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9 夫が嫌いな妻と、妻に好かれたい夫
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公爵との中庭での一件以来、ヘンリックは自分の側近二人に距離を取られている事を感じていた。
ヘンリックの側近は二人いて、王太子の執務室専属の文官はエーヴェルトを入れて四人いる。
ヘンリックとの接触をそれとなく避ける素振りを見せる側近たちとは違い、文官たちはヴィルタ公爵との真実を知っているかのように、憐れみの混じった視線を向けてくるのだった。
そして執務室を出ると、これまで接点の無かった文官や騎士たちの一部の者から、熱の籠った視線でじっと見つめられる事がヘンリックは増えてしまった。
(こんなはずではなかった……)
今となっては何が悪かったのかが分からない。バラの咲き誇る中庭で密談をしていたのがまずかったのか、あの手紙を無視すれば良かったのか。誰かに相談をしていれば良かったのか。公爵を怒らせなければ良かったのか。
あれから医務室へ運ばれたヴィルタ公爵は何とか意識を取り戻したものの、右の手足が上手く動かなくなってしまい、ヴィルタ公爵家は彼の弟へと当主が交代となってしまった。
強気で野心家だった兄の公爵とは違い、新しい当主の弟は穏やかな気質らしく、敵対派閥の筆頭であるフォレスター家に対しても歩み寄ろうとする様子が見られるので、しばらくは貴族同士で争う事も無さそうだった。
あの時、ヴィルタからマリーナへ別れを告げてもらおうと思ったが、彼がああなってしまった以上、ヘンリックからの言伝がマリーナに伝わっているとは思えなかった。
(どこかでマリーナに会って話をしないといけないのだろうか、……気が重いな)
あの頃強く感じていたマリーナとの愛は一体何だったのだろうかとヘンリックは考えてしまう。
彼女の為なら何を犠牲にしてもいい、そう考えた時もあったのに今のヘンリックにはそこまでの強い気持ちはもうなかった。
「……それで私はどうしたらよろしいのかしら?」
「あ、申し訳ない。もう一度説明をしてくれないか」
ふと顔を上げるとローゼリアがサラダを食べながら不審そうな表情でヘンリックを見ていた。
ローゼリアが何か話していたようだったがヘンリックは気付かずに食事を続けていたらしい。
そもそもヘンリックはこれまでずっと一人で食事を摂ってきたので、会食という機会がなければいつも黙って食事をしてきたのだった。一人で食事をしていた頃は何も考えずにただマナー通りに食べていただけだったが、ローゼリアとの会話がほとんど無い事と、近頃は考える事が多いせいか食事時まで色々な事を考えるようになってしまっていた。
「再来月のシーズン初めの夜会についてお聞きしたいのです。私の披露目も兼ねているのですから、ドレスの色はいかがなさいましょうかとお聞きしていたのですわ」
「そうだな。私がキミのドレスの色に合わせればいいだろうか」
「今の殿下の社交界でのお立場を考えますと、お互いの色を纏った方が良いと思いますの」
噂が好きな侍女たちが発端となって、今の社交界ではヘンリックとヴィルタ元公爵との禁断の恋の噂がまことしやかに囁かれていたのだった。
ヘンリックはともかく、何人もの王宮侍女に言い寄っては袖にしてきたヴィルタは、王宮の侍女たちに良く思われていなかった。さらに二人が密会していた事は事実だったせいで噂の広まりが早く、ヘンリックの側近やエーヴェルトたち文官が噂の火消しをしても既に手遅れで、彼ら二人はすっかり時の人となっていた。
「ならば王家が所有しているブラックオキニスのネックレスとイヤリングのセットがあったから、キミはそれを使えばいい。私はサファイアのタイピンがあったからそれを付ける。ドレスは婚前に揃いのものをいくつか作ったからその中のものでいいだろう?」
身に着ける物は全て侍女任せにしてきたヘンリックは、服というものに頓着がなかった。好きな女性に自分の色を纏わせる楽しみを知らない彼には女性にドレスを贈るという発想はまだなかった。
二人が不仲でなければ婚約者にドレスを贈るべきだと助言をした者もいたのだろうが、これまではそれが言えるような雰囲気ではなかったのだ。
そしてヘンリック自身は、王太子妃の予算の中にはドレスの購入費も含まれているので、予算の範囲内でローゼリアが気に入ったドレスを作ればいいと考えていたのだった。
ヘンリックの言葉を受けて、彼の意向を何となく察したローゼリアは、持参したドレスの中で一番良いものを着る事にした。揃いで作ったドレスは確かに質が良かったし上品に仕上がってはいたが、華やかさに欠けているのだ。シーズン最初の夜会で、若い王太子妃が着るものとしては地味だった。
「かしこまりました。でしたら私は輿入れの際に持参しました青いドレスを着ますわ。殿下のお衣装は殿下付きの侍女と決めますわね」
「それで構わない。……それとひとつだけ、キミに頼みがあるんだ」
ヘンリックが様子を伺うような眼差しをローゼリアへ向ける。
「何でしょう?」
「当日は私とダンスを踊ってもらいたいんだ」
少し頬を赤らめながらそう告げるヘンリックとは対照的に、表情を変えないローゼリアは大きく溜息を吐く。
昨年のシーズン後半はヘンリックとローゼリアは共に夜会に参加をしていたが、ダンスを踊ってはいなかった。共にダンスの練習をした事もないので、二人はまだ一緒にダンスを踊った事がないのだった。
「……承知致しました」
「その、……すまない」
「何に対してでしょうか?」
「これまでの事、……全てに対して申し訳なく思っている」
頭を下げるヘンリックに、ローゼリアの動きが止まる。
「そのような事、今さらですわ」
それだけ言い捨てると、ローゼリアは立ち上がって食堂から出て行ってしまった。
あの夜からずっと、夫婦の寝室へと繋がるドアには鍵が掛かけられたままだった。
◆◆◆
【ローゼリアside】
自室に戻ってきた後で、不機嫌な態度で食堂から出た事を我ながら大人気ない対応だったとローゼリアは反省していた。
エーヴェルトから、あの時バラ園でヘンリックとヴィルタ公爵がしていた会話の内容はおおよそ聞いていたので彼を誤解してはいないのだが、婚約して十一年間もずっと冷遇されてきた側としては、あの日々を無かった事には出来ないし、ヘンリックへの態度を変える事に抵抗があった。
「見た目を変える事は簡単でしたのに……」
自分の心の中を変える事はとても難しかった。
ヘンリックと会って辛い思いをする度にローゼリアは少しずつ彼を嫌いになっていった。
彼が王太子という地位を持っているから、王家という家に生まれたから、彼の見目が良いから、多くの令嬢が彼に好意を抱くであろうそれらの長所がどうでもいいと思えるくらいにローゼリアはヘンリックの事が好きではなかった。
エーヴェルトからは、ローゼリアのこれからの立場を考えてヘンリックとは良好な関係を築いた方がいいと言われていたのだが、それでも政略だと割り切れないほどに嫌なものは嫌だった。
その時、ローゼリアの自室のドアをノックする音がした。
「私なのだが、少し話をしてもいいだろうか?」
ドアの外から声を掛けてきたのはヘンリックだった。彼なりにローゼリアに気を遣ったのか、夫婦の寝室のある方のドアではなく廊下にあるドアから声を掛けてきたのだった。
「応接室でよろしければお話をお聞きしますわ」
ローゼリアはドアを少しだけ開けてそう答えたのだった。
◆◆◆
「……」
「……」
侍女がお茶を淹れてくれてどれくらいの時間が過ぎただろうか。ヘンリックはローゼリアにどう声を掛けていいかわからず、最初の言葉を言えないままでいた。
ここまでこじれてしまうのなら、婚約していた時にもっとローゼリアと積極的に関わりを持っておくべきだったとヘンリックは今になって激しく後悔をしていた。
マリーナを選ぶという、彼の人生にとって致命的な選択ミスは回避したものの、ヘンリックはローゼリアに対して過去にたくさんの過ちを繰り返してきたのだった。
「先ほど殿下は私に謝罪をされましたが、殿下はこの十一年のうちに私にお贈り下さった物をひとつでも覚えていらっしゃいますか?」
先に会話を切り出したのはローゼリアの方だった。この場で何もしゃべらずに顔を突き合わせて、無駄に時間を消費したくないと思ったからだった。
「……申しわけない、覚えていない」
「あら、覚えていらっしゃらないのではなくて、分からないのではなくて?」
そう言いながらローゼリアは優雅な仕草で紅茶を飲む。この件についてはローゼリアの中でかなりの禍根を残している事だった。
婚約者であった十一年間、ローゼリアの元にヘンリックから毎年誕生日はプレゼントが届いてはいたのだが、そのプレゼントを選んで彼の名前で送ったのは彼の周りにいた誰かだったのだ。
それだけならまだしも、ヘンリックは自分の名前でローゼリアに何を贈ったのかも知らない様子だったので、これまで聞けなかった事を思い切って聞いてみたのだった。
ソファに向かい合って座っているので、ローゼリアからはヘンリックの様子がよく見えていた。ヘンリックは両手をそれぞれの膝に乗せて下を向いている。まるで母親に怒られている子供のようであった。
「……そうだ、私は自分がキミに何を贈ったのか知らない。私がするべき事も周りの者たちが先回りしてやってくれるから、ずっとそれに甘えていたのだと思う」
「でも殿下の“最愛様”には自らお贈りされていらしたとお聞きしていますのよ」
ローゼリアの言葉にヘンリックが顔を上げた。
「あれはっ、街へ行った時に強請られたんだ。キミだって欲しいものがあれば言ってくれたら出来る範囲で用意していた」
「まあ、そうでしたのね! 婚約者時代の殿下は私の前では相槌しか打って下さいませんでしたから、そのようなお考えでいらしたなんて知りませんでしたわ。それに私は街へ行く許可など一度も頂いた事がございませんのよ!」
大げさな口調でそう言うと、ローゼリアは持っていた扇をばさりと広げる。
「これからは変えていくから、だからっ……」
「だから夫婦になれとでもおっしゃるのかしら? 殿下がそのようにお望みなのでしたら私は構わないですわ」
やっとの思いで伝えようとした言葉はまたもや先に言われてしまった。
「そうじゃない、……いや確かにキミと夫婦になる事を望んではいるが、でもそうではないんだ。……私はキミがキミの兄上に見せたような笑顔を見たいんだっ!」
これまでヘンリックは感情を乗せないローゼリアの顔しか見た事がなかった。それは自分も同じだったから彼女のせいではないのだが、あんな風な笑顔を自分にも見せて欲しい、今のヘンリックはそれを強く願っていた。
「そのような事はどうしたら良いのかわかりませんわ。だって私が兄と笑い合う時は何も考えていませんもの。そういえば殿下は私の笑みが好きではないと以前おっしゃった事がございましたわね。それが今は笑えとおっしゃる、私はもうどのようにすれば殿下がお喜びになられるのか分かりませんわ!」
ローゼリアは眉間にシワを寄せながらそう答えた。
結局その日はそれ以上何も話は進まなかった。十一年という長い年月の間に深まってしまった溝は、ひと月やそこらで埋まってしまうほど浅いものではなかった。
ヘンリックの側近は二人いて、王太子の執務室専属の文官はエーヴェルトを入れて四人いる。
ヘンリックとの接触をそれとなく避ける素振りを見せる側近たちとは違い、文官たちはヴィルタ公爵との真実を知っているかのように、憐れみの混じった視線を向けてくるのだった。
そして執務室を出ると、これまで接点の無かった文官や騎士たちの一部の者から、熱の籠った視線でじっと見つめられる事がヘンリックは増えてしまった。
(こんなはずではなかった……)
今となっては何が悪かったのかが分からない。バラの咲き誇る中庭で密談をしていたのがまずかったのか、あの手紙を無視すれば良かったのか。誰かに相談をしていれば良かったのか。公爵を怒らせなければ良かったのか。
あれから医務室へ運ばれたヴィルタ公爵は何とか意識を取り戻したものの、右の手足が上手く動かなくなってしまい、ヴィルタ公爵家は彼の弟へと当主が交代となってしまった。
強気で野心家だった兄の公爵とは違い、新しい当主の弟は穏やかな気質らしく、敵対派閥の筆頭であるフォレスター家に対しても歩み寄ろうとする様子が見られるので、しばらくは貴族同士で争う事も無さそうだった。
あの時、ヴィルタからマリーナへ別れを告げてもらおうと思ったが、彼がああなってしまった以上、ヘンリックからの言伝がマリーナに伝わっているとは思えなかった。
(どこかでマリーナに会って話をしないといけないのだろうか、……気が重いな)
あの頃強く感じていたマリーナとの愛は一体何だったのだろうかとヘンリックは考えてしまう。
彼女の為なら何を犠牲にしてもいい、そう考えた時もあったのに今のヘンリックにはそこまでの強い気持ちはもうなかった。
「……それで私はどうしたらよろしいのかしら?」
「あ、申し訳ない。もう一度説明をしてくれないか」
ふと顔を上げるとローゼリアがサラダを食べながら不審そうな表情でヘンリックを見ていた。
ローゼリアが何か話していたようだったがヘンリックは気付かずに食事を続けていたらしい。
そもそもヘンリックはこれまでずっと一人で食事を摂ってきたので、会食という機会がなければいつも黙って食事をしてきたのだった。一人で食事をしていた頃は何も考えずにただマナー通りに食べていただけだったが、ローゼリアとの会話がほとんど無い事と、近頃は考える事が多いせいか食事時まで色々な事を考えるようになってしまっていた。
「再来月のシーズン初めの夜会についてお聞きしたいのです。私の披露目も兼ねているのですから、ドレスの色はいかがなさいましょうかとお聞きしていたのですわ」
「そうだな。私がキミのドレスの色に合わせればいいだろうか」
「今の殿下の社交界でのお立場を考えますと、お互いの色を纏った方が良いと思いますの」
噂が好きな侍女たちが発端となって、今の社交界ではヘンリックとヴィルタ元公爵との禁断の恋の噂がまことしやかに囁かれていたのだった。
ヘンリックはともかく、何人もの王宮侍女に言い寄っては袖にしてきたヴィルタは、王宮の侍女たちに良く思われていなかった。さらに二人が密会していた事は事実だったせいで噂の広まりが早く、ヘンリックの側近やエーヴェルトたち文官が噂の火消しをしても既に手遅れで、彼ら二人はすっかり時の人となっていた。
「ならば王家が所有しているブラックオキニスのネックレスとイヤリングのセットがあったから、キミはそれを使えばいい。私はサファイアのタイピンがあったからそれを付ける。ドレスは婚前に揃いのものをいくつか作ったからその中のものでいいだろう?」
身に着ける物は全て侍女任せにしてきたヘンリックは、服というものに頓着がなかった。好きな女性に自分の色を纏わせる楽しみを知らない彼には女性にドレスを贈るという発想はまだなかった。
二人が不仲でなければ婚約者にドレスを贈るべきだと助言をした者もいたのだろうが、これまではそれが言えるような雰囲気ではなかったのだ。
そしてヘンリック自身は、王太子妃の予算の中にはドレスの購入費も含まれているので、予算の範囲内でローゼリアが気に入ったドレスを作ればいいと考えていたのだった。
ヘンリックの言葉を受けて、彼の意向を何となく察したローゼリアは、持参したドレスの中で一番良いものを着る事にした。揃いで作ったドレスは確かに質が良かったし上品に仕上がってはいたが、華やかさに欠けているのだ。シーズン最初の夜会で、若い王太子妃が着るものとしては地味だった。
「かしこまりました。でしたら私は輿入れの際に持参しました青いドレスを着ますわ。殿下のお衣装は殿下付きの侍女と決めますわね」
「それで構わない。……それとひとつだけ、キミに頼みがあるんだ」
ヘンリックが様子を伺うような眼差しをローゼリアへ向ける。
「何でしょう?」
「当日は私とダンスを踊ってもらいたいんだ」
少し頬を赤らめながらそう告げるヘンリックとは対照的に、表情を変えないローゼリアは大きく溜息を吐く。
昨年のシーズン後半はヘンリックとローゼリアは共に夜会に参加をしていたが、ダンスを踊ってはいなかった。共にダンスの練習をした事もないので、二人はまだ一緒にダンスを踊った事がないのだった。
「……承知致しました」
「その、……すまない」
「何に対してでしょうか?」
「これまでの事、……全てに対して申し訳なく思っている」
頭を下げるヘンリックに、ローゼリアの動きが止まる。
「そのような事、今さらですわ」
それだけ言い捨てると、ローゼリアは立ち上がって食堂から出て行ってしまった。
あの夜からずっと、夫婦の寝室へと繋がるドアには鍵が掛かけられたままだった。
◆◆◆
【ローゼリアside】
自室に戻ってきた後で、不機嫌な態度で食堂から出た事を我ながら大人気ない対応だったとローゼリアは反省していた。
エーヴェルトから、あの時バラ園でヘンリックとヴィルタ公爵がしていた会話の内容はおおよそ聞いていたので彼を誤解してはいないのだが、婚約して十一年間もずっと冷遇されてきた側としては、あの日々を無かった事には出来ないし、ヘンリックへの態度を変える事に抵抗があった。
「見た目を変える事は簡単でしたのに……」
自分の心の中を変える事はとても難しかった。
ヘンリックと会って辛い思いをする度にローゼリアは少しずつ彼を嫌いになっていった。
彼が王太子という地位を持っているから、王家という家に生まれたから、彼の見目が良いから、多くの令嬢が彼に好意を抱くであろうそれらの長所がどうでもいいと思えるくらいにローゼリアはヘンリックの事が好きではなかった。
エーヴェルトからは、ローゼリアのこれからの立場を考えてヘンリックとは良好な関係を築いた方がいいと言われていたのだが、それでも政略だと割り切れないほどに嫌なものは嫌だった。
その時、ローゼリアの自室のドアをノックする音がした。
「私なのだが、少し話をしてもいいだろうか?」
ドアの外から声を掛けてきたのはヘンリックだった。彼なりにローゼリアに気を遣ったのか、夫婦の寝室のある方のドアではなく廊下にあるドアから声を掛けてきたのだった。
「応接室でよろしければお話をお聞きしますわ」
ローゼリアはドアを少しだけ開けてそう答えたのだった。
◆◆◆
「……」
「……」
侍女がお茶を淹れてくれてどれくらいの時間が過ぎただろうか。ヘンリックはローゼリアにどう声を掛けていいかわからず、最初の言葉を言えないままでいた。
ここまでこじれてしまうのなら、婚約していた時にもっとローゼリアと積極的に関わりを持っておくべきだったとヘンリックは今になって激しく後悔をしていた。
マリーナを選ぶという、彼の人生にとって致命的な選択ミスは回避したものの、ヘンリックはローゼリアに対して過去にたくさんの過ちを繰り返してきたのだった。
「先ほど殿下は私に謝罪をされましたが、殿下はこの十一年のうちに私にお贈り下さった物をひとつでも覚えていらっしゃいますか?」
先に会話を切り出したのはローゼリアの方だった。この場で何もしゃべらずに顔を突き合わせて、無駄に時間を消費したくないと思ったからだった。
「……申しわけない、覚えていない」
「あら、覚えていらっしゃらないのではなくて、分からないのではなくて?」
そう言いながらローゼリアは優雅な仕草で紅茶を飲む。この件についてはローゼリアの中でかなりの禍根を残している事だった。
婚約者であった十一年間、ローゼリアの元にヘンリックから毎年誕生日はプレゼントが届いてはいたのだが、そのプレゼントを選んで彼の名前で送ったのは彼の周りにいた誰かだったのだ。
それだけならまだしも、ヘンリックは自分の名前でローゼリアに何を贈ったのかも知らない様子だったので、これまで聞けなかった事を思い切って聞いてみたのだった。
ソファに向かい合って座っているので、ローゼリアからはヘンリックの様子がよく見えていた。ヘンリックは両手をそれぞれの膝に乗せて下を向いている。まるで母親に怒られている子供のようであった。
「……そうだ、私は自分がキミに何を贈ったのか知らない。私がするべき事も周りの者たちが先回りしてやってくれるから、ずっとそれに甘えていたのだと思う」
「でも殿下の“最愛様”には自らお贈りされていらしたとお聞きしていますのよ」
ローゼリアの言葉にヘンリックが顔を上げた。
「あれはっ、街へ行った時に強請られたんだ。キミだって欲しいものがあれば言ってくれたら出来る範囲で用意していた」
「まあ、そうでしたのね! 婚約者時代の殿下は私の前では相槌しか打って下さいませんでしたから、そのようなお考えでいらしたなんて知りませんでしたわ。それに私は街へ行く許可など一度も頂いた事がございませんのよ!」
大げさな口調でそう言うと、ローゼリアは持っていた扇をばさりと広げる。
「これからは変えていくから、だからっ……」
「だから夫婦になれとでもおっしゃるのかしら? 殿下がそのようにお望みなのでしたら私は構わないですわ」
やっとの思いで伝えようとした言葉はまたもや先に言われてしまった。
「そうじゃない、……いや確かにキミと夫婦になる事を望んではいるが、でもそうではないんだ。……私はキミがキミの兄上に見せたような笑顔を見たいんだっ!」
これまでヘンリックは感情を乗せないローゼリアの顔しか見た事がなかった。それは自分も同じだったから彼女のせいではないのだが、あんな風な笑顔を自分にも見せて欲しい、今のヘンリックはそれを強く願っていた。
「そのような事はどうしたら良いのかわかりませんわ。だって私が兄と笑い合う時は何も考えていませんもの。そういえば殿下は私の笑みが好きではないと以前おっしゃった事がございましたわね。それが今は笑えとおっしゃる、私はもうどのようにすれば殿下がお喜びになられるのか分かりませんわ!」
ローゼリアは眉間にシワを寄せながらそう答えた。
結局その日はそれ以上何も話は進まなかった。十一年という長い年月の間に深まってしまった溝は、ひと月やそこらで埋まってしまうほど浅いものではなかった。
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