣の君にもどったら、孫が地位を失うことになる。断固阻止するって。そもそも、廃嫡ってのは、簡単に覆せるほど軽くねーんだよ。」
翡蓮が、ふっと安堵の吐息をついた。首筋に息がかかって、緋皇はちょっとくすぐったいけれど、我慢する。
「それに、オレを押しつけといて、やっぱり返せ、じゃ、神殿を馬鹿にしてるだろ。<龍王>だって怒るんじゃねーの?」
「猊下は、そんな方じゃないだろ。面子よりも、おまえの幸せを。」
と言いかけて、翡蓮は凍りついたように、言葉を切った。
「おい、翡蓮?」
緋皇は不安になる。翡蓮の顔が見たかった。翡蓮の肩に両手をかけて、そっと離す。翠玉の瞳をのぞきこんだ。
最高級の翡翠、ロウカンのような瞳は、常と変わらず澄んでいるけれど、いつもの凛とした光がない。
「そうだ、日嗣の君にもどることは、幕府や神殿から見たら、おまえにとって幸せなことじゃないか。もし、猊下がそう判断されたなら。」
「その時は、一緒に神殿出奔しようぜ。」
にいっと、むしろ楽しそうに笑って言い放った緋皇に
「は?」
と、翡蓮が目を丸くする。
「だって、オレはおまえが一緒じゃなかったら、全然幸せじゃねーもん。おまえが嫌だっつってもさらってくし。あ、これ、すっげーいい考えじゃねえ?もう講義出なくていいし、教官に説教されねーし。」
緋皇は、けらけら笑っている。結構本気らしい。
いつもと全く変わらない、傲慢で自分勝手で傍若無人な緋皇の姿を見て、翡蓮は気が抜けてしまった。こっちの悲愴感は何だったのだろう。
「どうやって生活していくつもりなんだよ。」
「そんなの、妖退治して金とればいいじゃねーか。」
「神官が妖の調伏を商売にするなんて許されないだろ。」
「神殿出るなら、もう神官じゃねーし。生きていくには金がいるだろ。綺麗ごとで食っていけるかよ。」
「ここの若君だったくせに、なんでそんなにたくましいんだ…?」
翡蓮が呆れている。
(やっといつもに戻ったな。)
と、緋皇は安心して立ち上がった。
「まあ、出奔するにしても、一回神殿にもどろうぜ。」
と、翡蓮に手を差し出す。
出立は早い方がいい。長く留まれば、将軍が妨害してくることもあり得る。
「出奔するの前提なのか?たぶん、それはしなくていいと思う…。」
と、言いながらも、翡蓮が緋皇に手を伸ばす。
指先が触れ合う寸前で。
「失礼いたします。一の君様。」
部屋の外から、声がかかる。そう呼べるのは、緋皇の正体を知る者だけだった。
☆
昼間だというのに、将軍の寝所は薄暗い。金に換えれば、庶民が一生暮らせる価値のある品々も、薄闇に沈んでいる。
漂うのは、濃密な甘い香り。熟れた果実のようでもあり、美酒のようでもある。酩酊を誘う。人を狂気へと。
絹の褥に半身を起こした格好で、将軍が呟く。
「どうすればいい…?一の君は、日嗣の君に戻らぬと言ったぞ…。」
「まあ。我が子ながら、困った子ですわねえ…。」
妖艶な声が答えた。
女にしては低めだが、体の芯を刺激する官能的な声音だ。
その面は、声にふさわしい、色香に満ちた妙齢の美女のもの。男を惑わし溺れさせる魔性。
まとう打掛は、金糸銀糸をふんだんに織り込まれた綾錦。その豪奢な装いは、この鳳凰城で第一位の后にのみ許されたものだ。
何より、一の君を我が子と呼ぶのは。
「御台よ、どうすればいいのだ…?このままでは、そなたの望みは叶えられぬぞ…。」
御台所は死んだはずだと、ここに緋皇がいたら言っただろう。
緋皇の実母、将軍の正妃、御台所は、六年前、将軍の寵姫を殺して自害した。「皇」の目の前で。
ならば、今、ここにいるのは。
「それでは、上様もお困りになりますでしょう?妾の望みは、妾がこの腹を痛めて産んだ子が、日嗣の君にもどること。それが叶わぬのなら、上様の病は癒えませんわよ…。」
ねえ、と妖艶な美女は、将軍を流し見た。
甘い香りが増す。
くらり、と眩暈に襲われた将軍に、新たな声がかかる。
「ご安心を、上様。既に手は打ってございます。」
いつからそこに控えていたのか、美貌の小姓が微笑んだ。甘く、妖しく、優艶に。
いつの間にか、美女の姿は消えていた。
☆
開け放たれた襖の前には、武家の青年たちが控えていた。中には、正神殿から鳳凰城まで同行した者たちも混じっている。
跪く彼らを見下ろし、緋皇は舌打ちする。状況が変わったことは明白だった。
青年の一人が、緊張した面持ちで言う。
「一の君様、お話が。」
「こっちにはねーよ。オレたちは帰る。帰りの護衛はいらねー。翡蓮、行くぞ。」
と、緋皇が翡蓮に手を伸ばす。
その前に、白刃が閃いた。
「申し訳ありません、一の君様。一の君様におかれましては、今しばらく鳳凰城にお留まりいただきますよう。<宝珠>様とは別室をご用意させていただきました。どうぞ、こちらへ。」
緋皇の鮮血の双眸が、極寒の冷気を帯びた。
鳳凰城内の抜刀は、禁止されている。それが許されているということは。
(こいつら、将軍の命を受けてるわけか。)
緋皇の珊瑚色の唇に、冷笑が刻まれる。
「刀抜いたってことは、覚悟はできてんだろうな?」
その凄みに、全ての者が戦慄した。刹那、誰もが動きを止める。
「翡蓮、来い。」
緋皇が手を伸ばし、今度こそ翡蓮の腕をつかんで引き寄せる。自分の背中に。
緋皇の指先が紅く光る。空中に素早く軌跡を描いた。
「四級神術発動、華焔乱舞!」
燃え盛る紅蓮の花が、武家の青年たちの上に降り注ぐ。花弁の一枚にでも触れれば、一気に全身が業火に包まれる。優美に見えても苛烈な神術。
「四級神術発動、翔風絶壁!」
翡蓮が作った風の壁が、青年たちの上から、炎の花びらを弾き飛ばす。
「翡蓮、おまえっ!」
緋皇は振り向いて怒鳴りつけようとして、できなかった。
「緋皇、だめだ…!」
背中にかばった翡蓮に、後ろから抱きすくめられる。
図形を描けなければ、神術は発動できない。
翡蓮に拘束されて、緋皇がカッとなる。
「離せ、こいつらに従う義理なんてねーんだよ!!」
「でも、神術で、人を攻撃するなんて!」
神術を、普通の人間に向けるのは禁忌だ。修行の一環で、神官どうしが神術で戦うこととは全く違う。
ここで負傷者が出れば、緋皇は。
翡蓮の腕の力は、縋りつくように強くて。
見えないのに、どんな顔をしているか、わかってしまう。
緋皇は、唇をかみしめた。
ほぼ互角だが、それでも、確実に緋皇の方が翡蓮より強い。神術も、腕力も。ふりほどけないわけではない。けれど、緋皇は、本気で翡蓮を困らせたいわけではない。
緋皇が体の力を抜く。
それが伝わり、翡蓮も腕を緩めた。
緋皇が、翡蓮の腕を抜け出して、くるりと体を反転させる。正面から、翡蓮に向き合った。
「しょうがねーから、今は、大人しくしてやるよ。」
「緋皇。」
詰めていた息を吐き出すように名前を呼んだ翡蓮に、頷きを返し、緋皇は、周囲を睥睨した。
「翡蓮は、丁重に扱え。」
その声は、非情。一切の容赦がない。それは、命令することに慣れた者だけが持ちうる冷徹さで、彼がまぎれもなく日嗣の君であった証だった。
「そいつに、指一本でも触れてみろ。この鳳凰城ごと、てめえら全員焼き殺してやる。」
完全に本気の宣告。
先ほどの冷笑の比ではない。
武家の青年たちを、一人残らず震え上がらせた。心胆寒からしめる警告。
同時に、それは翡蓮への忠告。否、脅迫か。「こいつらを殺されたくなかったら、おまえは手段を選ばず自分の身を守れ。」という。
緋皇の背中が遠ざかって行く。
これでよかったのか、翡蓮にはわからない。
けれど、緋皇が人を傷つけるのを、黙って見ていることなど、翡蓮にはできない。
(こうするしかなかった。)
そう思いながらも、腕から緋皇のぬくもりが消えていくのがどうしようもなく寂しくて、翡蓮は唇をかみしめた。
鳳凰城。
天高くそびえ立つ天守閣。その左右の二の丸、三の丸が、まるで鳥の翼のように見える。
龍神国の半分、東の地を統治する幕府が置かれた、将軍の御座所。
だが、翡蓮にとって、ここは、それだけの城ではない。
(ここは、オレと緋皇の始まりの場所。)
六年ぶりなのに、はっきりと覚えていた。
それも当然。皇が大罪人の子となってから、蓮は、毎日この城を見上げて過ごした。来る日も来る日も。<龍神の御子>となって、正神殿に行くまで。己の無力さを憎みながら。
皇と出会った懐かしい場所であり、皇が囚われていた場所でもある。
しかし、複雑な思いを抱えて城を見上げる翡蓮とは対照的に、緋皇は、何の感慨も無いようだった。
「なに呆けてんだ、おまえ。」
ぺしっと、翡蓮の頭をはたく。
「いたっ。何するんだよっ!」
翡蓮が頭を押さえて緋皇をにらむ。やり返さないのは、温厚な性格ゆえか、緋皇の乱暴さに慣れているせいか、両方か。
「おまえがぼーっとしてるからだろ。さっさと済ませようぜ。おい、謁見っていつだ?」
緋皇はまったく悪びれず、謝りもしない。護衛役の武家をつかまえて訊いている。
大久保がいたなら、彼に訊いただろうが、今は別行動をとっている。大久保は、先触れとして、一足早く入城した。
「申し訳ありません、神官候補生殿。我らは、城までお二人をお連れせよ、とい命しか受けておりませんので…。部屋まで案内致しますので、後のことは、そちらでお尋ねいただければと。」
職務に忠実そうな、武家の青年の答えに、緋皇は
「チッ。使えねー。」
と舌打ちする、翡蓮は慌てて
「緋皇、失礼だぞ!すみません、こいつ、礼儀を知らなくて!後でしっかり言い聞かせておきますっ!」
と、平謝りだ。
神殿から、この鳳凰城まで、一週間ほどの旅だった。その道中で、相手が誰であってもないがしろにせず、敬意をもって接する翡蓮の姿を見てきた武家の青年は、微笑んで
「お気になさらず。」
と返した。周囲の、他の武家たちも同様の表情だ。生意気でふてぶてしく、態度の悪い緋皇だが、翡蓮とのやりとりは、やんちゃな弟が兄にだけは甘えているようで、武家たちの目には微笑ましく映ったようだ。また、武家社会は、礼儀を重んじるのと同時に、勇猛さや負けん気の強さを貴ぶ。緋皇の物に動じない性格も、彼らの気風からは好ましいのだろう。
「では、<宝珠>殿。参りましょうか。」
と、先に立って歩き出す。
緋皇と翡蓮は、彼らに続く。
絢爛豪華な、東の王城の中を。
複雑に、幾度も折れ曲がる、迷路のような廊下を、先導してくれる武家の青年。緋皇や翡蓮の背後を守るように、後方を歩く青年。
ここまで護衛を務めてくれた彼らは、緋皇の正体を知らない。
廃嫡された元日嗣の君が、鳳凰城を訪れると知れれば、大騒ぎになるので、下々には伏せられている。緋皇が、日嗣の君であった「皇」だと知るのは、将軍の密命を受けて、正神殿を訪れた大久保など、幕府の上層部のみだ。
次代の龍王である<宝珠>、翡蓮が、<龍王>の名代として、将軍を見舞う、という形をとっている。
彼らにとって、<宝珠>である翡蓮が主であり、緋皇は、<宝珠>の付き添いに過ぎない。
これは、<龍王>、紫天の案だ。
「翡蓮と一緒じゃねーなら、鳳凰城なんかに行かねーよ。」と言った緋皇に、紫天は、「もともと、おまえを一人で行かせるつもりはさらさらない。」と返したのだった。「いくらオレでも、お目付け役なしでおまえをほっぽり出す勇気は流石にないわ。何しでかすか、わかったもんじゃない。」と笑った紫天に、緋皇は憮然としていたが、真実なので、珍しく言い返さなかった。
(確かに、鳳凰城で騒動起こしたら、幕府と神殿の関係に亀裂が入る事態に発展するよな…。しっかり緋皇を押さえておかないと。)
と、苦労性で責任感の強い翡蓮が決意を新たにした時。
先を歩く武家の青年が、足を止めた。
「鳳凰城に逗留される間、御二方は、この部屋をお使いください。」
と、扉を開け放つ。
二十畳はあるだろうか。二人で使うには広すぎて落ち着かない。金箔がふんだんに使われた屏風。襖に描かれた四季それぞれの情景も、筆致が流麗で、桜の枝に止まる鶯の鳴き声まで聞こえてきそうだ。文机や飾り棚はもちろん、衣桁にまで蒔絵が施されている。花台に置かれた花瓶は、一人では持てないほどの大きさで、青磁の色が見事だ。そこにふんだんに生けられた白い山茶花のせいで、ただでさえ眩いほど豪奢な部屋が、よりいっそう華やいで見える。
ちょっと気後れする翡蓮とは対照的に、緋皇はすたすたと部屋に入って行く。翡蓮が慌てて追いかけた時。
廊下を渡ってくる足音が耳についた。
荒々しくならぬように気を遣っているのはわかる。それでも、切羽詰まった様子は隠しきれず。
「急なことで申し訳ありません、神官候補生様方。」
と、まず謝罪を口にしたのは、先触れで先に城入りしていた大久保だった。人払いをしていないので、「皇様」とは呼ばない。
不穏な気配に翡蓮は、思わず緋皇を見る。
緋皇も、つ、と紅の双眸をすがめた。
大久保が続ける。
「上様がお待ちです。<宝珠>様と、そのお連れの神官候補生様を、疾く案内せよと。」
☆
着いたばかりで、荷解きする間もなく謁見が行われるのは、不自然なほどの性急さだ。
「将軍様は、そんなに、おまえに早く会いたいのかな…?」
小声で尋ねた翡蓮に、緋皇は
「まさか。」
と鼻で笑った。
「ここは、ある意味魔窟だぜ。そーゆー世間一般の親子の情愛とか期待してんじゃねーよ。」
翡蓮は、それはひどく寂しいことのような気がするのだが、ここで生まれ育った緋皇に、感覚が違うと言われてしまえば、そうなのかと思うしかない。
目に映る何もかもが煌びやかな鳳凰城。この謁見の間は、緋皇と翡蓮が滞在することになった部屋よりも、さらに数段豪奢だ。欄間の透かし彫りや、脇息の螺鈿細工など、部屋を構成する全てを、一流の職人が心血注いで創り上げたことが伝わってくる。
けれど、それらを好ましく思うよりは、重く感じてしまうのは、権謀術数の渦巻く場所特有の冷たさが漂うせいだろうか。
「じゃあ、おまえは、本当に来たくなかったのか?オレがしつこく言ったから…。」
新緑の瞳を翳らせて呟く翡蓮に、緋皇は慌てる。翡蓮に責任を感じさせるつもりなどない。緋皇が、勝手に翡蓮を悲しませたくないと思っただけで。
そして、理由はもう一つ。
「この謁見には、何か裏がある。それを確かめて、ぶっ潰すために来たんだよ。」
剣呑に血赤珊瑚の瞳を光らせた緋皇に、翡蓮が息を呑む。
「それって、危険があるってこと。」
「上様の御成りです。」
翡蓮の言葉にかぶせて、謁見の開始を告げる声が響く。
☆
神官候補生は、将軍の臣下ではないので、平伏はしない。神殿に属する者は、神に仕える者であり、俗世の身分には縛られない。
小姓に両脇を支えられて、ようやく腰を下ろした将軍は、脇息に体重を預ける。病に倒れたとは言っても、一日中寝込むほどではないらしい。ただ、顔色は土気色に近く、目も虚ろだ。金糸銀糸で華やかに彩られた着物が、ひどく重たげに映る。
(緋皇にはあんまり似てないな…。)
と、翡蓮は思う。将軍も顔立ちそのものは整っているのだが、緋皇の目を惹く美貌には及ばない。何より、表情に生気がない。常に、鋭利な眼光で周囲をにらみつける緋皇の強気さとは、かけ離れている。
ふわ、と漂う甘い香り。着物に香を焚き染めているのだろうか。距離があるので、わずかに香るだけだが、それでも頭の芯をくらりとさせる。麝香なのか、伽羅なのか、上品でありながら強烈に鼻腔を刺激する甘さだ。
先に言い含められていたのか、小姓は将軍が座すと、そそくさと立ち去って行った。
将軍が口を開く。
「久しいな、一の君。息災であったか…?」
声も掠れて聞き取りにくい。だから翡蓮は聞き間違いかと思った。
(一の君…?)
翡蓮の怪訝そうな表情から、何を考えているか読み取った緋皇が、小声で教える。
「将軍の第一子って意味だ。」
翡蓮は、ずいぶん他人行儀だと感じる。実の親が、我が子の名前も呼ばないのは、冷たくよそよそしいと。翡蓮がそう考えたことが、緋皇には伝わるのだろう。
「ここじゃ、これが普通だ。おまえのそーゆー考えは通用しねーんだよ。」
と言ってから、緋皇は何の気負いもなく、将軍に答えた。
「見ての通り、ピンピンしてるぜ。アンタと違ってな。」
さらりと嫌味を投げて、翡蓮を絶句させる。
それが、六年ぶりに相対した、将軍と元日嗣の君の…実の親子の会話だった。
緋皇は、まるで神殿で、双子でも相手にしているかのような、常と変わり無い口調で言葉を継ぐ。
「さっさと要件言えよ。こっちは暇じゃねーんだ。」
将軍に対する態度でもなければ、父に対する態度でもない。礼儀の欠片もない。
翡蓮は、将軍が怒り出すのではないかと気が気ではないが、ここで、神殿にいる時のように、緋皇を窘めるわけにもいかない。翡蓮にできたのは、緋皇の右の小袖の裾をぎゅっと握りしめることだけだった。
緋皇は、そんな翡蓮に対し、
「何蒼くなってんだよ。」
と笑いながら、その手を、左手で軽く叩く。
確かに、翡蓮が心配する必要は無かった。
将軍は、緋皇の無礼に憤ってもいなければ、我が子の昔と変わらない態度を喜んでいるわけでもない。
その面は、能面のようで、顔立ちそのものは整っているだけに、暗がりで見る人形のような不気味さが漂う。
将軍は、その無表情のまま、「要件」を言う。ぽんと放り出すように、熱のない声で。
「一の君。そなたを、日嗣の君にもどしてやろう。」
「断る。」
間髪を容れない即答だった。
緋皇に、一切の迷いも躊躇も無く。
翡蓮が、ハッと緋皇を見る。金髪が激しく揺れた。
(日嗣の君に、もどすって…。)
「なぜ断る?そなたにとって、朗報であろう…?」
なぜと問いかけながらも、声には感情が無い。
「オレは、日嗣の君にもどる気なんて、全くねーよ。話がそれだけなら、帰るぜ。」
緋皇は立ち上がり、
「翡蓮、立てよ。」
と、状況についてきていない翡蓮の腕をつかんで、引っ張り上げる。利発で聡明で、意外と度胸も据わっている翡蓮が、呆然としているのは新鮮だ。特に、こういう場面で、緋皇が翡蓮に説教されないのは珍しい。
緋皇は(かわいいとこあるじゃん。)と、ちょっと面白いと思いながら、そのまま翡蓮を引っ張って、すたすたと歩いて行く。
「待て、一の君。話はまだ済んでおらぬ。そなたには、日嗣の君にもどってもらわねば、余が困るのだ。」
と言ってくる将軍に、緋皇はもう、一瞥すら与えない。
「勝手に困ってろよ。じゃあな、将軍。これが今生の別れだ。」
未練も情も、欠片もない。緋皇は、振り向きもせず背中で言い放ち、謁見の間を後にした。
☆
磨き上げられ、飴色に光る廊下は、折れ曲がって延々続き、果てがわからない。緋皇は、迷うことなくずんずん進み、逗留するように定められた部屋に辿り着く。
緋皇が襖を閉めたところで、翡蓮は崩れ落ちるように、畳に座り込んだ。翡蓮の腕をつかんだままだった緋皇も、引っ張られる形で膝をつく。
「どうしたんだよ。」
と、緋皇がのぞきこむと、翡蓮の顔は真っ蒼だった。今にも泣き出しそうな、恐怖に引きつった顔をしている。
緋皇がぎょっとした。
「そんなに緊張してたのかよ。将軍つったって、ただの人間、うわっ!」
言葉が途中で叫びに変わったのは、翡蓮が緋皇に抱きついたからだ。
溺れている者がすがりつくように。必死に、緋皇の首筋にしがみついて。
「おまえをっ、おまえを、日嗣の君に、もどすってっ…。」
喘ぐように苦しそうに、途切れ途切れに言う。
抱きつかれている緋皇には、翡蓮の顔は見えない。
翡蓮の白くて細いうなじが、目に焼きついた。
余裕の無さを示すように、翡蓮の腕には渾身の力が込められていて、結構痛い。けれど、緋皇は、翡蓮のしたいようにさせておいて、
「落ち着けって。」
翡蓮の背中をぽんぽんと軽く叩く。
「オレにそんな気は全然ねーから。おまえ、聞いてなかったのかよ?」
「だって、だって、相手は将軍なんだぞっ…。」
翡蓮の声が震えている。緋皇は、泣いているのかと心配になった。
六年も、俗世とは無縁の神殿で暮らしながらも、翡蓮の心の奥底には「身分」というものの残酷な重さが刻まれている。それは、階級社会で育ったというだけのことではなく。
身分ゆえに、友達に会うことすら許されなかった日々の辛さを、けして忘れることができないからだ。
緋皇自身は、身分なんてどうでもいいと思っているが、常識的な翡蓮が、自分と同じように考えていないことくらい承知している。
「あのな、あれは将軍の独断で、老中たちの許可は取ってないぜ。老中たちが承知してんなら、下のやつらが、オレを神官候補生として扱うわけねーよ。だから、病に倒れて、ちょっとおかしくなっちまった将軍の戯言で、本当になるわけねーって。」
「…でも、これから老中たちの賛同を得られる可能性もあるんじゃないのか…?」
論理的に諭されて、翡蓮は少し落ち着いたのが、声からも伝わる。
緋皇は、(あと一押しか。)と、頷いて、翡蓮の背中に腕を回した。
「絶対ねーよ。老中の一人は、今の日嗣の君のじーさんなんだぜ。オレが日嗣の君にもどったら、孫が地位を失うことになる。断固阻止するって。そもそも、廃嫡ってのは、簡単に覆せるほど軽くねーんだよ。」
翡蓮が、ふっと安堵の吐息をついた。首筋に息がかかって、緋皇はちょっとくすぐったいけれど、我慢する。
「それに、オレを押しつけといて、やっぱり返せ、じゃ、神殿を馬鹿にしてるだろ。<龍王>だって怒るんじゃねーの?」
「猊下は、そんな方じゃないだろ。面子よりも、おまえの幸せを。」
と言いかけて、翡蓮は凍りついたように、言葉を切った。
「おい、翡蓮?」
緋皇は不安になる。翡蓮の顔が見たかった。翡蓮の肩に両手をかけて、そっと離す。翠玉の瞳をのぞきこんだ。
最高級の翡翠、ロウカンのような瞳は、常と変わらず澄んでいるけれど、いつもの凛とした光がない。
「そうだ、日嗣の君にもどることは、幕府や神殿から見たら、おまえにとって幸せなことじゃないか。もし、猊下がそう判断されたなら。」
「その時は、一緒に神殿出奔しようぜ。」
にいっと、むしろ楽しそうに笑って言い放った緋皇に
「は?」
と、翡蓮が目を丸くする。
「だって、オレはおまえが一緒じゃなかったら、全然幸せじゃねーもん。おまえが嫌だっつってもさらってくし。あ、これ、すっげーいい考えじゃねえ?もう講義出なくていいし、教官に説教されねーし。」
緋皇は、けらけら笑っている。結構本気らしい。
いつもと全く変わらない、傲慢で自分勝手で傍若無人な緋皇の姿を見て、翡蓮は気が抜けてしまった。こっちの悲愴感は何だったのだろう。
「どうやって生活していくつもりなんだよ。」
「そんなの、妖退治して金とればいいじゃねーか。」
「神官が妖の調伏を商売にするなんて許されないだろ。」
「神殿出るなら、もう神官じゃねーし。生きていくには金がいるだろ。綺麗ごとで食っていけるかよ。」
「ここの若君だったくせに、なんでそんなにたくましいんだ…?」
翡蓮が呆れている。
(やっといつもに戻ったな。)
と、緋皇は安心して立ち上がった。
「まあ、出奔するにしても、一回神殿にもどろうぜ。」
と、翡蓮に手を差し出す。
出立は早い方がいい。長く留まれば、将軍が妨害してくることもあり得る。
「出奔するの前提なのか?たぶん、それはしなくていいと思う…。」
と、言いながらも、翡蓮が緋皇に手を伸ばす。
指先が触れ合う寸前で。
「失礼いたします。一の君様。」
部屋の外から、声がかかる。そう呼べるのは、緋皇の正体を知る者だけだった。
☆
昼間だというのに、将軍の寝所は薄暗い。金に換えれば、庶民が一生暮らせる価値のある品々も、薄闇に沈んでいる。
漂うのは、濃密な甘い香り。熟れた果実のようでもあり、美酒のようでもある。酩酊を誘う。人を狂気へと。
絹の褥に半身を起こした格好で、将軍が呟く。
「どうすればいい…?一の君は、日嗣の君に戻らぬと言ったぞ…。」
「まあ。我が子ながら、困った子ですわねえ…。」
妖艶な声が答えた。
女にしては低めだが、体の芯を刺激する官能的な声音だ。
その面は、声にふさわしい、色香に満ちた妙齢の美女のもの。男を惑わし溺れさせる魔性。
まとう打掛は、金糸銀糸をふんだんに織り込まれた綾錦。その豪奢な装いは、この鳳凰城で第一位の后にのみ許されたものだ。
何より、一の君を我が子と呼ぶのは。
「御台よ、どうすればいいのだ…?このままでは、そなたの望みは叶えられぬぞ…。」
御台所は死んだはずだと、ここに緋皇がいたら言っただろう。
緋皇の実母、将軍の正妃、御台所は、六年前、将軍の寵姫を殺して自害した。「皇」の目の前で。
ならば、今、ここにいるのは。
「それでは、上様もお困りになりますでしょう?妾の望みは、妾がこの腹を痛めて産んだ子が、日嗣の君にもどること。それが叶わぬのなら、上様の病は癒えませんわよ…。」
ねえ、と妖艶な美女は、将軍を流し見た。
甘い香りが増す。
くらり、と眩暈に襲われた将軍に、新たな声がかかる。
「ご安心を、上様。既に手は打ってございます。」
いつからそこに控えていたのか、美貌の小姓が微笑んだ。甘く、妖しく、優艶に。
いつの間にか、美女の姿は消えていた。
☆
開け放たれた襖の前には、武家の青年たちが控えていた。中には、正神殿から鳳凰城まで同行した者たちも混じっている。
跪く彼らを見下ろし、緋皇は舌打ちする。状況が変わったことは明白だった。
青年の一人が、緊張した面持ちで言う。
「一の君様、お話が。」
「こっちにはねーよ。オレたちは帰る。帰りの護衛はいらねー。翡蓮、行くぞ。」
と、緋皇が翡蓮に手を伸ばす。
その前に、白刃が閃いた。
「申し訳ありません、一の君様。一の君様におかれましては、今しばらく鳳凰城にお留まりいただきますよう。<宝珠>様とは別室をご用意させていただきました。どうぞ、こちらへ。」
緋皇の鮮血の双眸が、極寒の冷気を帯びた。
鳳凰城内の抜刀は、禁止されている。それが許されているということは。
(こいつら、将軍の命を受けてるわけか。)
緋皇の珊瑚色の唇に、冷笑が刻まれる。
「刀抜いたってことは、覚悟はできてんだろうな?」
その凄みに、全ての者が戦慄した。刹那、誰もが動きを止める。
「翡蓮、来い。」
緋皇が手を伸ばし、今度こそ翡蓮の腕をつかんで引き寄せる。自分の背中に。
緋皇の指先が紅く光る。空中に素早く軌跡を描いた。
「四級神術発動、華焔乱舞!」
燃え盛る紅蓮の花が、武家の青年たちの上に降り注ぐ。花弁の一枚にでも触れれば、一気に全身が業火に包まれる。優美に見えても苛烈な神術。
「四級神術発動、翔風絶壁!」
翡蓮が作った風の壁が、青年たちの上から、炎の花びらを弾き飛ばす。
「翡蓮、おまえっ!」
緋皇は振り向いて怒鳴りつけようとして、できなかった。
「緋皇、だめだ…!」
背中にかばった翡蓮に、後ろから抱きすくめられる。
図形を描けなければ、神術は発動できない。
翡蓮に拘束されて、緋皇がカッとなる。
「離せ、こいつらに従う義理なんてねーんだよ!!」
「でも、神術で、人を攻撃するなんて!」
神術を、普通の人間に向けるのは禁忌だ。修行の一環で、神官どうしが神術で戦うこととは全く違う。
ここで負傷者が出れば、緋皇は。
翡蓮の腕の力は、縋りつくように強くて。
見えないのに、どんな顔をしているか、わかってしまう。
緋皇は、唇をかみしめた。
ほぼ互角だが、それでも、確実に緋皇の方が翡蓮より強い。神術も、腕力も。ふりほどけないわけではない。けれど、緋皇は、本気で翡蓮を困らせたいわけではない。
緋皇が体の力を抜く。
それが伝わり、翡蓮も腕を緩めた。
緋皇が、翡蓮の腕を抜け出して、くるりと体を反転させる。正面から、翡蓮に向き合った。
「しょうがねーから、今は、大人しくしてやるよ。」
「緋皇。」
詰めていた息を吐き出すように名前を呼んだ翡蓮に、頷きを返し、緋皇は、周囲を睥睨した。
「翡蓮は、丁重に扱え。」
その声は、非情。一切の容赦がない。それは、命令することに慣れた者だけが持ちうる冷徹さで、彼がまぎれもなく日嗣の君であった証だった。
「そいつに、指一本でも触れてみろ。この鳳凰城ごと、てめえら全員焼き殺してやる。」
完全に本気の宣告。
先ほどの冷笑の比ではない。
武家の青年たちを、一人残らず震え上がらせた。心胆寒からしめる警告。
同時に、それは翡蓮への忠告。否、脅迫か。「こいつらを殺されたくなかったら、おまえは手段を選ばず自分の身を守れ。」という。
緋皇の背中が遠ざかって行く。
これでよかったのか、翡蓮にはわからない。
けれど、緋皇が人を傷つけるのを、黙って見ていることなど、翡蓮にはできない。
(こうするしかなかった。)
そう思いながらも、腕から緋皇のぬくもりが消えていくのがどうしようもなく寂しくて、翡蓮は唇をかみしめた。
0
あなたにおすすめの小説
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
英雄一家は国を去る【一話完結】
青緑 ネトロア
ファンタジー
婚約者との舞踏会中、火急の知らせにより領地へ帰り、3年かけて魔物大発生を収めたテレジア。3年振りに王都へ戻ったが、国の一大事から護った一家へ言い渡されたのは、テレジアの婚約破棄だった。
- - - - - - - - - - - - -
ただいま後日談の加筆を計画中です。
2025/06/22
戦場の英雄、上官の陰謀により死亡扱いにされ、故郷に帰ると許嫁は結婚していた。絶望の中、偶然助けた許嫁の娘に何故か求婚されることに
千石
ファンタジー
「絶対生きて帰ってくる。その時は結婚しよう」
「はい。あなたの帰りをいつまでも待ってます」
許嫁と涙ながらに約束をした20年後、英雄と呼ばれるまでになったルークだったが生還してみると死亡扱いにされていた。
許嫁は既に結婚しており、ルークは絶望の只中に。
上官の陰謀だと知ったルークは激怒し、殴ってしまう。
言い訳をする気もなかったため、全ての功績を抹消され、貰えるはずだった年金もパー。
絶望の中、偶然助けた子が許嫁の娘で、
「ルーク、あなたに惚れたわ。今すぐあたしと結婚しなさい!」
何故か求婚されることに。
困りながらも巻き込まれる騒動を通じて
ルークは失っていた日常を段々と取り戻していく。
こちらは他のウェブ小説にも投稿しております。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
魅了の対価
しがついつか
ファンタジー
家庭事情により給金の高い職場を求めて転職したリンリーは、縁あってブラウンロード伯爵家の使用人になった。
彼女は伯爵家の第二子アッシュ・ブラウンロードの侍女を任された。
ブラウンロード伯爵家では、なぜか一家のみならず屋敷で働く使用人達のすべてがアッシュのことを嫌悪していた。
アッシュと顔を合わせてすぐにリンリーも「あ、私コイツ嫌いだわ」と感じたのだが、上級使用人を目指す彼女は私情を挟まずに職務に専念することにした。
淡々と世話をしてくれるリンリーに、アッシュは次第に心を開いていった。
俺を振ったはずの腐れ縁幼馴染が、俺に告白してきました。
true177
恋愛
一年前、伊藤 健介(いとう けんすけ)は幼馴染の多田 悠奈(ただ ゆうな)に振られた。それも、心無い手紙を下駄箱に入れられて。
それ以来悠奈を避けるようになっていた健介だが、二年生に進級した春になって悠奈がいきなり告白を仕掛けてきた。
これはハニートラップか、一年前の出来事を忘れてしまっているのか……。ともかく、健介は断った。
日常が一変したのは、それからである。やたらと悠奈が絡んでくるようになったのだ。
彼女の狙いは、いったい何なのだろうか……。
※小説家になろう、ハーメルンにも同一作品を投稿しています。
※内部進行完結済みです。毎日連載です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる