婚約破棄の慰謝料はツケ払い分、愛よりも忙しい!

桃瀬ももな

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「……おかしいですわ。計算が合いません」


私は自室のベッドで、山積みになったクッションに埋もれながら、愛用の銀製計算機を睨みつけていた。
王宮の財政再建、鉱山開発の進捗、バルドゥール商会への対抗策……。
すべてのプロジェクトは、私の完璧なシナリオ通りに進んでいるはずだ。


それなのに、ここ数日。私の身体のパフォーマンスが著しく低下している。


「……(ピッ、ピッ)……。心拍数が平均値より常に一割高い。……思考の処理速度が、特定のキーワード(ゼノス)に反応して〇・五秒遅延する。……さらに、夜間に『彼』の夢を見る頻度が急増したことにより、睡眠の質が低下し、日中のあくびの回数が増えている……」


私は計算機を額に押し当て、熱を測るような仕草をした。


「……これは、過労による自律神経の乱れ? それとも、未知のウイルス性疾患かしら? ……医療費の見積もりを取らなくては……」


コンコン、と扉がノックされた。
返事をする前に、ドアが開き、ゼノス公爵が姿を現した。


「……失礼。セバスから、君が部屋に引きこもって『奇妙な計算』をしていると聞いてね」


ゼノスは、心配そうに眉を寄せながらも、口元には隠しきれない笑みを浮かべている。
彼は私のベッドサイドに歩み寄ると、遠慮なく腰を下ろした。


「……勝手に入らないでくださいませ。……プライバシーの侵害による慰謝料請求権が発生していますわよ」


私は布団を頭まで被り、計算機だけを外に出して威嚇した。


「構わない。請求書は後でまとめて処理しよう。……それよりアマ、顔色が赤いな。熱があるのか?」


ゼノスが私の額に触れようと手を伸ばす。
私は反射的に身を引き、さらに布団に潜り込んだ。


「……触らないで。……今、私の体内では原因不明のエネルギー代謝異常が起きていますの。……接触感染のリスクがありますわ」


「代謝異常? ……ふむ。症状は、動悸、息切れ、思考の乱れ、そして顔面の紅潮……といったところか?」


「……なぜ分かりますの?」


私は布団から目だけを出して彼を睨んだ。
ゼノスは、まるで難しい数式を解いた学者のような、満足げな表情を浮かべた。


「簡単な診断だ。……アマ、君は『恋』という病にかかっている」


「……は?」


私は勢いよく布団を跳ね除け、ベッドの上に立ち上がった。


「撤回なさい! 今すぐ! ……私が恋? そんな非生産的で、維持費ばかりかかり、将来的なリターンが不透明な感情に、私が支配されるわけがありませんわ!」


「だが、症状はすべて当てはまっているぞ?」


「違いますわ! これは……そう、これは『戦略的パートナーシップにおける、過剰なストレス反応』です! ……あなたという予測不可能な変数が、私の完璧な計算式に負荷をかけているせいですわ!」


私は必死に反論し、計算機を構えた。


「……証明して見せますわ。……私のこの感情が、あくまでビジネス上の『損得勘定』であることを!」


「ほう? どうやって?」


「損益分岐点の計算ですわ!」


私は猛烈な勢いでキーを叩き始めた。


「いいですか? ……まず、私があなたに抱く『好意的な感情』を、無形資産としての『利益(プラス)』と定義します。……次に、あなたと過ごすことによる『時間の浪費』や『精神的動揺』を『費用(マイナス)』と定義します」


「なるほど。……それで?」


「……(チャカチャカチャカ……ッ!)……。過去一ヶ月のデータを基に、この二つの収支が均衡するポイント、つまり損益分岐点を算出します。……もし、利益が費用を上回っていれば、私の感情は合理的な投資判断に基づいているということ。……逆に、費用が上回っていれば、これはただの『赤字垂れ流しの不採算事業(恋)』ということになりますわ!」


ゼノスは腕を組み、私の奇妙なプレゼンテーションを興味深そうに聞いていた。


「……それで、結果は?」


私は最後のキーを叩き、液晶画面に表示された数字を凝視した。
……そして、絶句した。


「……(パチ、パチ……)」


「……どうした、アマ。数字は嘘をつかないんだろう?」


「……嘘ですわ。……計算機が故障しています。……こんな数字、ありえませんもの」


私は震える手で計算機を差し出した。
そこには、私の予想を遥かに超える、莫大な「プラス収支」が表示されていた。


「……ほう。これは驚いたな。……君の計算によれば、私に対する君の『好意』は、国家予算数年分に匹敵する資産価値があるらしい」


ゼノスは楽しそうに笑い、ベッドから降りようとする私の腰を引き寄せた。


「……つまり、君の心は、とっくの昔に私のもの(黒字)になっていたということだ」


「……ち、違いますわ! ……これは、計算式の係数設定にミスがあっただけです! ……あなたの『顔面偏差値による加点』を高く見積もりすぎましたわ!」


「まだ強がるか。……なら、この計算外の要素(ファクター)も追加してくれ」


ゼノスは私の後頭部に手を回し、抵抗する間もなく、深く唇を重ねた。


「…………っ!?」


思考が停止する。
計算機が手から滑り落ち、ベッドの上に音もなく転がった。
体温が急上昇し、心臓が早鐘を打ち、脳内の損益計算書が火を噴いて燃え上がっていく。


長いキスの後、ゼノスがゆっくりと顔を離した。
彼の金色の瞳が、とろんとした私の目を見つめている。


「……どうだ、アマ。今のキスによる『精神的動揺(コスト)』は、いくらになった?」


私は、熱くなった唇を手の甲で覆い、視線を泳がせた。
足元の計算機を拾う気力すら湧かない。


「……計測不能(エラー)……ですわ。……サンプルのデータが……少なすぎますもの」


「なら、もっとデータを取ろうか。……今夜は、朝まで付き合ってもらうぞ?」


「……っ。……残業代は、……高くつきますわよ……?」


精一杯の強がりも、声が震えてしまっては説得力がない。
ゼノスは愛おしそうに私を抱きしめ、耳元で囁いた。


「ああ。……私の全財産を払っても、お釣りがくるくらいだ」


私は彼の胸に顔を埋め、観念したように目を閉じた。
……認めますわ。完敗です。
私の心は、この男によって完全に買収(M&A)されてしまったようですわね。


けれど、悪役令嬢たるもの、ただでは転びませんわ。
この莫大な「感情の黒字」を元手に、この男からさらに大きな利益(幸せ)を毟り取ってやらなければ、私の気が済みませんもの!


私は計算機を持たない手で、彼の背中にそっと腕を回した。
熱い夜が、今、静かに始まろうとしていた。
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