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STAGE12-09
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黒い泥まみれの女性が、ゆらりと立ち上がる。
サリィと呼ばれていたその人は、とても人間とは呼べないような見てくれに変わってしまった。
体格は私と大差のない、ごくごく普通の女性だったはずだ。なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
(これまでの【混沌の下僕】と、何が違うの?)
私はあの特殊な泥に関わった人間を三人見ている。使っていなかった元脂身さんはともかくとしても、泥を使ってしまった二人も、本人たちには何の変化もなかったはずだ。
人間は人間、魔物は魔物。そういう風にしか見えなかったからこそ、敵ネームが読み取れない人々はその罪を見逃していたのだから。
なら、サリィはあの二人と何が違うの? 使っていた量が多かったとか? 泥に関わった時間が長かったとか?
……わからない。そもそもこの魔物は謎が多すぎる。
カールが確認したものと私の前に現れるものと、強さにも差がありすぎるし。それとも、やっぱり私を狙っている誰かが……
「アンジェラ下がって。屋内でそのメイスは危ないよ」
「ジュード……」
考えるほどに混乱していく私を、彼のたくましい腕が引き下げて、代わりに前に出てくれた。
と言っても、彼の曲剣も屋内では不利な武器だ。今も丸腰のままで前に立ってくれている。
他の皆も屋内では自由に動けないし、魔術を撃つなんてもってのほかだ。特に破壊師弟はね。
(頼みの綱は、コントロールが的確なノア一人なんだけど……まずは状況を見極めないと)
ゆらゆらと泥まみれの体を揺らしながら、サリィがクロヴィスたちに一歩近付く。その度にこぼれ落ちるのは、奇妙な光沢をもったコールタールのような液体だ。
自然物とは思えないそれが、可愛らしいデザインの家を汚していく。
「クろ、ヴィス……」
吐息の多い、かすれた声が泥の中から響く。
実の妹のあまりの変わりように、シエンナさんはもう放心状態だ。
その体が倒れないようクロヴィスが抱きしめているけど、あれではクロヴィスは戦えないだろう。
「――サリィ、聞いてくれ」
動きあぐねている私たちを横目に、クロヴィスは泥まみれの女性に声をかけ始めた。
怯えたり恐れたりしていない、騎士らしいハッキリとした声だ。
……私たちはサリィについて詳しく知らない。当事者の彼が動いてくれるのなら、まずはそれを見てからのほうが良さそうね。
「……検討違いな話だったら悪い。けど、もし本当なら、俺がハッキリしておくべき問題だと思うから」
シエンナさんと手をしっかりと繋ぎながら、クロヴィスはサリィへまっすぐ視線を向ける。
それまでの色々を打ち消すような、ヒーローらしい凛々しい表情だ。
「サリィ、俺はシエンナを愛しているんだ。お前のことは嫌いではないけど、特別でもない。俺は彼女と、新しい家族を心から大事に想っている。これからも気持ちは変わらない」
えうえうと鼻をすすった赤ちゃんに、クロヴィスは少しだけ視線を向けて、穏やかに微笑む。
一途で強い『父親』としての決意を込めて。
「もしお前が俺を好いてくれているとしても、その気持ちには応えられない。俺にはもう、かけがえのない家族がいるんだ」
恋の終わりが告げられる。……というか、結婚しているのだから、結果はとっくに出ていたのだけど。
改めての拒絶は、今のサリィにどう響くだろうか。
「…………」
彼女の表面の泥が、ゆらゆらと揺れながら輝いている。
真っ黒な涙が床に染みを作りながら、止まることなく細い頬を伝っていく。
「く、ロ……ヴィ……」
サリィの声はどんどんかすれてきているようだ。
まるで、電波状態の悪いラジオのような途切れ途切れの声に、ウィリアムがそっと顔を背ける。
「…………アンジェラ」
そんな中、屋内でも戦えると期待していたノアは、私たちの望む通りに魔術の準備を終えてくれたらしい。
レンズの向こうの白銀が『いつでも行ける』と合図を送りながら、じっと機会を窺っている。
さすがに人間に攻撃魔術を撃つのは怖いけど、その辺りの加減はノアを信じよう。
「サリィ……」
また一歩だけ、サリィの体がクロヴィスに近付いた。
足取りはずいぶんと弱々しく、迫っているというよりは彼に“すがっている”ようにも見える。
はたして、サリィの人としての良識はどれぐらいあるのだろう。
「ちが、……の。クロ……ス……ち、が……」
(『違うの』?)
黒い涙が、量を増した気がする。
ただクロヴィスを呼んでいた声に、違う言葉が混じった。……普通に考えれば、加害者の言い訳にすぎないのだけど。
「……そろそろか?」
「待って、まだ撃たないで。様子がおかしいわ」
焦れたノアが呪文を唱えようとするのを、腕を伸ばして止める。
……サリィのこの姿。もし魔物と融合したのなら、すぐにでもこちらを襲えるはずなのに。
だけど彼女は、クロヴィスに話しかけているだけだ。『敵』と呼ぶには違和感を覚える。
「……ロヴィ……わ……し、じゃ……ない」
息の音がまた増えて、私では言葉を聞き取れなくなってきた。
サリィはもう歩もうとはせず、今度はゆっくりと首を横にふっている。
聞き取れたらしきジュードが「多分、『私じゃない』って言ってる」と教えてくれたけど、どういうことだろう?
(ただの言い訳じゃないの?)
どう見ても魔物に変じた彼女が、『私じゃない』? それはもしかして、別の誰かが【混沌の下僕】を撒いていたってこと――――、
「逃げて」
妙にはっきりと落ちたサリィの声に、私も皆もクロヴィスも動きを止めた。
「……逃げて、ですって?」
問いかけても、サリィは顔を伏せたまま動かなくなってしまっている。
黒い涙の最後の一滴が、汚れた床に飲まれて消えた。
……逃げてって言われても、今襲ってきている脅威はそう言ったサリィ張本人だ。
それとも、別の魔物が現れようとしているの? 今のところ、敵ネームが出る気配はないけど。
「クロヴィス、今のうちにこっちへ!!」
あっけにとられていた彼に、私たちの背後から慌ててダレンが呼びかける。ハッとしたクロヴィスは、家族をかばいながらすぐに応接間の中へ走ってきた。
……その際、サリィの真横をすり抜けたのに、彼女は全く反応しなかった。
「よし!」
夫妻は難なく合流でき、彼らをかばうように皆は立ち位置を変える。
一番サリィに近い私とジュードは、警戒しつつも彼女の反応を待つ。
十秒。二十秒。……正確には、もっと少ない時間だっただろうか。
『…………あーあ』
俯いたままのサリィから、また声が聞こえた。
先ほどまでのかすれた声ではなく、ずいぶんとハッキリしたものだ。
『なんでこんな姿になってまで庇うのかしら? 貴女だって、妬ましいと思っていたはずなのに』
――ハッキリした……まるで別人のような声だ。いや、本当に別人なのだろう。
サリィの声を正確に覚えてはいないけど、今のはどこか幼さの残る『少女』の声だったもの。
苛立ちを声ににじませながら、サリィの体がゆっくりと動きを確かめ始める。
私の前に立つジュードが、わずかに強張った気がした。
「お前は誰だ? サリィをどこへやったッ!?」
警戒する私たちを無視して、背後からクロヴィスが強く問いかける。付き合いの長い彼は、今のがサリィの声ではないとすぐにわかったようだ。
糾弾するような声に、しかし泥まみれのサリィは小さく笑った。
『さあ? 少しは自分で考えなさいよ。その空っぽの頭を使ってね』
「なんだとっ!?」
憤る彼を煽るように、泥の中から嘲笑が続く。
やがて、くるりと体を反転させた彼女は、再び私たちと向かい合った。
先ほどまでのおぼつかない様子はない。泥にまみれながらも、その立ち方はしっかりとしている。
『だって私は、クロヴィスのことが大嫌いなんだもの』
ニタリと、裂けるように唇が歪む。
黒い泥で全身を覆っているにもかかわらず、サリィの瞳は“不気味な青色”で爛々と輝いていた。
サリィと呼ばれていたその人は、とても人間とは呼べないような見てくれに変わってしまった。
体格は私と大差のない、ごくごく普通の女性だったはずだ。なのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
(これまでの【混沌の下僕】と、何が違うの?)
私はあの特殊な泥に関わった人間を三人見ている。使っていなかった元脂身さんはともかくとしても、泥を使ってしまった二人も、本人たちには何の変化もなかったはずだ。
人間は人間、魔物は魔物。そういう風にしか見えなかったからこそ、敵ネームが読み取れない人々はその罪を見逃していたのだから。
なら、サリィはあの二人と何が違うの? 使っていた量が多かったとか? 泥に関わった時間が長かったとか?
……わからない。そもそもこの魔物は謎が多すぎる。
カールが確認したものと私の前に現れるものと、強さにも差がありすぎるし。それとも、やっぱり私を狙っている誰かが……
「アンジェラ下がって。屋内でそのメイスは危ないよ」
「ジュード……」
考えるほどに混乱していく私を、彼のたくましい腕が引き下げて、代わりに前に出てくれた。
と言っても、彼の曲剣も屋内では不利な武器だ。今も丸腰のままで前に立ってくれている。
他の皆も屋内では自由に動けないし、魔術を撃つなんてもってのほかだ。特に破壊師弟はね。
(頼みの綱は、コントロールが的確なノア一人なんだけど……まずは状況を見極めないと)
ゆらゆらと泥まみれの体を揺らしながら、サリィがクロヴィスたちに一歩近付く。その度にこぼれ落ちるのは、奇妙な光沢をもったコールタールのような液体だ。
自然物とは思えないそれが、可愛らしいデザインの家を汚していく。
「クろ、ヴィス……」
吐息の多い、かすれた声が泥の中から響く。
実の妹のあまりの変わりように、シエンナさんはもう放心状態だ。
その体が倒れないようクロヴィスが抱きしめているけど、あれではクロヴィスは戦えないだろう。
「――サリィ、聞いてくれ」
動きあぐねている私たちを横目に、クロヴィスは泥まみれの女性に声をかけ始めた。
怯えたり恐れたりしていない、騎士らしいハッキリとした声だ。
……私たちはサリィについて詳しく知らない。当事者の彼が動いてくれるのなら、まずはそれを見てからのほうが良さそうね。
「……検討違いな話だったら悪い。けど、もし本当なら、俺がハッキリしておくべき問題だと思うから」
シエンナさんと手をしっかりと繋ぎながら、クロヴィスはサリィへまっすぐ視線を向ける。
それまでの色々を打ち消すような、ヒーローらしい凛々しい表情だ。
「サリィ、俺はシエンナを愛しているんだ。お前のことは嫌いではないけど、特別でもない。俺は彼女と、新しい家族を心から大事に想っている。これからも気持ちは変わらない」
えうえうと鼻をすすった赤ちゃんに、クロヴィスは少しだけ視線を向けて、穏やかに微笑む。
一途で強い『父親』としての決意を込めて。
「もしお前が俺を好いてくれているとしても、その気持ちには応えられない。俺にはもう、かけがえのない家族がいるんだ」
恋の終わりが告げられる。……というか、結婚しているのだから、結果はとっくに出ていたのだけど。
改めての拒絶は、今のサリィにどう響くだろうか。
「…………」
彼女の表面の泥が、ゆらゆらと揺れながら輝いている。
真っ黒な涙が床に染みを作りながら、止まることなく細い頬を伝っていく。
「く、ロ……ヴィ……」
サリィの声はどんどんかすれてきているようだ。
まるで、電波状態の悪いラジオのような途切れ途切れの声に、ウィリアムがそっと顔を背ける。
「…………アンジェラ」
そんな中、屋内でも戦えると期待していたノアは、私たちの望む通りに魔術の準備を終えてくれたらしい。
レンズの向こうの白銀が『いつでも行ける』と合図を送りながら、じっと機会を窺っている。
さすがに人間に攻撃魔術を撃つのは怖いけど、その辺りの加減はノアを信じよう。
「サリィ……」
また一歩だけ、サリィの体がクロヴィスに近付いた。
足取りはずいぶんと弱々しく、迫っているというよりは彼に“すがっている”ようにも見える。
はたして、サリィの人としての良識はどれぐらいあるのだろう。
「ちが、……の。クロ……ス……ち、が……」
(『違うの』?)
黒い涙が、量を増した気がする。
ただクロヴィスを呼んでいた声に、違う言葉が混じった。……普通に考えれば、加害者の言い訳にすぎないのだけど。
「……そろそろか?」
「待って、まだ撃たないで。様子がおかしいわ」
焦れたノアが呪文を唱えようとするのを、腕を伸ばして止める。
……サリィのこの姿。もし魔物と融合したのなら、すぐにでもこちらを襲えるはずなのに。
だけど彼女は、クロヴィスに話しかけているだけだ。『敵』と呼ぶには違和感を覚える。
「……ロヴィ……わ……し、じゃ……ない」
息の音がまた増えて、私では言葉を聞き取れなくなってきた。
サリィはもう歩もうとはせず、今度はゆっくりと首を横にふっている。
聞き取れたらしきジュードが「多分、『私じゃない』って言ってる」と教えてくれたけど、どういうことだろう?
(ただの言い訳じゃないの?)
どう見ても魔物に変じた彼女が、『私じゃない』? それはもしかして、別の誰かが【混沌の下僕】を撒いていたってこと――――、
「逃げて」
妙にはっきりと落ちたサリィの声に、私も皆もクロヴィスも動きを止めた。
「……逃げて、ですって?」
問いかけても、サリィは顔を伏せたまま動かなくなってしまっている。
黒い涙の最後の一滴が、汚れた床に飲まれて消えた。
……逃げてって言われても、今襲ってきている脅威はそう言ったサリィ張本人だ。
それとも、別の魔物が現れようとしているの? 今のところ、敵ネームが出る気配はないけど。
「クロヴィス、今のうちにこっちへ!!」
あっけにとられていた彼に、私たちの背後から慌ててダレンが呼びかける。ハッとしたクロヴィスは、家族をかばいながらすぐに応接間の中へ走ってきた。
……その際、サリィの真横をすり抜けたのに、彼女は全く反応しなかった。
「よし!」
夫妻は難なく合流でき、彼らをかばうように皆は立ち位置を変える。
一番サリィに近い私とジュードは、警戒しつつも彼女の反応を待つ。
十秒。二十秒。……正確には、もっと少ない時間だっただろうか。
『…………あーあ』
俯いたままのサリィから、また声が聞こえた。
先ほどまでのかすれた声ではなく、ずいぶんとハッキリしたものだ。
『なんでこんな姿になってまで庇うのかしら? 貴女だって、妬ましいと思っていたはずなのに』
――ハッキリした……まるで別人のような声だ。いや、本当に別人なのだろう。
サリィの声を正確に覚えてはいないけど、今のはどこか幼さの残る『少女』の声だったもの。
苛立ちを声ににじませながら、サリィの体がゆっくりと動きを確かめ始める。
私の前に立つジュードが、わずかに強張った気がした。
「お前は誰だ? サリィをどこへやったッ!?」
警戒する私たちを無視して、背後からクロヴィスが強く問いかける。付き合いの長い彼は、今のがサリィの声ではないとすぐにわかったようだ。
糾弾するような声に、しかし泥まみれのサリィは小さく笑った。
『さあ? 少しは自分で考えなさいよ。その空っぽの頭を使ってね』
「なんだとっ!?」
憤る彼を煽るように、泥の中から嘲笑が続く。
やがて、くるりと体を反転させた彼女は、再び私たちと向かい合った。
先ほどまでのおぼつかない様子はない。泥にまみれながらも、その立ち方はしっかりとしている。
『だって私は、クロヴィスのことが大嫌いなんだもの』
ニタリと、裂けるように唇が歪む。
黒い泥で全身を覆っているにもかかわらず、サリィの瞳は“不気味な青色”で爛々と輝いていた。
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