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第9話 この婚姻は国際問題
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「やあ、レイヴァン。結婚初夜はどうだった? ねえ、どうだった? グランテーレ国の王女様の色香で陥落されなかった!?」
明るい口調で尋ねてくるのは、言わずと知れた王太子のアルフォンスだ。
昨日と同じく仕事机に堆く積まれた書類の山に囲まれている。昨日から仕事が進んでいないのか、本日また新たに積まれたものなのか。いや、むしろ後者であれと切に願う。
私は恐れ多くも王太子殿下の執務室にあるソファーへ不遜に身を沈めた。
「あらら。ご機嫌麗しいというわけにはいかなかったようだね?」
「私に一体何の話を期待しているんだ」
「いやぁ。国際問題になりかねない事情だし、純粋に報告を受けたいだけだよ? ひいては国防に関わる話ってこと。そう。これは仕事の話だ。うん」
アルフォンスはこれ幸いにと、目の前の雑務を放棄して仕事机を離れると私の向かい側に座る。
「仕事ね。なるほど。分かった。では報告しよう。何もなかった」
「……ん? 何も? 何で? まさか通訳を介して夜通し語り合っていたとか? まさかね」
「彼女が浴室で倒れたんだ」
「は!? レイヴァン、浴室で王女が倒れるぐらいの何をしちゃったわけ!? か弱い女性に対して君は野獣かな!?」
「下世話な想像をするな。ただの長湯によるのぼせだ」
目を丸くして身を引くアルファンスを強くたしなめた。
「ああ。何だ。そういうこと。――あれ? でものぼせたって? グランテーレ国は北に位置する寒い国だから、体を温めるために浴槽に長く浸かる習慣があると言われているよね。普段の感覚で分かりそうなものなのに、何でのぼせるくらい入っていたの? と言うか、周りにいた侍女たちは誰も止めなかったわけ?」
「昨日ここから借りた侍女を除いて、うちの侍女はすべて浴室から追い出したらしい。その残った侍女も声をかけたらしいが、もう少しと答えたので一度はためらったそうだ」
それでも嫌な予感がして強引に覗いたところ、彼女がぐったりしていたと侍女は言っていたな。瞬時の判断が正しかった。マノンと言ったか。信頼できる侍女のようだ。
「医者は疲れも重なってぼんやりしてしまったのではないかと言っていた」
「なるほど。まあ、長旅だったし、元敵国へ嫁ぐことになって気持ちも張っていたところ、お湯の温かさに緊張の糸が切れちゃったのかもね」
私は我知らずため息をついていた。
「ああ。夕食もほとんど料理を口にしなかったしな」
「それは警戒して? 空きっ腹に入浴は良くないと聞いたことがあるけど」
「そうだな。だが彼女はお腹が一杯になったと言っていたそうだ。もちろん本心は分からないが。アルフォンスの言う通り警戒していたのかもしれないし、緊張して食事が喉に通らなかったのかもしれない」
我ながら、雰囲気を盛り上げるとまではいかずとも、和らげられるだけの力量がなかったことは申し訳なく思っている。きっと目の前のこの男ならもっとうまくやってのけただろうに。
食事を終わらせるためにフォークとナイフを置いた後は、居心地悪そうに小さくなっていた彼女を思い出す。彼女が倒れた責任の一端は自分にもある。
「そっか。それで今朝の様子はどうだった?」
「まだ眠っていたようだったから、起こさないように言って出てきた。今日はゆっくりさせておくようにとも」
「なるほど。まあ、それぐらいだったら二、三日もすれば元気になるんじゃない。それまで初夜は延期だね」
「当たり前だ。彼女を抱けるわけがないだろう」
腕を組んで半目でアルフォンスを睨みつける。
彼を相手にしているとつい睨みを利かせてしまう。悪いのは不敬な私なのか、それとも私に不敬を働かせる彼なのか。
「いやいやいや。白い結婚にするつもり? これは単なる国内の政略結婚じゃなくて、国と国の繋がりの問題だからね。まして相手はかつて交戦した国だ。王女がレイヴァンの胸に刃でも突き立てようとしない限り、一度受けた婚姻を解消したり、蔑ろにするのは難しいよ。分かっていると思うけど」
「分かっている。だが、自分は逃げて人に押しつけた相手にだけは言われたくない台詞だな」
「それは仕方がないよ、諦めて。僕は臣下に命令することができる立場の人間、誉れ高く麗しい王太子殿下なのだから。何なら膝をつき、褒め称え崇め奉ってくれてもいいよ?」
悪びれる様子もなく、むしろ彼は人のよさそうな顔でにっこりと笑った。
「さっきの話に戻すが、抱けるわけがないというのはそういう意味じゃない」
「え? 今の流れは無視? 冷たいなあ」
苦笑いするアルフォンスを無視して話を続ける。
「浴室で倒れた彼女を部屋まで私が運んだんだが、あまりにも軽かったんだ。とても抱けるような体じゃない」
「え?」
ゆとりのあるドレスを着ていた時も線の細さは感じていたが、寝衣一枚身にまとっただけの彼女を抱き上げた時の軽さには驚いてしまった。少しでも扱いを間違えれば壊れてしまいそうなくらいの細さだった。
「女性というのは皆、あんなに軽いものだったか?」
「知らないよ。すべての女性を知っているわけでもないし、僕は君ほど筋肉があるわけじゃない。そもそもまだ王女をこの目で見ていない」
「では、婚約者のオリヴィア嬢を担いだことは?」
「担いだって、どういう言い方だよ。荷物じゃないんだから。顔に似合わず無粋なことを言うね」
「顔は関係ない」
アルフォンスは顔を引きつらせて笑った後、そうだなと言って視線を少し上げる。
「今まで抱き上げたことはないね。まあ、結婚後はあるかもしれないけど」
「そうか。何にせよ、今の体では日常生活でも体力がもたなさそうだし、少し触れただけでも壊れてしまいそうだ。しっかり食事を取らせなければ」
この地で彼女が伏せたと知られると、それこそ国際問題になる。頭が痛い話だと、重いため息をついた。
「僕も早く王女に会いたいな」
「本来なら一番に王宮に連れていくところだったんだが」
「ああ。父上が、国王陛下が今、不在だからね」
アルフォンスはつられたように重いため息をつく。
国王陛下は、戦争も終わったしちょっと王妃と国内視察してくるわと書き置きを残して旅立ったらしい。なお、帰国の予定は未定とのことだ。
「陛下への謁見が終わってからではないとな」
「別に父上は気にしないだろうけど、一応、形式上ねー。父上には早く帰ってきてほしいよ。僕に父上の分まで仕事を押しつけられているんだから! ――ねえ、レイヴァン。ちょっとは手伝う」
「気はない」
きっぱり断ると、だよねーと彼は苦笑いした。
明るい口調で尋ねてくるのは、言わずと知れた王太子のアルフォンスだ。
昨日と同じく仕事机に堆く積まれた書類の山に囲まれている。昨日から仕事が進んでいないのか、本日また新たに積まれたものなのか。いや、むしろ後者であれと切に願う。
私は恐れ多くも王太子殿下の執務室にあるソファーへ不遜に身を沈めた。
「あらら。ご機嫌麗しいというわけにはいかなかったようだね?」
「私に一体何の話を期待しているんだ」
「いやぁ。国際問題になりかねない事情だし、純粋に報告を受けたいだけだよ? ひいては国防に関わる話ってこと。そう。これは仕事の話だ。うん」
アルフォンスはこれ幸いにと、目の前の雑務を放棄して仕事机を離れると私の向かい側に座る。
「仕事ね。なるほど。分かった。では報告しよう。何もなかった」
「……ん? 何も? 何で? まさか通訳を介して夜通し語り合っていたとか? まさかね」
「彼女が浴室で倒れたんだ」
「は!? レイヴァン、浴室で王女が倒れるぐらいの何をしちゃったわけ!? か弱い女性に対して君は野獣かな!?」
「下世話な想像をするな。ただの長湯によるのぼせだ」
目を丸くして身を引くアルファンスを強くたしなめた。
「ああ。何だ。そういうこと。――あれ? でものぼせたって? グランテーレ国は北に位置する寒い国だから、体を温めるために浴槽に長く浸かる習慣があると言われているよね。普段の感覚で分かりそうなものなのに、何でのぼせるくらい入っていたの? と言うか、周りにいた侍女たちは誰も止めなかったわけ?」
「昨日ここから借りた侍女を除いて、うちの侍女はすべて浴室から追い出したらしい。その残った侍女も声をかけたらしいが、もう少しと答えたので一度はためらったそうだ」
それでも嫌な予感がして強引に覗いたところ、彼女がぐったりしていたと侍女は言っていたな。瞬時の判断が正しかった。マノンと言ったか。信頼できる侍女のようだ。
「医者は疲れも重なってぼんやりしてしまったのではないかと言っていた」
「なるほど。まあ、長旅だったし、元敵国へ嫁ぐことになって気持ちも張っていたところ、お湯の温かさに緊張の糸が切れちゃったのかもね」
私は我知らずため息をついていた。
「ああ。夕食もほとんど料理を口にしなかったしな」
「それは警戒して? 空きっ腹に入浴は良くないと聞いたことがあるけど」
「そうだな。だが彼女はお腹が一杯になったと言っていたそうだ。もちろん本心は分からないが。アルフォンスの言う通り警戒していたのかもしれないし、緊張して食事が喉に通らなかったのかもしれない」
我ながら、雰囲気を盛り上げるとまではいかずとも、和らげられるだけの力量がなかったことは申し訳なく思っている。きっと目の前のこの男ならもっとうまくやってのけただろうに。
食事を終わらせるためにフォークとナイフを置いた後は、居心地悪そうに小さくなっていた彼女を思い出す。彼女が倒れた責任の一端は自分にもある。
「そっか。それで今朝の様子はどうだった?」
「まだ眠っていたようだったから、起こさないように言って出てきた。今日はゆっくりさせておくようにとも」
「なるほど。まあ、それぐらいだったら二、三日もすれば元気になるんじゃない。それまで初夜は延期だね」
「当たり前だ。彼女を抱けるわけがないだろう」
腕を組んで半目でアルフォンスを睨みつける。
彼を相手にしているとつい睨みを利かせてしまう。悪いのは不敬な私なのか、それとも私に不敬を働かせる彼なのか。
「いやいやいや。白い結婚にするつもり? これは単なる国内の政略結婚じゃなくて、国と国の繋がりの問題だからね。まして相手はかつて交戦した国だ。王女がレイヴァンの胸に刃でも突き立てようとしない限り、一度受けた婚姻を解消したり、蔑ろにするのは難しいよ。分かっていると思うけど」
「分かっている。だが、自分は逃げて人に押しつけた相手にだけは言われたくない台詞だな」
「それは仕方がないよ、諦めて。僕は臣下に命令することができる立場の人間、誉れ高く麗しい王太子殿下なのだから。何なら膝をつき、褒め称え崇め奉ってくれてもいいよ?」
悪びれる様子もなく、むしろ彼は人のよさそうな顔でにっこりと笑った。
「さっきの話に戻すが、抱けるわけがないというのはそういう意味じゃない」
「え? 今の流れは無視? 冷たいなあ」
苦笑いするアルフォンスを無視して話を続ける。
「浴室で倒れた彼女を部屋まで私が運んだんだが、あまりにも軽かったんだ。とても抱けるような体じゃない」
「え?」
ゆとりのあるドレスを着ていた時も線の細さは感じていたが、寝衣一枚身にまとっただけの彼女を抱き上げた時の軽さには驚いてしまった。少しでも扱いを間違えれば壊れてしまいそうなくらいの細さだった。
「女性というのは皆、あんなに軽いものだったか?」
「知らないよ。すべての女性を知っているわけでもないし、僕は君ほど筋肉があるわけじゃない。そもそもまだ王女をこの目で見ていない」
「では、婚約者のオリヴィア嬢を担いだことは?」
「担いだって、どういう言い方だよ。荷物じゃないんだから。顔に似合わず無粋なことを言うね」
「顔は関係ない」
アルフォンスは顔を引きつらせて笑った後、そうだなと言って視線を少し上げる。
「今まで抱き上げたことはないね。まあ、結婚後はあるかもしれないけど」
「そうか。何にせよ、今の体では日常生活でも体力がもたなさそうだし、少し触れただけでも壊れてしまいそうだ。しっかり食事を取らせなければ」
この地で彼女が伏せたと知られると、それこそ国際問題になる。頭が痛い話だと、重いため息をついた。
「僕も早く王女に会いたいな」
「本来なら一番に王宮に連れていくところだったんだが」
「ああ。父上が、国王陛下が今、不在だからね」
アルフォンスはつられたように重いため息をつく。
国王陛下は、戦争も終わったしちょっと王妃と国内視察してくるわと書き置きを残して旅立ったらしい。なお、帰国の予定は未定とのことだ。
「陛下への謁見が終わってからではないとな」
「別に父上は気にしないだろうけど、一応、形式上ねー。父上には早く帰ってきてほしいよ。僕に父上の分まで仕事を押しつけられているんだから! ――ねえ、レイヴァン。ちょっとは手伝う」
「気はない」
きっぱり断ると、だよねーと彼は苦笑いした。
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