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第36章
「佐倉さん、明日からしばらく店を空けるの?」
店じまいの準備をしていると、常連客の老婆が声をかけてきた。近頃、この老婆は毎週のように俺の店に立ち寄って絹を買っていく。孫娘の嫁入り支度でもしているのだろうか。
「はい、西崑国国境方面に仕入れに行ってきます。いい絹を見つけてきますよ!」
俺は明るく答えた。老婆は不安げな表情を浮かべる。
「あら、それは楽しみだわ。でも、そっちは今は危険だって聞くけど…」
「大丈夫ですよ! 護衛も雇ってますから!」
俺は笑顔で答えながら、心の中では「実のところ、かなり危険かもしれない」と思っていた。いや、危険なことは確実だった。
今の俺は「梁易安」ではない。確かにスマホにステータスウインドウは引き継がれているが、もう黒炎軍の軍師でもない。戦闘力は梁易安より下がっているし、何より龍承業や黒炎軍のもとに行ったところで、俺のことを知っている人間は誰もいない。最悪の場合、スパイとして処刑されるだろう。それが最も現実的なシナリオだ。
「まぁ、その心配があるからこそ護衛を雇ったわけだが……」
俺は溜息をつきながら、店の棚を片付けていく。護衛を探す過程で、意外な人物と出会った。周昇という元黒炎軍の兵士だ。楽安街の娘と恋に落ち、軍を抜けて結婚した若い男で、今は護衛の仕事で生計を立てているらしい。
彼は俺と同じくらいの年齢で、落ち着いた物腰の持ち主だった。いわゆる「堅実キャラ」というやつだ。見た目は地味だが、眼光に鋭さがあり、腕も立つらしい。軍を抜けたとはいえ、黒炎軍内部の事情に詳しいのは大きな利点だった。
商品を箱に詰めながら、俺は胸を熱くさせていた。
(龍承業……待っていてくれ。必ず会いに行くから)
店の片付けを終えると、宿への道を急いだ。明日の出発に備えて、早めに休むつもりだった。部屋に戻ると、用意した旅支度を最終確認する。馬のレンタル料、旅中の食料、急場しのぎの武器と防具、そして何より重要な——龍承業への手紙。何度書き直しても納得がいかない。いざ会えた時のために、自分が梁易安であるという証拠が必要だったが、思いつくのは「あの夜、龍承業の寝所で……」という個人的な情報ばかり。これでは間違いなく怪しい奴だ。
「もういいや、これは直接会った時に伝えよう」
俺は手紙を破り捨て、眠りについた。心の中は不安と期待で混乱していたが、明日からの旅に備えて無理やり目を閉じた。
◆◆◆
「佐倉殿、準備はよろしいですか?」
翌朝、宿の前で周昇が待っていた。彼は軽装の鎧を身につけ、腰に剣を差している。典型的な護衛兵といった出で立ちだ。彼の後ろには二頭の馬が繋がれており、俺の荷物を載せるための馬車も準備されていた。
「うん、バッチリだよ。さあ、行こうか」
意気揚々と答える俺を見て、周昇は少し困惑した表情を見せた。
「……佐倉殿は商人としては変わった方ですね」
「え、そう?」
思わず素の声が出てしまった。俺は慌てて取り繕う。
「あ、いや、その……次の仕入れに行くのが楽しみなんだよ」
確かに一般的な商人の振る舞いとはちょっと違うかもしれない。でも俺にとっては、これが「冒険」の始まりなんだ。ゲームの主人公として新たなクエストを始めるような気分。──いや、ゲームではなく現実なんだけど。
(待っていてくれよ、龍承業……)
俺はそう心の中で呟きながら、馬に跨った。
町を出て、西崑国方面への街道を進む。周囲の景色は梁易安として見たものと変わらないが、佐倉遼の身体で感じる感覚は少し違う。今までより少し背が高いせいか、視界が広い。でも体力はあまりないらしく、馬に乗っているだけでも腰が痛い。
そんな痛みを我慢しながら、俺は話を切り出した。
「ねぇ、周昇くん。黒炎軍のこと、もう少し詳しく教えてくれない?」
周昇は隣で馬を並走させながら、不思議そうな顔をした。
「何が知りたいのですか?」
「最近の黒炎軍の状況とか、あと……梁易安って、どんな評判だったの?」
周昇の歩みが少し乱れた。彼は俺を振り返り、複雑な表情を浮かべた。
「……なぜそのような質問を?」
「あ、いやね、楽安街で梁易安が始めた商業特区のおかげで俺も商売できたから、ちょっと興味があってさ」
周昇はしばらく黙って騎乗を続けた後、ようやく口を開いた。
「まず、黒炎軍の現状ですが……あまり良くありません」
「というと?」
「総大将は南辰国本土への攻め込みを続けていますが、戦線は伸びすぎています。補給も不足がちで、士気も下がっています」
なるほど、やはりそうか。ゲームでもこの時期、黒炎軍は過剰な攻勢で消耗していた。
「人も足りない。楽安街を出てから、黒炎軍はどんどん人数が減っています。総大将の厳しさから逃げ出す兵士も増えているとか」
「それは……深刻だね」
「そして、南辰国、西崑国、東越国の三国同盟軍が結成されつつあると噂されています。もし結成されれば、黒炎軍の敗北は時間の問題でしょう」
そう、それこそが「蒼空原の戦い」に繋がる。ゲーム内では黒炎軍の滅亡が決定づけられる最終戦だ。
「梁易安殿については……」
周昇は言葉を選ぶように間を置いた。
「彼は不思議な人物でした。元々は捕虜だったはずなのに、いつの間にか軍師として総大将の信頼を得ていました。私のような下級兵士でさえ、彼の名を知らない者はいませんでした」
俺はついニヤけそうになるのを必死で堪えた。
「戦略に長け、経済にも明るく、黒炎軍の戦術や街の統治方法を大きく変えた人物です。特に楽安街の商業特区は大成功でした。黒炎軍の資金と物資不足を大幅に改善したと言われています」
「へぇ~」
「また、彼が総大将に提案した『新たな国づくり』の考えは、多くの兵士の心を揺さぶりました。私もその一人です」
周昇の目が遠くを見つめる。やはりあの龍承業の演説は多くの兵士の心を動かしたようだ。
「しかし、最も驚くべきは……」
周昇は言葉を選ぶように間を置いた。
「彼と総大将の関係です」
「関係?」
「はい。梁易安殿は総大将の……」
彼は少し言いづらそうに顔を赤らめた。
「寵愛を受けていたと噂されていました」
「げふっ!」
思わず唾を飲み込んで咳き込んでしまった。まさか周昇までそれを知っているとは。
(まぁそりゃあそうだよな…… あいつ、わりと堂々と毎晩俺を寝所に呼びつけてたし。下級兵士にまで話が回っててもおかしくはない)
「噂では、梁易安殿は唯一、総大将を穏やかにできる存在だったそうです」
「え?」
「総大将はもともと冷酷で、誰も近づけない存在でした。しかし、梁易安殿が側にいる時だけは違ったと。彼がいると総大将は少し表情が柔らかくなり、命令も理にかなったものになりました」
俺の胸が熱くなった。自分が龍承業にそれほどの影響を与えていたなんて……。
「梁易安殿の戦死後、総大将は完全に変わりました。まるで別人のように……」
周昇の表情が暗くなった。
「どう変わったの?」
「かつてない怒りに支配され、時に部下にも牙を剥くようになりました。敵に対しては容赦なく、降伏した村も容赦なく焼き払うこともあります。最近では『黒龍魔将』と恐れられています」
俺は俯いた。心が痛んだ。龍承業が自分のせいで苦しんでいると思うと、胸が締め付けられる。彼の心を傷つけてしまったのは間違いない。ますます彼のもとへ行く必要性を感じた。
「私が軍を去ったのは、妻ができたからというのも理由ですが……正直なところ、あの変わり果てた総大将の下では怖くて仕えられなかったというのもあります」
「そうか……」
俺はただそれだけしか言えなかった。龍承業の喪失感と怒りを考えると、胸がきりきりと痛む。彼の心の傷は自分に直せるのだろうか。もう手遅れになってたりはしないだろうか……
「すみません、暗い話になってしまいました」
周昇は気を取り直した。
「佐倉殿、本当に西崑国境まで行くつもりですか?黒炎軍の拠点に近づくのは危険ですよ」
「うん、大丈夫。ちゃんと通行証も持ってるし」
「通行証があっても、今は戦時中です。特に最近は警戒が厳しくなっていると聞きます」
「そうなのか……」
俺は不安を感じながらも、前を向いて進み続けた。どうしても龍承業に会わなければ。死ぬことがわかっている戦場へ向かう彼を、ただ見送ることなんてできない。
「どうしても行きたいなら、最初は黒炎軍の前線基地ではなく、玄武城の商業区を目指すべきです。そこなら商人も多く、怪しまれずに情報を集められるでしょう」
「うん、そうするよ。ありがとう」
周昇の親切な助言に感謝しながら、俺は決意を新たにした。龍承業に会うには、まず玄武城に入るところからだ。何事も一歩ずつ頑張ろう。
店じまいの準備をしていると、常連客の老婆が声をかけてきた。近頃、この老婆は毎週のように俺の店に立ち寄って絹を買っていく。孫娘の嫁入り支度でもしているのだろうか。
「はい、西崑国国境方面に仕入れに行ってきます。いい絹を見つけてきますよ!」
俺は明るく答えた。老婆は不安げな表情を浮かべる。
「あら、それは楽しみだわ。でも、そっちは今は危険だって聞くけど…」
「大丈夫ですよ! 護衛も雇ってますから!」
俺は笑顔で答えながら、心の中では「実のところ、かなり危険かもしれない」と思っていた。いや、危険なことは確実だった。
今の俺は「梁易安」ではない。確かにスマホにステータスウインドウは引き継がれているが、もう黒炎軍の軍師でもない。戦闘力は梁易安より下がっているし、何より龍承業や黒炎軍のもとに行ったところで、俺のことを知っている人間は誰もいない。最悪の場合、スパイとして処刑されるだろう。それが最も現実的なシナリオだ。
「まぁ、その心配があるからこそ護衛を雇ったわけだが……」
俺は溜息をつきながら、店の棚を片付けていく。護衛を探す過程で、意外な人物と出会った。周昇という元黒炎軍の兵士だ。楽安街の娘と恋に落ち、軍を抜けて結婚した若い男で、今は護衛の仕事で生計を立てているらしい。
彼は俺と同じくらいの年齢で、落ち着いた物腰の持ち主だった。いわゆる「堅実キャラ」というやつだ。見た目は地味だが、眼光に鋭さがあり、腕も立つらしい。軍を抜けたとはいえ、黒炎軍内部の事情に詳しいのは大きな利点だった。
商品を箱に詰めながら、俺は胸を熱くさせていた。
(龍承業……待っていてくれ。必ず会いに行くから)
店の片付けを終えると、宿への道を急いだ。明日の出発に備えて、早めに休むつもりだった。部屋に戻ると、用意した旅支度を最終確認する。馬のレンタル料、旅中の食料、急場しのぎの武器と防具、そして何より重要な——龍承業への手紙。何度書き直しても納得がいかない。いざ会えた時のために、自分が梁易安であるという証拠が必要だったが、思いつくのは「あの夜、龍承業の寝所で……」という個人的な情報ばかり。これでは間違いなく怪しい奴だ。
「もういいや、これは直接会った時に伝えよう」
俺は手紙を破り捨て、眠りについた。心の中は不安と期待で混乱していたが、明日からの旅に備えて無理やり目を閉じた。
◆◆◆
「佐倉殿、準備はよろしいですか?」
翌朝、宿の前で周昇が待っていた。彼は軽装の鎧を身につけ、腰に剣を差している。典型的な護衛兵といった出で立ちだ。彼の後ろには二頭の馬が繋がれており、俺の荷物を載せるための馬車も準備されていた。
「うん、バッチリだよ。さあ、行こうか」
意気揚々と答える俺を見て、周昇は少し困惑した表情を見せた。
「……佐倉殿は商人としては変わった方ですね」
「え、そう?」
思わず素の声が出てしまった。俺は慌てて取り繕う。
「あ、いや、その……次の仕入れに行くのが楽しみなんだよ」
確かに一般的な商人の振る舞いとはちょっと違うかもしれない。でも俺にとっては、これが「冒険」の始まりなんだ。ゲームの主人公として新たなクエストを始めるような気分。──いや、ゲームではなく現実なんだけど。
(待っていてくれよ、龍承業……)
俺はそう心の中で呟きながら、馬に跨った。
町を出て、西崑国方面への街道を進む。周囲の景色は梁易安として見たものと変わらないが、佐倉遼の身体で感じる感覚は少し違う。今までより少し背が高いせいか、視界が広い。でも体力はあまりないらしく、馬に乗っているだけでも腰が痛い。
そんな痛みを我慢しながら、俺は話を切り出した。
「ねぇ、周昇くん。黒炎軍のこと、もう少し詳しく教えてくれない?」
周昇は隣で馬を並走させながら、不思議そうな顔をした。
「何が知りたいのですか?」
「最近の黒炎軍の状況とか、あと……梁易安って、どんな評判だったの?」
周昇の歩みが少し乱れた。彼は俺を振り返り、複雑な表情を浮かべた。
「……なぜそのような質問を?」
「あ、いやね、楽安街で梁易安が始めた商業特区のおかげで俺も商売できたから、ちょっと興味があってさ」
周昇はしばらく黙って騎乗を続けた後、ようやく口を開いた。
「まず、黒炎軍の現状ですが……あまり良くありません」
「というと?」
「総大将は南辰国本土への攻め込みを続けていますが、戦線は伸びすぎています。補給も不足がちで、士気も下がっています」
なるほど、やはりそうか。ゲームでもこの時期、黒炎軍は過剰な攻勢で消耗していた。
「人も足りない。楽安街を出てから、黒炎軍はどんどん人数が減っています。総大将の厳しさから逃げ出す兵士も増えているとか」
「それは……深刻だね」
「そして、南辰国、西崑国、東越国の三国同盟軍が結成されつつあると噂されています。もし結成されれば、黒炎軍の敗北は時間の問題でしょう」
そう、それこそが「蒼空原の戦い」に繋がる。ゲーム内では黒炎軍の滅亡が決定づけられる最終戦だ。
「梁易安殿については……」
周昇は言葉を選ぶように間を置いた。
「彼は不思議な人物でした。元々は捕虜だったはずなのに、いつの間にか軍師として総大将の信頼を得ていました。私のような下級兵士でさえ、彼の名を知らない者はいませんでした」
俺はついニヤけそうになるのを必死で堪えた。
「戦略に長け、経済にも明るく、黒炎軍の戦術や街の統治方法を大きく変えた人物です。特に楽安街の商業特区は大成功でした。黒炎軍の資金と物資不足を大幅に改善したと言われています」
「へぇ~」
「また、彼が総大将に提案した『新たな国づくり』の考えは、多くの兵士の心を揺さぶりました。私もその一人です」
周昇の目が遠くを見つめる。やはりあの龍承業の演説は多くの兵士の心を動かしたようだ。
「しかし、最も驚くべきは……」
周昇は言葉を選ぶように間を置いた。
「彼と総大将の関係です」
「関係?」
「はい。梁易安殿は総大将の……」
彼は少し言いづらそうに顔を赤らめた。
「寵愛を受けていたと噂されていました」
「げふっ!」
思わず唾を飲み込んで咳き込んでしまった。まさか周昇までそれを知っているとは。
(まぁそりゃあそうだよな…… あいつ、わりと堂々と毎晩俺を寝所に呼びつけてたし。下級兵士にまで話が回っててもおかしくはない)
「噂では、梁易安殿は唯一、総大将を穏やかにできる存在だったそうです」
「え?」
「総大将はもともと冷酷で、誰も近づけない存在でした。しかし、梁易安殿が側にいる時だけは違ったと。彼がいると総大将は少し表情が柔らかくなり、命令も理にかなったものになりました」
俺の胸が熱くなった。自分が龍承業にそれほどの影響を与えていたなんて……。
「梁易安殿の戦死後、総大将は完全に変わりました。まるで別人のように……」
周昇の表情が暗くなった。
「どう変わったの?」
「かつてない怒りに支配され、時に部下にも牙を剥くようになりました。敵に対しては容赦なく、降伏した村も容赦なく焼き払うこともあります。最近では『黒龍魔将』と恐れられています」
俺は俯いた。心が痛んだ。龍承業が自分のせいで苦しんでいると思うと、胸が締め付けられる。彼の心を傷つけてしまったのは間違いない。ますます彼のもとへ行く必要性を感じた。
「私が軍を去ったのは、妻ができたからというのも理由ですが……正直なところ、あの変わり果てた総大将の下では怖くて仕えられなかったというのもあります」
「そうか……」
俺はただそれだけしか言えなかった。龍承業の喪失感と怒りを考えると、胸がきりきりと痛む。彼の心の傷は自分に直せるのだろうか。もう手遅れになってたりはしないだろうか……
「すみません、暗い話になってしまいました」
周昇は気を取り直した。
「佐倉殿、本当に西崑国境まで行くつもりですか?黒炎軍の拠点に近づくのは危険ですよ」
「うん、大丈夫。ちゃんと通行証も持ってるし」
「通行証があっても、今は戦時中です。特に最近は警戒が厳しくなっていると聞きます」
「そうなのか……」
俺は不安を感じながらも、前を向いて進み続けた。どうしても龍承業に会わなければ。死ぬことがわかっている戦場へ向かう彼を、ただ見送ることなんてできない。
「どうしても行きたいなら、最初は黒炎軍の前線基地ではなく、玄武城の商業区を目指すべきです。そこなら商人も多く、怪しまれずに情報を集められるでしょう」
「うん、そうするよ。ありがとう」
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