即興小説集

南澤久佳

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胸のほむら

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胸のほむら


キッチンのガス台に灯る炎をじっと眺めていた。中心から外側に向かい、白、黄、青、赤と変化していく焔。中心部ほど温度が高く、色が薄くなってゆくのだと聞いたことがある。

手をかざすと暖かい。真冬のキッチンに漂う空気は凍りつきそうなほど冷たく、横着なわたしは買い物帰りにコートを着たまま料理の下ごしらえをすることもあった。冬場は、料理が冷めやすいこともあって鍋ばかりしていて、簡単な作業で事足りたので、特に問題はなかった。もともと、手間のかかる料理は滅多に作らないけれど。ガス台のすぐ背後にすりガラスの窓があり、庭の植木の葉の影が映っている。今日は風が強い。ばたばたと鳥の翼のようにはためく木の葉はひっしに枝にすがりつく。
けれど、それも今夜まで。あすは朝から暴風雨だと、天気予報で、綺麗な白いスーツを着た女性アナウンサーがにこやかに教えてくれた。だから、健気な木の葉の命は今この時を限りに尽きるのだ。

嵐の朝に別れを告げるだなんて、ひどいかしら。

ぼんやりと天井の蛍光灯を見上げて、いつ、どんな状況で告げたところで同じことだと思い直した。踵を返し、ダイニングテーブルの上に置いた黒革の鞄から大判の白い封筒を取り出し、中から書類を引き抜いた。ばさり。木目のテーブルに広がる白紙。否、婚姻届。

荒々しい文字が躍っている。彼の名前を指先でなぞってから、それを炎にくべた。

燃え上がる、炎。大きく、赤く、白く、黒く。

ガス台と周辺の水回りを綺麗に片付けておいたので、炎は書類を燃やしただけで私に害を及ぼすことはなかった。綺麗に、私の胸に突き刺さる刺を抜いてくれた。
ただ、少しだけ煙が立って、吸い込んだそれが喉に痛い。咳き込んで、火を止める。焼け焦げて黒く崩れたそれを、小さな箒とちりとりでかき集める。ちりとりを持ったまま黒い靴を履いて、庭に出て、撒いた。塀の向こうのゴミ収集所で、大きなカラスが、があ、と鳴いた。

黒いワンピースのすそから冷たい風が這い上がって首筋までをすっとなで上げてくる。凍えて肩を抱いたらちりとりを落としてしまったけれど、そのままにしておいた。これは、彼のものだから。
静かな住宅街の一軒家。彼の持ち家。わたしのものはなにも置いていかないし、彼のものはひとつも持っていかないで、私はここを出て行く。
きっかけとか、理由とか、そういうものはないって、男の人はわかってくれないから、少し怖い。
ただ、昨日叩きつけられるように渡された婚姻届けを見て、ああ、もうだめだ、と思ったのだ。
雪のように静かに静かに降り積もっていた何かが、炎に変わった。それは瞬く間に私の心と体と、彼への愛情を焼き尽くして、消し炭にしてしまった。

あと一日早かったら、もっと丁寧に、愛情深い言葉をかけて手渡していたら、こんなことにはならなかったかと、彼はきっというだろう。でも、違う。
どんな言葉を尽くして渡してくれてもだめだったし、渡さないままあと数日を過ぎてもダメだった。私はとっくの昔に限界で、あとはギリギリに引き絞られた糸がふつりと切れるのを待つばかりだったのだ。それが少し早くなっただけ。

黒のゴムで結い上げていた髪をほどくと、ばさりと肩を叩かれた。首周りに吹く風が少し削がれて暖かい。

さっきまでいた引越し業者のお兄さんは、綺麗に一人分だけ残された、歯ブラシや、一人がけのソファーや、壁にかけっぱなしのパジャマ、マグカップ、スリッパを見ながら悲しそうな顔をしていた。いい人だな、と思う。いい人に会うと心が暖かくなる。

ふと思いつく。少し歩いて、お気に入りのケーキ屋さんで、ケーキを今夜食べられるだけ買ってこようか。ああ、その前に、大好きなパスタ屋さんにも行って、いいえ、その前に、素敵な本屋さんに行って、ずっと欲しかったあの本を買おう。そして、お店で本を読みながらおいしいパスタをいただいて、ケーキを買って帰って、もったいなくてとっておいた素晴らしい香りの紅茶缶を開けて、ひとりで全部平らげてしまおう。引き出物でもらって、仕舞いこんだままのブランド物のバスタオルも開けて、女友達にもらった宝石みたいに可愛らしいバスキューブをいれて、お風呂に入ろう。

燃えて、燃やし尽くして、消し炭だけを残して消えてしまっていた、胸の炎が、また、ゆらりと暖かく、淡い色で点っているのがわかる。

わたしは、うきうきと胸を弾ませて、真っ黒なカバンに真っ黒な靴とワンピースで、あすの夕方にはきっと、懐かしく遠い思い出となる街へ飛び出した。
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