1 / 29
1
しおりを挟む
「ルアーノ・ヴァレンティ! 貴様との婚約を、今この瞬間をもって破棄する!」
王城の大広間。
数百の貴族が集う夜会の最中、王太子アレクセイの高らかな宣言が響き渡った。
音楽が止まる。
ダンスを踊っていたペアたちは動きを止め、グラスを傾けていた者たちは息を呑む。
静寂が支配した会場の中心で、アレクセイは勝ち誇ったように胸を張っていた。
その腕には、小柄で可愛らしい男爵令嬢ミーナがしがみついている。
彼女は怯えたように震えながら、上目遣いで周囲を窺っていた。
対して、弾劾された公爵令嬢ルアーノ・ヴァレンティは、無表情で立ち尽くしている。
煌びやかなシャンデリアの光が、彼女の冷ややかな美貌を照らし出す。
誰もが思った。
プライドの高い彼女のことだ、この屈辱に耐えきれず、泣き崩れるか激昂するに違いない、と。
「……聞こえているのか、ルアーノ! 貴様がミーナに対して行ってきた数々の悪行、もはや看過できん!」
アレクセイがさらに声を張り上げる。
「教科書を隠したこと! ダンスの練習と称して足をわざと踏みつけたこと! さらには、彼女の実家の商売を妨害しようとしたこと! すべて調査済みだ!」
「ひどいですぅ……ルアーノ様……私、仲良くしたかっただけなのにぃ……」
ミーナが嘘泣きの手本のような声を上げる。
周囲の貴族たちが、ヒソヒソと噂話を始めた。
「やはり本当だったのか」
「氷の令嬢と言われるだけはある」
「次期王妃としての自覚がないのでは」
非難の視線がルアーノに集中する。
アレクセイは、勝利を確信した。
さあ、どうだ。
言い訳をするか?
それとも慈悲を乞うか?
だが、ルアーノは動じない。
扇で口元を隠すこともなく、ただ懐から『何か』を取り出した。
カタ、カタ、カタカタカタ。
静寂な広間に、奇妙な音が響く。
無機質で、リズミカルな音だ。
アレクセイが眉をひそめる。
「……おい、何をしている」
「少々お待ちを。今、日割り計算をしておりますので」
ルアーノの声は、透き通るように冷静だった。
感情の色が一切ない。
彼女の手元にあるのは、魔導具の一種だ。
数字を入力して計算を行う、最新鋭の小型計算機である。
カタカタ、ターンッ。
小気味よい音が響き、ルアーノは計算機から打ち出された長い紙片をピリリと破り取った。
「――はい、計算が合いました。殿下、まずはこちらをご確認ください」
ルアーノは優雅な所作で近づき、アレクセイの鼻先に紙片を突きつけた。
「な、なんだこれは」
「請求書です」
「は?」
「本日付で婚約破棄となると、契約不履行による違約金が発生します。加えて、これまでの『王太子妃教育』に費やした私の時間単価、衣装代、サロン代、並びに殿下の尻拭いのために奔走した補填費用。これらをすべて合算した金額となります」
アレクセイは紙片を受け取り、目を丸くした。
そこには、とんでもない桁の数字が並んでいる。
「なっ……なんだこの金額は! 『精神的苦痛による慰謝料』だと!? 苦痛を感じているのは僕とミーナの方だ!」
「いいえ、殿下。それはこちらのセリフです。ご覧ください、その明細の3行目」
ルアーノが細い指先で紙面を指す。
「『ミーナ嬢へのマナー講師派遣費用』および『業務改善コンサルティング費用』が含まれております」
「……は?」
ミーナが涙を止めて、きょとんとした顔をした。
ルアーノは淡々と説明を続ける。
「殿下は先ほど、私がミーナ嬢をいじめたと仰いましたね? 教科書を隠した? いいえ、彼女が授業に遅刻ばかりするので、予習ができるよう寮の部屋に届けさせただけです。配達記録も残っております」
「えっ」
「ダンスで足を踏んだ? いいえ、彼女のステップがあまりに独創的すぎて、私の足が逃げ場を失ったのです。むしろ踏まれたのは私の方で、治療費を請求したいところですが、今回はオマケしておきました」
「そ、そんな……」
「そして、ご実家の商売妨害? とんでもない。男爵家の帳簿があまりに杜撰(ずさん)で、このままでは倒産確実でしたので、優秀な会計士を派遣したのです。おかげで先月の売り上げは前年比120%に回復しております。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはありません」
会場がざわめき始める。
先ほどまでの非難の色が、徐々に困惑へと変わっていく。
アレクセイは顔を真っ赤にして叫んだ。
「だ、黙れ! 屁理屈を言うな! とにかく僕は、お前のような可愛げのない女は願い下げなんだ! ミーナのように純粋で、守ってやりたくなるような女性こそが王妃に相応しい!」
「そうですか。では、婚約破棄には同意いただけるのですね?」
「当たり前だ!」
「言質(げんち)は取りました」
ルアーノの瞳が、チャリンと金貨のような光を帯びた気がした。
「では殿下。速やかにこちらの書類にサインをお願いします。この『合意解約書』にサインをいただければ、私は二度と殿下の前に姿を現しませんし、王家との縁も綺麗さっぱり切らせていただきます」
どこからともなく取り出された羊皮紙とペン。
その手際の良さは、まるで最初からこの展開を予想していたかのようだ。
「ぐっ……サインすればいいんだな! これでせいせいする!」
アレクセイは書類の内容もよく読まず、乱暴に羽ペンを走らせた。
サラサラサラ。
「はい、いただきました」
ルアーノは素早く書類を回収し、インクが乾くのを確認してから丁寧に折りたたむ。
その顔には、これまで見せたことのないような晴れやかな表情が浮かんでいた。
「あぁ、なんと清々しい夜でしょう。これであの非効率極まりないお茶会や、中身のない詩の朗読会に付き合わなくて済むのですね」
「……な、なんだその態度は。悲しくないのか?」
拍子抜けしたアレクセイが問う。
ルアーノは小首を傾げた。
「悲しい? なぜですか? 私は損切りができたことに安堵しているだけですが」
「そ、損切りだと……?」
「はい。殿下との婚約は、投資対効果(ROI)が著しく低い案件でしたから。感情論で動き、公務をサボり、予算を浪費する。将来の国王としてあまりにリスクが高い。私の人生という資産を運用する相手として、殿下は『不良債権』以外の何物でもありません」
「ぶっ、不良債権……!?」
会場の隅から、誰かが吹き出す音が聞こえた。
だが、ルアーノは構わず続ける。
「慰謝料の支払い期限は今月末です。分割は認めません。もし遅れるようであれば、王室財務省に直接取り立てに参りますので、そのおつもりで」
ルアーノは優雅にカーテシー(膝を折る礼)をした。
その姿は完璧で、美しく、そして誰よりも冷徹だった。
「それでは皆様、ごきげんよう。殿下、ミーナ様、どうぞお幸せに。その『愛』とやらで、国庫が潤うといいですわね」
踵(きびす)を返し、ルアーノは颯爽と歩き出す。
背筋をピンと伸ばし、一度も振り返らない。
呆気にとられるアレクセイとミーナ。
静まり返る会場。
その中で、ルアーノの心の中はファンファーレが鳴り響いていた。
(やった! やったわ! ついに自由よ!)
心の中でガッツポーズをする。
実はルアーノ、何年も前からこの瞬間を待ちわびていたのだ。
王太子妃教育という名の拘束時間、非合理的な王宮のしきたり、そして何より話の通じない婚約者。
すべてがストレスの元凶だった。
(この慰謝料があれば、領地の開発資金が確保できる。まずは道路整備をして物流コストを下げて、特産品のハーブをブランド化して……あぁ、夢が広がるわ!)
頭の中ですでに新しい事業計画書が組み立てられていく。
彼女にとって、愛だの恋だのは不確定要素の多いギャンブルに過ぎない。
確実なのは数字と契約。
そして、積み上げた利益だけが裏切らない。
彼女が会場の出口に差し掛かった時だった。
「くくっ……あはははは!」
こらえきれないといった様子で、低く、魅力的な笑い声が聞こえた。
思わず足を止めて視線を向けると、壁際の柱に寄りかかっている一人の男と目が合った。
黒髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。
近寄りがたい雰囲気を纏ったその男は、口元を手で覆いながら、肩を震わせていた。
(……誰かしら?)
見覚えはある。
確か、辺境伯でありながら国の筆頭魔術師を務める、ギルバート・クライヴだ。
『氷の魔術師』という二つ名を持ち、社交界には滅多に顔を出さない変わり者として有名である。
人を人とも思わないような冷酷な瞳で知られる彼が、なぜか今は、楽しげに目を細めてルアーノを見ていた。
「……何か?」
ルアーノが眉をひそめて問うと、ギルバートは口元の笑みを隠そうともせずに言った。
「いや、すまない。あまりに痛快でね」
「痛快?」
「王太子の顔を見たか? まるで茹でたタコのようだった。あんなに鮮やかな手際は、戦場でもそうそうお目にかかれない」
ギルバートは柱から背を離し、ゆっくりとルアーノに近づいてくる。
長身の彼に見下ろされると、威圧感があるはずなのに、なぜか不思議と嫌な感じはしなかった。
「君、面白いね」
「……はぁ。『面白い』と言われたのは初めてですが、褒め言葉として受け取っておきます。では、急ぎますので」
関わると長くなりそうだ。
ルアーノの直感がそう告げている。
彼女は軽く会釈をして、足早にその場を去ろうとした。
「待ってくれ」
ギルバートが長い脚で先回りし、ルアーノの前に立ちはだかる。
「急ぎとは? 泣く場所を探しに行くのか?」
「いいえ。実家に帰って、慰謝料の運用計画を練り直すのです。時は金なり(タイム・イズ・マネー)ですので」
ルアーノが真顔で答えると、ギルバートはまたしても吹き出した。
「くっ……ははは! 最高だ。君、本当に最高だよ」
彼はひとしきり笑った後、熱っぽい瞳でルアーノを真っ直ぐに見つめた。
それはまるで、長年探し求めていた未知の研究素材を見つけた学者のような目だった。
「ルアーノ嬢。君のその合理的な思考、実に興味深い」
「……は?」
「俺の領地に来ないか? 君のような人材を、俺はずっと探していた気がする」
「スカウトですか? 残念ですが、私はこれからスローライフという名の『領地経営』に忙しいので」
「なら、俺も行こう」
「はい?」
ルアーノは耳を疑った。
この男、今なんと言った?
国の重鎮である筆頭魔術師が、王都を離れてついてくる?
「ちょうど長期休暇を取ろうと思っていたところだ。君の研究……いや、君の『経営』とやらを、近くで見学させてもらいたい」
「お断りします。メリットが見当たりません」
即答するルアーノ。
しかし、ギルバートは諦めるどころか、ますます楽しそうに笑みを深めた。
「メリットならある。俺の魔法は便利だぞ? 冷房にもなるし、雑草も一瞬で凍らせて粉砕できる」
「……雑草の粉砕?」
ルアーノの足が止まった。
その言葉に、ピクリと反応してしまう。
領地の開拓において、雑草処理はもっとも人件費のかかる工程の一つだ。
それを一瞬で?
しかも、魔力消費のコストは彼持ち?
(……悪くない提案ね)
ルアーノの脳内で、再び電卓が弾かれる音がした。
高性能な『人間草刈り機』兼『護衛』が、タダで手に入る計算だ。
「……食事と宿の提供のみでよろしければ、検討しなくもありません」
「交渉成立だ」
ギルバートは満足げに頷いた。
その瞳の奥に、単なる興味以上の熱が灯っていることに、恋愛感情に疎いルアーノだけが気づいていなかった。
こうして、国を揺るがす前代未聞の婚約破棄騒動は幕を閉じた。
だがそれは、ルアーノにとって新たな『事業』の始まりに過ぎなかったのである。
王城の大広間。
数百の貴族が集う夜会の最中、王太子アレクセイの高らかな宣言が響き渡った。
音楽が止まる。
ダンスを踊っていたペアたちは動きを止め、グラスを傾けていた者たちは息を呑む。
静寂が支配した会場の中心で、アレクセイは勝ち誇ったように胸を張っていた。
その腕には、小柄で可愛らしい男爵令嬢ミーナがしがみついている。
彼女は怯えたように震えながら、上目遣いで周囲を窺っていた。
対して、弾劾された公爵令嬢ルアーノ・ヴァレンティは、無表情で立ち尽くしている。
煌びやかなシャンデリアの光が、彼女の冷ややかな美貌を照らし出す。
誰もが思った。
プライドの高い彼女のことだ、この屈辱に耐えきれず、泣き崩れるか激昂するに違いない、と。
「……聞こえているのか、ルアーノ! 貴様がミーナに対して行ってきた数々の悪行、もはや看過できん!」
アレクセイがさらに声を張り上げる。
「教科書を隠したこと! ダンスの練習と称して足をわざと踏みつけたこと! さらには、彼女の実家の商売を妨害しようとしたこと! すべて調査済みだ!」
「ひどいですぅ……ルアーノ様……私、仲良くしたかっただけなのにぃ……」
ミーナが嘘泣きの手本のような声を上げる。
周囲の貴族たちが、ヒソヒソと噂話を始めた。
「やはり本当だったのか」
「氷の令嬢と言われるだけはある」
「次期王妃としての自覚がないのでは」
非難の視線がルアーノに集中する。
アレクセイは、勝利を確信した。
さあ、どうだ。
言い訳をするか?
それとも慈悲を乞うか?
だが、ルアーノは動じない。
扇で口元を隠すこともなく、ただ懐から『何か』を取り出した。
カタ、カタ、カタカタカタ。
静寂な広間に、奇妙な音が響く。
無機質で、リズミカルな音だ。
アレクセイが眉をひそめる。
「……おい、何をしている」
「少々お待ちを。今、日割り計算をしておりますので」
ルアーノの声は、透き通るように冷静だった。
感情の色が一切ない。
彼女の手元にあるのは、魔導具の一種だ。
数字を入力して計算を行う、最新鋭の小型計算機である。
カタカタ、ターンッ。
小気味よい音が響き、ルアーノは計算機から打ち出された長い紙片をピリリと破り取った。
「――はい、計算が合いました。殿下、まずはこちらをご確認ください」
ルアーノは優雅な所作で近づき、アレクセイの鼻先に紙片を突きつけた。
「な、なんだこれは」
「請求書です」
「は?」
「本日付で婚約破棄となると、契約不履行による違約金が発生します。加えて、これまでの『王太子妃教育』に費やした私の時間単価、衣装代、サロン代、並びに殿下の尻拭いのために奔走した補填費用。これらをすべて合算した金額となります」
アレクセイは紙片を受け取り、目を丸くした。
そこには、とんでもない桁の数字が並んでいる。
「なっ……なんだこの金額は! 『精神的苦痛による慰謝料』だと!? 苦痛を感じているのは僕とミーナの方だ!」
「いいえ、殿下。それはこちらのセリフです。ご覧ください、その明細の3行目」
ルアーノが細い指先で紙面を指す。
「『ミーナ嬢へのマナー講師派遣費用』および『業務改善コンサルティング費用』が含まれております」
「……は?」
ミーナが涙を止めて、きょとんとした顔をした。
ルアーノは淡々と説明を続ける。
「殿下は先ほど、私がミーナ嬢をいじめたと仰いましたね? 教科書を隠した? いいえ、彼女が授業に遅刻ばかりするので、予習ができるよう寮の部屋に届けさせただけです。配達記録も残っております」
「えっ」
「ダンスで足を踏んだ? いいえ、彼女のステップがあまりに独創的すぎて、私の足が逃げ場を失ったのです。むしろ踏まれたのは私の方で、治療費を請求したいところですが、今回はオマケしておきました」
「そ、そんな……」
「そして、ご実家の商売妨害? とんでもない。男爵家の帳簿があまりに杜撰(ずさん)で、このままでは倒産確実でしたので、優秀な会計士を派遣したのです。おかげで先月の売り上げは前年比120%に回復しております。感謝されこそすれ、恨まれる筋合いはありません」
会場がざわめき始める。
先ほどまでの非難の色が、徐々に困惑へと変わっていく。
アレクセイは顔を真っ赤にして叫んだ。
「だ、黙れ! 屁理屈を言うな! とにかく僕は、お前のような可愛げのない女は願い下げなんだ! ミーナのように純粋で、守ってやりたくなるような女性こそが王妃に相応しい!」
「そうですか。では、婚約破棄には同意いただけるのですね?」
「当たり前だ!」
「言質(げんち)は取りました」
ルアーノの瞳が、チャリンと金貨のような光を帯びた気がした。
「では殿下。速やかにこちらの書類にサインをお願いします。この『合意解約書』にサインをいただければ、私は二度と殿下の前に姿を現しませんし、王家との縁も綺麗さっぱり切らせていただきます」
どこからともなく取り出された羊皮紙とペン。
その手際の良さは、まるで最初からこの展開を予想していたかのようだ。
「ぐっ……サインすればいいんだな! これでせいせいする!」
アレクセイは書類の内容もよく読まず、乱暴に羽ペンを走らせた。
サラサラサラ。
「はい、いただきました」
ルアーノは素早く書類を回収し、インクが乾くのを確認してから丁寧に折りたたむ。
その顔には、これまで見せたことのないような晴れやかな表情が浮かんでいた。
「あぁ、なんと清々しい夜でしょう。これであの非効率極まりないお茶会や、中身のない詩の朗読会に付き合わなくて済むのですね」
「……な、なんだその態度は。悲しくないのか?」
拍子抜けしたアレクセイが問う。
ルアーノは小首を傾げた。
「悲しい? なぜですか? 私は損切りができたことに安堵しているだけですが」
「そ、損切りだと……?」
「はい。殿下との婚約は、投資対効果(ROI)が著しく低い案件でしたから。感情論で動き、公務をサボり、予算を浪費する。将来の国王としてあまりにリスクが高い。私の人生という資産を運用する相手として、殿下は『不良債権』以外の何物でもありません」
「ぶっ、不良債権……!?」
会場の隅から、誰かが吹き出す音が聞こえた。
だが、ルアーノは構わず続ける。
「慰謝料の支払い期限は今月末です。分割は認めません。もし遅れるようであれば、王室財務省に直接取り立てに参りますので、そのおつもりで」
ルアーノは優雅にカーテシー(膝を折る礼)をした。
その姿は完璧で、美しく、そして誰よりも冷徹だった。
「それでは皆様、ごきげんよう。殿下、ミーナ様、どうぞお幸せに。その『愛』とやらで、国庫が潤うといいですわね」
踵(きびす)を返し、ルアーノは颯爽と歩き出す。
背筋をピンと伸ばし、一度も振り返らない。
呆気にとられるアレクセイとミーナ。
静まり返る会場。
その中で、ルアーノの心の中はファンファーレが鳴り響いていた。
(やった! やったわ! ついに自由よ!)
心の中でガッツポーズをする。
実はルアーノ、何年も前からこの瞬間を待ちわびていたのだ。
王太子妃教育という名の拘束時間、非合理的な王宮のしきたり、そして何より話の通じない婚約者。
すべてがストレスの元凶だった。
(この慰謝料があれば、領地の開発資金が確保できる。まずは道路整備をして物流コストを下げて、特産品のハーブをブランド化して……あぁ、夢が広がるわ!)
頭の中ですでに新しい事業計画書が組み立てられていく。
彼女にとって、愛だの恋だのは不確定要素の多いギャンブルに過ぎない。
確実なのは数字と契約。
そして、積み上げた利益だけが裏切らない。
彼女が会場の出口に差し掛かった時だった。
「くくっ……あはははは!」
こらえきれないといった様子で、低く、魅力的な笑い声が聞こえた。
思わず足を止めて視線を向けると、壁際の柱に寄りかかっている一人の男と目が合った。
黒髪に、凍てつくようなアイスブルーの瞳。
近寄りがたい雰囲気を纏ったその男は、口元を手で覆いながら、肩を震わせていた。
(……誰かしら?)
見覚えはある。
確か、辺境伯でありながら国の筆頭魔術師を務める、ギルバート・クライヴだ。
『氷の魔術師』という二つ名を持ち、社交界には滅多に顔を出さない変わり者として有名である。
人を人とも思わないような冷酷な瞳で知られる彼が、なぜか今は、楽しげに目を細めてルアーノを見ていた。
「……何か?」
ルアーノが眉をひそめて問うと、ギルバートは口元の笑みを隠そうともせずに言った。
「いや、すまない。あまりに痛快でね」
「痛快?」
「王太子の顔を見たか? まるで茹でたタコのようだった。あんなに鮮やかな手際は、戦場でもそうそうお目にかかれない」
ギルバートは柱から背を離し、ゆっくりとルアーノに近づいてくる。
長身の彼に見下ろされると、威圧感があるはずなのに、なぜか不思議と嫌な感じはしなかった。
「君、面白いね」
「……はぁ。『面白い』と言われたのは初めてですが、褒め言葉として受け取っておきます。では、急ぎますので」
関わると長くなりそうだ。
ルアーノの直感がそう告げている。
彼女は軽く会釈をして、足早にその場を去ろうとした。
「待ってくれ」
ギルバートが長い脚で先回りし、ルアーノの前に立ちはだかる。
「急ぎとは? 泣く場所を探しに行くのか?」
「いいえ。実家に帰って、慰謝料の運用計画を練り直すのです。時は金なり(タイム・イズ・マネー)ですので」
ルアーノが真顔で答えると、ギルバートはまたしても吹き出した。
「くっ……ははは! 最高だ。君、本当に最高だよ」
彼はひとしきり笑った後、熱っぽい瞳でルアーノを真っ直ぐに見つめた。
それはまるで、長年探し求めていた未知の研究素材を見つけた学者のような目だった。
「ルアーノ嬢。君のその合理的な思考、実に興味深い」
「……は?」
「俺の領地に来ないか? 君のような人材を、俺はずっと探していた気がする」
「スカウトですか? 残念ですが、私はこれからスローライフという名の『領地経営』に忙しいので」
「なら、俺も行こう」
「はい?」
ルアーノは耳を疑った。
この男、今なんと言った?
国の重鎮である筆頭魔術師が、王都を離れてついてくる?
「ちょうど長期休暇を取ろうと思っていたところだ。君の研究……いや、君の『経営』とやらを、近くで見学させてもらいたい」
「お断りします。メリットが見当たりません」
即答するルアーノ。
しかし、ギルバートは諦めるどころか、ますます楽しそうに笑みを深めた。
「メリットならある。俺の魔法は便利だぞ? 冷房にもなるし、雑草も一瞬で凍らせて粉砕できる」
「……雑草の粉砕?」
ルアーノの足が止まった。
その言葉に、ピクリと反応してしまう。
領地の開拓において、雑草処理はもっとも人件費のかかる工程の一つだ。
それを一瞬で?
しかも、魔力消費のコストは彼持ち?
(……悪くない提案ね)
ルアーノの脳内で、再び電卓が弾かれる音がした。
高性能な『人間草刈り機』兼『護衛』が、タダで手に入る計算だ。
「……食事と宿の提供のみでよろしければ、検討しなくもありません」
「交渉成立だ」
ギルバートは満足げに頷いた。
その瞳の奥に、単なる興味以上の熱が灯っていることに、恋愛感情に疎いルアーノだけが気づいていなかった。
こうして、国を揺るがす前代未聞の婚約破棄騒動は幕を閉じた。
だがそれは、ルアーノにとって新たな『事業』の始まりに過ぎなかったのである。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……
buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。
みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……
たいした苦悩じゃないのよね?
ぽんぽこ狸
恋愛
シェリルは、朝の日課である魔力の奉納をおこなった。
潤沢に満ちていた魔力はあっという間に吸い出され、すっからかんになって体が酷く重たくなり、足元はふらつき気分も悪い。
それでもこれはとても重要な役目であり、体にどれだけ負担がかかろうとも唯一無二の人々を守ることができる仕事だった。
けれども婚約者であるアルバートは、体が自由に動かない苦痛もシェリルの気持ちも理解せずに、幼いころからやっているという事実を盾にして「たいしたことない癖に、大袈裟だ」と罵る。
彼の友人は、シェリルの仕事に理解を示してアルバートを窘めようとするが怒鳴り散らして聞く耳を持たない。その様子を見てやっとシェリルは彼の真意に気がついたのだった。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
【完結】記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜
凛蓮月@騎士の夫〜発売中です
恋愛
【完全完結しました。ご愛読頂きありがとうございます!】
公爵令嬢カトリーナ・オールディスは、王太子デーヴィドの婚約者であった。
だが、カトリーナを良く思っていなかったデーヴィドは真実の愛を見つけたと言って婚約破棄した上、カトリーナが最も嫌う醜悪伯爵──ディートリヒ・ランゲの元へ嫁げと命令した。
ディートリヒは『救国の英雄』として知られる王国騎士団副団長。だが、顔には数年前の戦で負った大きな傷があった為社交界では『醜悪伯爵』と侮蔑されていた。
嫌がったカトリーナは逃げる途中階段で足を踏み外し転げ落ちる。
──目覚めたカトリーナは、一切の記憶を失っていた。
王太子命令による望まぬ婚姻ではあったが仲良くするカトリーナとディートリヒ。
カトリーナに想いを寄せていた彼にとってこの婚姻は一生に一度の奇跡だったのだ。
(記憶を取り戻したい)
(どうかこのままで……)
だが、それも長くは続かず──。
【HOTランキング1位頂きました。ありがとうございます!】
※このお話は、以前投稿したものを大幅に加筆修正したものです。
※中編版、短編版はpixivに移動させています。
※小説家になろう、ベリーズカフェでも掲載しています。
※ 魔法等は出てきませんが、作者独自の異世界のお話です。現実世界とは異なります。(異世界語を翻訳しているような感覚です)
彼女が望むなら
mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。
リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。
笑い方を忘れた令嬢
Blue
恋愛
お母様が天国へと旅立ってから10年の月日が流れた。大好きなお父様と二人で過ごす日々に突然終止符が打たれる。突然やって来た新しい家族。病で倒れてしまったお父様。私を嫌な目つきで見てくる伯父様。どうしたらいいの?誰か、助けて。
自業自得じゃないですか?~前世の記憶持ち少女、キレる~
浅海 景
恋愛
前世の記憶があるジーナ。特に目立つこともなく平民として普通の生活を送るものの、本がない生活に不満を抱く。本を買うため前世知識を利用したことから、とある貴族の目に留まり貴族学園に通うことに。
本に釣られて入学したものの王子や侯爵令息に興味を持たれ、婚約者の座を狙う令嬢たちを敵に回す。本以外に興味のないジーナは、平穏な読書タイムを確保するために距離を取るが、とある事件をきっかけに最も大切なものを奪われることになり、キレたジーナは報復することを決めた。
※2024.8.5 番外編を2話追加しました!
【完結】灰かぶりの花嫁は、塔の中
白雨 音
恋愛
父親の再婚により、家族から小間使いとして扱われてきた、伯爵令嬢のコレット。
思いがけず結婚が決まるが、義姉クリスティナと偽る様に言われる。
愛を求めるコレットは、結婚に望みを託し、クリスティナとして夫となるアラード卿の館へ
向かうのだが、その先で、この結婚が偽りと知らされる。
アラード卿は、彼女を妻とは見ておらず、曰く付きの塔に閉じ込め、放置した。
そんな彼女を、唯一気遣ってくれたのは、自分よりも年上の義理の息子ランメルトだった___
異世界恋愛 《完結しました》
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる