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「――では、第1条から確認していきます」
ヴァレンティ商会の大会議室。
長机の中央に鎮座するのは、分厚い書類の束。
タイトルは『婚姻に関する基本合意契約書(案)』。
ルアーノは老眼鏡(伊達メガネ。知的に見せるため)をクイッと上げ、向かいに座るギルバートを睨んだ。
「ギルバート様。貴方が提出した修正案ですが、却下(リジェクト)箇所が多すぎます」
「……そうか? 俺としては、極めて誠実な内容だと思ったのだが」
ギルバートは不満げに頬杖をついている。
彼の提出した修正案には、赤ペンでびっしりと書き込みがされていた。
「まず、第3条。『配偶者の義務』について」
ルアーノは条文を読み上げる。
『甲(ルアーノ)は乙(ギルバート)に対し、毎日「行ってらっしゃい」のキスと、「お帰りなさい」のハグを提供すること』
「……ここまでは、まあ百歩譲って福利厚生として認めましょう。問題はその次です」
ルアーノは声を張り上げた。
『ただし、その所要時間は無制限とし、乙が満足するまで継続するものとする』
「……無制限? 仕事に行かせる気はありますか? 朝の1分は金貨1枚に相当するのですよ?」
「愛のチャージに必要な時間だ。短縮は認めん」
「却下です。上限10秒。それ以上は『時間外労働手当』を請求します」
「……ケチだな。じゃあ15秒で手を打とう」
「交渉成立です。次に第5条、『資産の共有』について」
ルアーノは次のページをめくる。
『乙の全財産、および将来獲得する全ての魔導具・素材は、甲の管理下に置くものとする』
「これは私の提案通りですね。素晴らしいです。ですが、貴方が追記した一文が問題です」
『また、乙の身体・魔力・魂に至るまで、全て甲の所有物とする』
「……重いです」
ルアーノはドン引きした。
「財産管理は引き受けますが、魂の管理までは業務範囲外です。宗教法人ではありませんので」
「俺の全てを捧げると言っているんだ。受け取ってくれ」
「管理コストがかかりすぎます。物理的な資産だけで結構です」
「つれないな……」
議論は平行線をたどる。
ルアーノは「効率と利益」を追求し、ギルバートは「愛と独占欲」をねじ込んでくる。
この会議はすでに3時間続いていた。
「……はぁ。休憩にしましょう。これでは日が暮れてしまいます」
ルアーノが匙を投げかけた時、会議室のドアがノックされた。
「失礼しまぁーす! 『おやつ』の時間ですよぉ!」
入ってきたのは、食品開発部長に就任したばかりのミーナだ。
手には大きなトレイを持っている。
「開発部からの差し入れです! 頭を使った時は糖分ですよ!」
トレイに載っていたのは、二つの輪が重なり合ったような形状のドーナツだった。
「新作『マリッジ・リング・ドーナツ』です! 片方はハニーグレーズ、もう片方はビターチョコ。二つの味が重なり合って、複雑だけど美味しいハーモニーを奏でるんです!」
ミーナが得意げに説明する。
ルアーノはそのドーナツをまじまじと観察した。
「……なるほど。形状による強度の確保と、味のコントラスト。悪くない商品設計ですね」
「でしょ? 結婚準備中のお二人にピッタリだと思って!」
ミーナに勧められ、ルアーノとギルバートはドーナツを手に取った。
一口かじる。
サクッとした食感と、甘さと苦さが絶妙に混ざり合う。
「……美味いな」
ギルバートが素直に感想を漏らす。
「ええ。甘すぎず、苦すぎず。……まるで、結婚生活そのもののようですわね」
ルアーノも同意した。
甘い夢だけでは腹は膨れないが、苦い現実だけでは喉を通らない。
両方あるからこそ、味わい深い。
「……ミーナ様。この商品のキャッチコピー、採用です」
「えっ、本当!?」
「『甘さと苦さを噛み締めて、二人は夫婦になる』。……今の私たちには、このドーナツのようなバランスが必要なのかもしれません」
ルアーノはギルバートに向き直った。
手元の契約書を閉じる。
「ギルバート様。条文の細かい修正は、一旦保留にしましょう」
「……いいのか?」
「はい。完璧な契約書を作ろうとするあまり、本質を見失っていました。結婚とは、予測不能なトラブル(バグ)も含めて運用していくプロジェクトです。最初から全てを定義するのは不可能でした」
ルアーノはため息混じりに、しかし憑き物が落ちたような顔で言った。
「ですので、契約書はシンプルにしましょう。たった一つの条文だけで結構です」
「たった一つ? なんだ?」
ルアーノは新しい紙を取り出し、サラサラとペンを走らせた。
『第1条:互いの利益と幸福を最大化するために、死ぬまで協力し、支え合い、愛し合うこと。以上』
ルアーノはその紙をギルバートに差し出した。
シンプルすぎて、法律的には穴だらけだ。
だが、ルアーノ・ヴァレンティが出した「答え」としては、これ以上ないほど人間味に溢れていた。
ギルバートは目を丸くし、それから今日一番の笑顔を見せた。
「……了解した。異存はない」
彼はペンを取り、迷いなくサインした。
ルアーノも並んで署名する。
「契約成立(ディール)ですね」
「ああ。……で、いつ籍を入れる?」
「気が早いですね。まずは式場の選定と、招待客リストの作成、予算の計上が先です。プロジェクト工程表(ガントチャート)を作成しますので、明日までに希望を出してください」
「……結局、仕事になるのか」
ギルバートは苦笑したが、その表情は幸せそうだった。
「おめでとうございまぁーす!」
ミーナがパチパチと拍手をする。
こうして、数時間に及ぶ激闘(契約交渉)は、ドーナツの甘さに免じて和解に至った。
***
その夜。
ルアーノの自室にて。
「……よし、工程表のドラフトは完成しました」
ルアーノは机に向かっていた。
結婚式のプランニングだ。
やることは山積みだが、不思議と苦ではない。
むしろ、新しい事業を立ち上げる時のようなワクワク感がある。
「式場は工場の庭を開放して、コスト削減。料理はミーナ様のドーナツタワーをメインに。引き出物は新作の『高級ハーブセット』で宣伝も兼ねて……」
電卓を叩く手が止まらない。
ふと、視線が手元の『簡易契約書』に落ちた。
『愛し合うこと』
自分で書いた文字が、照れくさい。
「……柄にもないことを書きましたね」
ルアーノは独り言を呟き、頬杖をついた。
「でも、悪くない響きです。……『愛』という無形資産も、運用次第では莫大な利益を生むかもしれませんし」
コンコン。
窓ガラスが叩かれる音がした。
バルコニーには、当然のようにギルバートが立っている。
「……また不法侵入ですか」
ルアーノが窓を開けると、ギルバートは悪びれもせずに部屋に入ってきた。
「工程表の進捗はどうだ?」
「今、作成中です。……それより、何か用ですか?」
「いや、契約書の第1条を履行しに来た」
「はい?」
「『愛し合うこと』。……今の時間は、そのための業務時間だろう?」
ギルバートはルアーノの手からペンを取り上げ、机の上に置いた。
そして、彼女を抱き寄せる。
「ちょ、ちょっと! まだ仕事が……!」
「残業は禁止だ。社長命令……いや、夫としての命令だ」
「まだ夫じゃありません!」
「時間の問題だ」
ギルバートの顔が近づく。
抵抗する気力も、計算する余裕もない。
チュッ。
甘い口づけが落ちてくる。
それはドーナツよりも甘く、そしてミントティーのように心を溶かしていく。
(……ああ、もう。計算が狂うわ)
ルアーノは目を閉じ、彼の首に腕を回した。
「……今回だけですよ。特別サービスです」
「毎晩でも構わんぞ」
「別料金になります」
「金ならある」
二人の影が重なる。
机の上の電卓には、『0』の数字が表示されたまま、静かにその時を刻んでいた。
愛という変数は、やはりどんな計算機でも弾き出せないようである。
***
一方、その頃。
北の極寒鉱山。
「くしゅん! ……さ、寒い……」
元王太子アレクセイは、ボロ布のような防寒着に身を包み、ツルハシを振るっていた。
周りには、屈強な囚人たちがいる。
「おい新入り! 手が止まってるぞ!」
「は、はい! すみません!」
アレクセイは必死に石を掘る。
かつての栄光は見る影もない。
「……ルアーノ……今頃、どうしているだろうか……」
彼は冷たい手を擦り合わせながら、遠い空を見上げた。
「きっと、優雅に紅茶でも飲んでいるんだろうな……。ああ、あの時、素直に彼女の言うことを聞いていれば……」
後悔先に立たず。
彼が失ったものの大きさ(主に金と安らぎ)に気づくのは、いつも全てが終わった後なのだった。
「さあ掘れ! 今日のノルマまであと金貨100枚分だ!」
「ひぃぃぃ! 無理だぁぁぁ!」
彼のリハビリ(借金返済)生活は、まだ始まったばかりである。
ヴァレンティ商会の大会議室。
長机の中央に鎮座するのは、分厚い書類の束。
タイトルは『婚姻に関する基本合意契約書(案)』。
ルアーノは老眼鏡(伊達メガネ。知的に見せるため)をクイッと上げ、向かいに座るギルバートを睨んだ。
「ギルバート様。貴方が提出した修正案ですが、却下(リジェクト)箇所が多すぎます」
「……そうか? 俺としては、極めて誠実な内容だと思ったのだが」
ギルバートは不満げに頬杖をついている。
彼の提出した修正案には、赤ペンでびっしりと書き込みがされていた。
「まず、第3条。『配偶者の義務』について」
ルアーノは条文を読み上げる。
『甲(ルアーノ)は乙(ギルバート)に対し、毎日「行ってらっしゃい」のキスと、「お帰りなさい」のハグを提供すること』
「……ここまでは、まあ百歩譲って福利厚生として認めましょう。問題はその次です」
ルアーノは声を張り上げた。
『ただし、その所要時間は無制限とし、乙が満足するまで継続するものとする』
「……無制限? 仕事に行かせる気はありますか? 朝の1分は金貨1枚に相当するのですよ?」
「愛のチャージに必要な時間だ。短縮は認めん」
「却下です。上限10秒。それ以上は『時間外労働手当』を請求します」
「……ケチだな。じゃあ15秒で手を打とう」
「交渉成立です。次に第5条、『資産の共有』について」
ルアーノは次のページをめくる。
『乙の全財産、および将来獲得する全ての魔導具・素材は、甲の管理下に置くものとする』
「これは私の提案通りですね。素晴らしいです。ですが、貴方が追記した一文が問題です」
『また、乙の身体・魔力・魂に至るまで、全て甲の所有物とする』
「……重いです」
ルアーノはドン引きした。
「財産管理は引き受けますが、魂の管理までは業務範囲外です。宗教法人ではありませんので」
「俺の全てを捧げると言っているんだ。受け取ってくれ」
「管理コストがかかりすぎます。物理的な資産だけで結構です」
「つれないな……」
議論は平行線をたどる。
ルアーノは「効率と利益」を追求し、ギルバートは「愛と独占欲」をねじ込んでくる。
この会議はすでに3時間続いていた。
「……はぁ。休憩にしましょう。これでは日が暮れてしまいます」
ルアーノが匙を投げかけた時、会議室のドアがノックされた。
「失礼しまぁーす! 『おやつ』の時間ですよぉ!」
入ってきたのは、食品開発部長に就任したばかりのミーナだ。
手には大きなトレイを持っている。
「開発部からの差し入れです! 頭を使った時は糖分ですよ!」
トレイに載っていたのは、二つの輪が重なり合ったような形状のドーナツだった。
「新作『マリッジ・リング・ドーナツ』です! 片方はハニーグレーズ、もう片方はビターチョコ。二つの味が重なり合って、複雑だけど美味しいハーモニーを奏でるんです!」
ミーナが得意げに説明する。
ルアーノはそのドーナツをまじまじと観察した。
「……なるほど。形状による強度の確保と、味のコントラスト。悪くない商品設計ですね」
「でしょ? 結婚準備中のお二人にピッタリだと思って!」
ミーナに勧められ、ルアーノとギルバートはドーナツを手に取った。
一口かじる。
サクッとした食感と、甘さと苦さが絶妙に混ざり合う。
「……美味いな」
ギルバートが素直に感想を漏らす。
「ええ。甘すぎず、苦すぎず。……まるで、結婚生活そのもののようですわね」
ルアーノも同意した。
甘い夢だけでは腹は膨れないが、苦い現実だけでは喉を通らない。
両方あるからこそ、味わい深い。
「……ミーナ様。この商品のキャッチコピー、採用です」
「えっ、本当!?」
「『甘さと苦さを噛み締めて、二人は夫婦になる』。……今の私たちには、このドーナツのようなバランスが必要なのかもしれません」
ルアーノはギルバートに向き直った。
手元の契約書を閉じる。
「ギルバート様。条文の細かい修正は、一旦保留にしましょう」
「……いいのか?」
「はい。完璧な契約書を作ろうとするあまり、本質を見失っていました。結婚とは、予測不能なトラブル(バグ)も含めて運用していくプロジェクトです。最初から全てを定義するのは不可能でした」
ルアーノはため息混じりに、しかし憑き物が落ちたような顔で言った。
「ですので、契約書はシンプルにしましょう。たった一つの条文だけで結構です」
「たった一つ? なんだ?」
ルアーノは新しい紙を取り出し、サラサラとペンを走らせた。
『第1条:互いの利益と幸福を最大化するために、死ぬまで協力し、支え合い、愛し合うこと。以上』
ルアーノはその紙をギルバートに差し出した。
シンプルすぎて、法律的には穴だらけだ。
だが、ルアーノ・ヴァレンティが出した「答え」としては、これ以上ないほど人間味に溢れていた。
ギルバートは目を丸くし、それから今日一番の笑顔を見せた。
「……了解した。異存はない」
彼はペンを取り、迷いなくサインした。
ルアーノも並んで署名する。
「契約成立(ディール)ですね」
「ああ。……で、いつ籍を入れる?」
「気が早いですね。まずは式場の選定と、招待客リストの作成、予算の計上が先です。プロジェクト工程表(ガントチャート)を作成しますので、明日までに希望を出してください」
「……結局、仕事になるのか」
ギルバートは苦笑したが、その表情は幸せそうだった。
「おめでとうございまぁーす!」
ミーナがパチパチと拍手をする。
こうして、数時間に及ぶ激闘(契約交渉)は、ドーナツの甘さに免じて和解に至った。
***
その夜。
ルアーノの自室にて。
「……よし、工程表のドラフトは完成しました」
ルアーノは机に向かっていた。
結婚式のプランニングだ。
やることは山積みだが、不思議と苦ではない。
むしろ、新しい事業を立ち上げる時のようなワクワク感がある。
「式場は工場の庭を開放して、コスト削減。料理はミーナ様のドーナツタワーをメインに。引き出物は新作の『高級ハーブセット』で宣伝も兼ねて……」
電卓を叩く手が止まらない。
ふと、視線が手元の『簡易契約書』に落ちた。
『愛し合うこと』
自分で書いた文字が、照れくさい。
「……柄にもないことを書きましたね」
ルアーノは独り言を呟き、頬杖をついた。
「でも、悪くない響きです。……『愛』という無形資産も、運用次第では莫大な利益を生むかもしれませんし」
コンコン。
窓ガラスが叩かれる音がした。
バルコニーには、当然のようにギルバートが立っている。
「……また不法侵入ですか」
ルアーノが窓を開けると、ギルバートは悪びれもせずに部屋に入ってきた。
「工程表の進捗はどうだ?」
「今、作成中です。……それより、何か用ですか?」
「いや、契約書の第1条を履行しに来た」
「はい?」
「『愛し合うこと』。……今の時間は、そのための業務時間だろう?」
ギルバートはルアーノの手からペンを取り上げ、机の上に置いた。
そして、彼女を抱き寄せる。
「ちょ、ちょっと! まだ仕事が……!」
「残業は禁止だ。社長命令……いや、夫としての命令だ」
「まだ夫じゃありません!」
「時間の問題だ」
ギルバートの顔が近づく。
抵抗する気力も、計算する余裕もない。
チュッ。
甘い口づけが落ちてくる。
それはドーナツよりも甘く、そしてミントティーのように心を溶かしていく。
(……ああ、もう。計算が狂うわ)
ルアーノは目を閉じ、彼の首に腕を回した。
「……今回だけですよ。特別サービスです」
「毎晩でも構わんぞ」
「別料金になります」
「金ならある」
二人の影が重なる。
机の上の電卓には、『0』の数字が表示されたまま、静かにその時を刻んでいた。
愛という変数は、やはりどんな計算機でも弾き出せないようである。
***
一方、その頃。
北の極寒鉱山。
「くしゅん! ……さ、寒い……」
元王太子アレクセイは、ボロ布のような防寒着に身を包み、ツルハシを振るっていた。
周りには、屈強な囚人たちがいる。
「おい新入り! 手が止まってるぞ!」
「は、はい! すみません!」
アレクセイは必死に石を掘る。
かつての栄光は見る影もない。
「……ルアーノ……今頃、どうしているだろうか……」
彼は冷たい手を擦り合わせながら、遠い空を見上げた。
「きっと、優雅に紅茶でも飲んでいるんだろうな……。ああ、あの時、素直に彼女の言うことを聞いていれば……」
後悔先に立たず。
彼が失ったものの大きさ(主に金と安らぎ)に気づくのは、いつも全てが終わった後なのだった。
「さあ掘れ! 今日のノルマまであと金貨100枚分だ!」
「ひぃぃぃ! 無理だぁぁぁ!」
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