22 / 51
第22話 特別な水
しおりを挟む
「おはようございます、クリスタル様」
「おーディ・もーリー、あミューマノン」
ベッドから起き上がった私にマノンさんはサンティルノ語で朝の挨拶をして、私もまた挨拶を返す。サンティルノ語を学ぶようになってからは、日常会話に入れていこうということになったのだ。発音はまだまだだけれど、耳では繰り返し聞く単語を理解し始めている。
「あら。クリスタル様、今朝は何だか顔色が良いようですね」
確かに今朝の目覚めは何だかとてもいい気がする。お腹が満足していたこともあるだろうし、昨夜のレイヴァン様との交流が心を満たしているのもあるかもしれない。
私はベッドから足を下ろして立ち上がる。
「そうですね。ゆっくり眠れた気がします」
「それは良かったです。――あら。昨日はお水を飲まれなかったのですか」
サイドテーブルに置かれたピッチャーを見たマノンさんは不思議そうに尋ねた。水は八割方まだ残っている。
「いえ。飲もうと思ったら無かったので、厨房まで取りに行ったのです」
「まあ! そうでしたか。誠に申し訳ありません。昨日、私が気付かなかったのですね」
「いいえ。大丈夫です」
「厨房ですぐに水を手に入れられましたか?」
マノンさんは尋ねながら洗顔の桶を用意してくれる。
「はい。それは――」
そこまで言って私は一瞬口をつぐんだ。
昨夜のことはなぜか二人だけの秘密にしておきたい気分があったのだ。
「それは大丈夫でした」
「申し訳ありません。夜、屋敷内をお一人で歩くのは怖くありませんでしたか」
「ええ。廊下も明かりがついていましたし」
桶に手を入れると今日もぬるま湯で調整されている。そのまま顔を洗おうと思った時、視界の端でマノンさんの行動が目に留まった。彼女がピッチャーを持ち上げているところだ。
「ま、待ってください。どうするのですか、そのお水を」
「新しいお水もご用意したことですし、捨てようかと」
「い、今ちょっと飲みたいので置いていただけますか。喉が渇いて」
「新しいお水をご用意しておりますが」
この水はレイヴァン様が入れてくださった水だ。もちろんマノンさんがいつも私のために用意してくれている水とまったく同じものだし、彼女が用意してくれている水を蔑ろにしたいわけではないけれど、そのまま捨ててしまいたくない。
「それも飲みますので。けれど今は冷えていない水のほうがいいのです」
「そうですか。分かりました」
彼女がピッチャーを元の場所に戻すのを確認した私はほっとして、手元の桶に顔を戻して洗顔を始めた。
「おーディ・もーリー、あミューミレイ、あミュールディー」
廊下で出会ったミレイさんとルディーさんに私から声をかける。
「おはようございます、クリスタル様」
「おはようございます」
ミレイさんに続いてルディーさんが挨拶を返した。
耳に少しずつ馴染んできた言葉にほんのわずかだけ笑みがこぼれる。ルディーさんは相変わらず困ったような拗ねたような表情をしているけれど、何となく自分の感情に素直なパウラを彷彿させて、慣れ親しみのようなものがある。もちろんそれはいい感情かどうかということは別の話ではあるものの。
「クリスタル様、レイヴァン様がお待ちです。参りましょうか」
「ええ。――それでは」
マノンさんに促されて私は彼女らを後にした。
食堂に着くとマノンさんの言葉通り、レイヴァン様は先に席に着いていた。私は目線を落とし、スカートを広げてご挨拶する。
「おーディ・もーリー、アむーるレイヴァン」
「おはよう、クリスタル王女」
顔を上げるといつもと何ら変わりのないレイヴァン様の様子だったものの、昨日のおかげで距離が縮まったかのように、親しみやすさを感じられて自分の頬が緩むのを感じた。
だからなのか、相変わらずスープの味は改善されていないけれど気にならず、むしろいつもより美味しく感じ、自分なりに食が進んだように思う。
ただ、少し気になったのは、今も王女と呼ばれることだ。何だか寂しい気もする。マノンさんには王女を付けないようにお願いしたけれど、レイヴァン様は私と一線を引きたいがためにそう呼ぶのかもしれないし、彼にそれをお願いすることはできなかった。
「朝食の場でもお体の調子が良かったみたいですね」
朝食が終わり、レイヴァン様がお出かけの準備を終えるまで一階のサロンで待機している中で、マノンさんが笑顔でそう言った。私は長椅子に腰かけて、レイヴァン様のお見送りの時を待つ。
家は人柄を示すと言うけれど、各々の部屋と同様、サロンも過剰な装飾はされておらず、けれど客人を優しく迎えるような品格があって、落ち着いた内装となっている。
「ええ。いつもより食べられた気がします」
「そうですか。良かったです。お食事は口に合っていますか? ヘルムートさんは味の調整をしてくださいました?」
「――ええ」
それに関しては一瞬だけ遅れて返事してしまう。
これ以上、ヘルムートさんにお願いをしに行ったところで改善されないどころか、余計に関係が悪化してしまう可能性だってある。今のままでも食べられるのだから、これ以上拗らせることはない。
「そうですか? ……それならばいいのですが」
マノンさんは私の微妙な様子に気付き、少し心配そうにしつつも納得してくれた。
「はい。大丈夫です。ところで今日のわたくしの予定はなんでしょうか」
「本日は特にお聞きしておりませんね」
「そうですか」
本来なら女主人としてなすべき事があるそうだけれど、会話もできない、文字も読めないではできることは何もないそうだ。当然ではあるけれど。
「ですのでレイヴァン様がお出かけになったら、お庭の散策などをしてはいかがでしょうか。その間、お部屋の清掃も入りますし」
「そうですね」
役に立てないのならば、せめて邪魔にならないようにしなければ。
「――あ。レイヴァン様がお出かけになられるみたいですよ」
様子を窺ってくれていたマノンさんが声をかけてくれて、私は椅子から立ち上がり、玄関口へ急いで並ぶとレイヴァン様が私の前で足を止めた。
私は礼を取って挨拶の言葉を述べる。
「トるヴェすとマイヤー。アむーるレイヴァン」
「ああ。ありがとう」
またお礼を述べてくれたことに私の表情は緩む。けれどレイヴァン様は困惑した様子で視線を逸らすと、何か――後でマノンさんに聞いたら行ってくるとのことだった――を言って足早に出て行った。
「おーディ・もーリー、あミューマノン」
ベッドから起き上がった私にマノンさんはサンティルノ語で朝の挨拶をして、私もまた挨拶を返す。サンティルノ語を学ぶようになってからは、日常会話に入れていこうということになったのだ。発音はまだまだだけれど、耳では繰り返し聞く単語を理解し始めている。
「あら。クリスタル様、今朝は何だか顔色が良いようですね」
確かに今朝の目覚めは何だかとてもいい気がする。お腹が満足していたこともあるだろうし、昨夜のレイヴァン様との交流が心を満たしているのもあるかもしれない。
私はベッドから足を下ろして立ち上がる。
「そうですね。ゆっくり眠れた気がします」
「それは良かったです。――あら。昨日はお水を飲まれなかったのですか」
サイドテーブルに置かれたピッチャーを見たマノンさんは不思議そうに尋ねた。水は八割方まだ残っている。
「いえ。飲もうと思ったら無かったので、厨房まで取りに行ったのです」
「まあ! そうでしたか。誠に申し訳ありません。昨日、私が気付かなかったのですね」
「いいえ。大丈夫です」
「厨房ですぐに水を手に入れられましたか?」
マノンさんは尋ねながら洗顔の桶を用意してくれる。
「はい。それは――」
そこまで言って私は一瞬口をつぐんだ。
昨夜のことはなぜか二人だけの秘密にしておきたい気分があったのだ。
「それは大丈夫でした」
「申し訳ありません。夜、屋敷内をお一人で歩くのは怖くありませんでしたか」
「ええ。廊下も明かりがついていましたし」
桶に手を入れると今日もぬるま湯で調整されている。そのまま顔を洗おうと思った時、視界の端でマノンさんの行動が目に留まった。彼女がピッチャーを持ち上げているところだ。
「ま、待ってください。どうするのですか、そのお水を」
「新しいお水もご用意したことですし、捨てようかと」
「い、今ちょっと飲みたいので置いていただけますか。喉が渇いて」
「新しいお水をご用意しておりますが」
この水はレイヴァン様が入れてくださった水だ。もちろんマノンさんがいつも私のために用意してくれている水とまったく同じものだし、彼女が用意してくれている水を蔑ろにしたいわけではないけれど、そのまま捨ててしまいたくない。
「それも飲みますので。けれど今は冷えていない水のほうがいいのです」
「そうですか。分かりました」
彼女がピッチャーを元の場所に戻すのを確認した私はほっとして、手元の桶に顔を戻して洗顔を始めた。
「おーディ・もーリー、あミューミレイ、あミュールディー」
廊下で出会ったミレイさんとルディーさんに私から声をかける。
「おはようございます、クリスタル様」
「おはようございます」
ミレイさんに続いてルディーさんが挨拶を返した。
耳に少しずつ馴染んできた言葉にほんのわずかだけ笑みがこぼれる。ルディーさんは相変わらず困ったような拗ねたような表情をしているけれど、何となく自分の感情に素直なパウラを彷彿させて、慣れ親しみのようなものがある。もちろんそれはいい感情かどうかということは別の話ではあるものの。
「クリスタル様、レイヴァン様がお待ちです。参りましょうか」
「ええ。――それでは」
マノンさんに促されて私は彼女らを後にした。
食堂に着くとマノンさんの言葉通り、レイヴァン様は先に席に着いていた。私は目線を落とし、スカートを広げてご挨拶する。
「おーディ・もーリー、アむーるレイヴァン」
「おはよう、クリスタル王女」
顔を上げるといつもと何ら変わりのないレイヴァン様の様子だったものの、昨日のおかげで距離が縮まったかのように、親しみやすさを感じられて自分の頬が緩むのを感じた。
だからなのか、相変わらずスープの味は改善されていないけれど気にならず、むしろいつもより美味しく感じ、自分なりに食が進んだように思う。
ただ、少し気になったのは、今も王女と呼ばれることだ。何だか寂しい気もする。マノンさんには王女を付けないようにお願いしたけれど、レイヴァン様は私と一線を引きたいがためにそう呼ぶのかもしれないし、彼にそれをお願いすることはできなかった。
「朝食の場でもお体の調子が良かったみたいですね」
朝食が終わり、レイヴァン様がお出かけの準備を終えるまで一階のサロンで待機している中で、マノンさんが笑顔でそう言った。私は長椅子に腰かけて、レイヴァン様のお見送りの時を待つ。
家は人柄を示すと言うけれど、各々の部屋と同様、サロンも過剰な装飾はされておらず、けれど客人を優しく迎えるような品格があって、落ち着いた内装となっている。
「ええ。いつもより食べられた気がします」
「そうですか。良かったです。お食事は口に合っていますか? ヘルムートさんは味の調整をしてくださいました?」
「――ええ」
それに関しては一瞬だけ遅れて返事してしまう。
これ以上、ヘルムートさんにお願いをしに行ったところで改善されないどころか、余計に関係が悪化してしまう可能性だってある。今のままでも食べられるのだから、これ以上拗らせることはない。
「そうですか? ……それならばいいのですが」
マノンさんは私の微妙な様子に気付き、少し心配そうにしつつも納得してくれた。
「はい。大丈夫です。ところで今日のわたくしの予定はなんでしょうか」
「本日は特にお聞きしておりませんね」
「そうですか」
本来なら女主人としてなすべき事があるそうだけれど、会話もできない、文字も読めないではできることは何もないそうだ。当然ではあるけれど。
「ですのでレイヴァン様がお出かけになったら、お庭の散策などをしてはいかがでしょうか。その間、お部屋の清掃も入りますし」
「そうですね」
役に立てないのならば、せめて邪魔にならないようにしなければ。
「――あ。レイヴァン様がお出かけになられるみたいですよ」
様子を窺ってくれていたマノンさんが声をかけてくれて、私は椅子から立ち上がり、玄関口へ急いで並ぶとレイヴァン様が私の前で足を止めた。
私は礼を取って挨拶の言葉を述べる。
「トるヴェすとマイヤー。アむーるレイヴァン」
「ああ。ありがとう」
またお礼を述べてくれたことに私の表情は緩む。けれどレイヴァン様は困惑した様子で視線を逸らすと、何か――後でマノンさんに聞いたら行ってくるとのことだった――を言って足早に出て行った。
23
あなたにおすすめの小説
「無能な妻」と蔑まれた令嬢は、離婚後に隣国の王子に溺愛されました。
腐ったバナナ
恋愛
公爵令嬢アリアンナは、魔力を持たないという理由で、夫である侯爵エドガーから無能な妻と蔑まれる日々を送っていた。
魔力至上主義の貴族社会で価値を見いだされないことに絶望したアリアンナは、ついに離婚を決断。
多額の慰謝料と引き換えに、無能な妻という足枷を捨て、自由な平民として辺境へと旅立つ。
この度娘が結婚する事になりました。女手一つ、なんとか親としての務めを果たし終えたと思っていたら騎士上がりの年下侯爵様に見初められました。
毒島かすみ
恋愛
真実の愛を見つけたと、夫に離婚を突きつけられた主人公エミリアは娘と共に貧しい生活を強いられながらも、自分達の幸せの為に道を切り開き、幸せを掴んでいく物語です。
【完結】地味な私と公爵様
ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。
端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。
そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。
...正直私も信じていません。
ラエル様が、私を溺愛しているなんて。
きっと、きっと、夢に違いありません。
お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)
旦那様、離婚しましょう ~私は冒険者になるのでご心配なくっ~
榎夜
恋愛
私と旦那様は白い結婚だ。体の関係どころか手を繋ぐ事もしたことがない。
ある日突然、旦那の子供を身籠ったという女性に離婚を要求された。
別に構いませんが......じゃあ、冒険者にでもなろうかしら?
ー全50話ー
いきなり結婚しろと言われても、相手は7才の王子だなんて冗談はよしてください
シンさん
恋愛
金貸しから追われる、靴職人のドロシー。
ある日突然、7才のアイザック王子にプロポーズされたんだけど、本当は20才の王太子様…。
こんな事になったのは、王家に伝わる魔術の7つ道具の1つ『子供に戻る靴』を履いてしまったから。
…何でそんな靴を履いたのか、本人でさえわからない。けど王太子が靴を履いた事には理由があった。
子供になってしまった20才の王太子と、靴職人ドロシーの恋愛ストーリー
ストーリーは完結していますので、毎日更新です。
表紙はぷりりん様に描いていただきました(゜▽゜*)
『白い結婚だったので、勝手に離婚しました。何か問題あります?』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」
教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。
ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。
王命による“形式結婚”。
夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。
だから、はい、離婚。勝手に。
白い結婚だったので、勝手に離婚しました。
何か問題あります?
噂の悪女が妻になりました
はくまいキャベツ
恋愛
ミラ・イヴァンチスカ。
国王の右腕と言われている宰相を父に持つ彼女は見目麗しく気品溢れる容姿とは裏腹に、父の権力を良い事に贅沢を好み、自分と同等かそれ以上の人間としか付き合わないプライドの塊の様な女だという。
その名前は国中に知れ渡っており、田舎の貧乏貴族ローガン・ウィリアムズの耳にも届いていた。そんな彼に一通の手紙が届く。その手紙にはあの噂の悪女、ミラ・イヴァンチスカとの婚姻を勧める内容が書かれていた。
そのご寵愛、理由が分かりません
秋月真鳥
恋愛
貧乏子爵家の長女、レイシーは刺繍で家計を支える庶民派令嬢。
幼いころから前世の夢を見ていて、その技術を活かして地道に慎ましく生きていくつもりだったのに——
「君との婚約はなかったことに」
卒業パーティーで、婚約者が突然の裏切り!
え? 政略結婚しなくていいの? ラッキー!
領地に帰ってスローライフしよう!
そう思っていたのに、皇帝陛下が現れて——
「婚約破棄されたのなら、わたしが求婚してもいいよね?」
……は???
お金持ちどころか、国ごと背負ってる人が、なんでわたくしに!?
刺繍を褒められ、皇宮に連れて行かれ、気づけば妃教育まで始まり——
気高く冷静な陛下が、なぜかわたくしにだけ甘い。
でもその瞳、どこか昔、夢で見た“あの少年”に似ていて……?
夢と現実が交差する、とんでもスピード婚約ラブストーリー!
理由は分からないけど——わたくし、寵愛されてます。
※毎朝6時、夕方18時更新!
※他のサイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる