愛? 不要です。私が欲しいのは『慰謝料』と『商機』だけ!

桃瀬ももな

文字の大きさ
20 / 29

20

しおりを挟む
「――では、第1条から確認していきます」

ヴァレンティ商会の大会議室。
長机の中央に鎮座するのは、分厚い書類の束。
タイトルは『婚姻に関する基本合意契約書(案)』。

ルアーノは老眼鏡(伊達メガネ。知的に見せるため)をクイッと上げ、向かいに座るギルバートを睨んだ。

「ギルバート様。貴方が提出した修正案ですが、却下(リジェクト)箇所が多すぎます」

「……そうか? 俺としては、極めて誠実な内容だと思ったのだが」

ギルバートは不満げに頬杖をついている。
彼の提出した修正案には、赤ペンでびっしりと書き込みがされていた。

「まず、第3条。『配偶者の義務』について」

ルアーノは条文を読み上げる。

『甲(ルアーノ)は乙(ギルバート)に対し、毎日「行ってらっしゃい」のキスと、「お帰りなさい」のハグを提供すること』

「……ここまでは、まあ百歩譲って福利厚生として認めましょう。問題はその次です」

ルアーノは声を張り上げた。

『ただし、その所要時間は無制限とし、乙が満足するまで継続するものとする』

「……無制限? 仕事に行かせる気はありますか? 朝の1分は金貨1枚に相当するのですよ?」

「愛のチャージに必要な時間だ。短縮は認めん」

「却下です。上限10秒。それ以上は『時間外労働手当』を請求します」

「……ケチだな。じゃあ15秒で手を打とう」

「交渉成立です。次に第5条、『資産の共有』について」

ルアーノは次のページをめくる。

『乙の全財産、および将来獲得する全ての魔導具・素材は、甲の管理下に置くものとする』

「これは私の提案通りですね。素晴らしいです。ですが、貴方が追記した一文が問題です」

『また、乙の身体・魔力・魂に至るまで、全て甲の所有物とする』

「……重いです」

ルアーノはドン引きした。

「財産管理は引き受けますが、魂の管理までは業務範囲外です。宗教法人ではありませんので」

「俺の全てを捧げると言っているんだ。受け取ってくれ」

「管理コストがかかりすぎます。物理的な資産だけで結構です」

「つれないな……」

議論は平行線をたどる。
ルアーノは「効率と利益」を追求し、ギルバートは「愛と独占欲」をねじ込んでくる。
この会議はすでに3時間続いていた。

「……はぁ。休憩にしましょう。これでは日が暮れてしまいます」

ルアーノが匙を投げかけた時、会議室のドアがノックされた。

「失礼しまぁーす! 『おやつ』の時間ですよぉ!」

入ってきたのは、食品開発部長に就任したばかりのミーナだ。
手には大きなトレイを持っている。

「開発部からの差し入れです! 頭を使った時は糖分ですよ!」

トレイに載っていたのは、二つの輪が重なり合ったような形状のドーナツだった。

「新作『マリッジ・リング・ドーナツ』です! 片方はハニーグレーズ、もう片方はビターチョコ。二つの味が重なり合って、複雑だけど美味しいハーモニーを奏でるんです!」

ミーナが得意げに説明する。
ルアーノはそのドーナツをまじまじと観察した。

「……なるほど。形状による強度の確保と、味のコントラスト。悪くない商品設計ですね」

「でしょ? 結婚準備中のお二人にピッタリだと思って!」

ミーナに勧められ、ルアーノとギルバートはドーナツを手に取った。
一口かじる。
サクッとした食感と、甘さと苦さが絶妙に混ざり合う。

「……美味いな」

ギルバートが素直に感想を漏らす。

「ええ。甘すぎず、苦すぎず。……まるで、結婚生活そのもののようですわね」

ルアーノも同意した。
甘い夢だけでは腹は膨れないが、苦い現実だけでは喉を通らない。
両方あるからこそ、味わい深い。

「……ミーナ様。この商品のキャッチコピー、採用です」

「えっ、本当!?」

「『甘さと苦さを噛み締めて、二人は夫婦になる』。……今の私たちには、このドーナツのようなバランスが必要なのかもしれません」

ルアーノはギルバートに向き直った。
手元の契約書を閉じる。

「ギルバート様。条文の細かい修正は、一旦保留にしましょう」

「……いいのか?」

「はい。完璧な契約書を作ろうとするあまり、本質を見失っていました。結婚とは、予測不能なトラブル(バグ)も含めて運用していくプロジェクトです。最初から全てを定義するのは不可能でした」

ルアーノはため息混じりに、しかし憑き物が落ちたような顔で言った。

「ですので、契約書はシンプルにしましょう。たった一つの条文だけで結構です」

「たった一つ? なんだ?」

ルアーノは新しい紙を取り出し、サラサラとペンを走らせた。

『第1条:互いの利益と幸福を最大化するために、死ぬまで協力し、支え合い、愛し合うこと。以上』

ルアーノはその紙をギルバートに差し出した。
シンプルすぎて、法律的には穴だらけだ。
だが、ルアーノ・ヴァレンティが出した「答え」としては、これ以上ないほど人間味に溢れていた。

ギルバートは目を丸くし、それから今日一番の笑顔を見せた。

「……了解した。異存はない」

彼はペンを取り、迷いなくサインした。
ルアーノも並んで署名する。

「契約成立(ディール)ですね」

「ああ。……で、いつ籍を入れる?」

「気が早いですね。まずは式場の選定と、招待客リストの作成、予算の計上が先です。プロジェクト工程表(ガントチャート)を作成しますので、明日までに希望を出してください」

「……結局、仕事になるのか」

ギルバートは苦笑したが、その表情は幸せそうだった。

「おめでとうございまぁーす!」

ミーナがパチパチと拍手をする。
こうして、数時間に及ぶ激闘(契約交渉)は、ドーナツの甘さに免じて和解に至った。

***

その夜。
ルアーノの自室にて。

「……よし、工程表のドラフトは完成しました」

ルアーノは机に向かっていた。
結婚式のプランニングだ。
やることは山積みだが、不思議と苦ではない。
むしろ、新しい事業を立ち上げる時のようなワクワク感がある。

「式場は工場の庭を開放して、コスト削減。料理はミーナ様のドーナツタワーをメインに。引き出物は新作の『高級ハーブセット』で宣伝も兼ねて……」

電卓を叩く手が止まらない。
ふと、視線が手元の『簡易契約書』に落ちた。

『愛し合うこと』

自分で書いた文字が、照れくさい。

「……柄にもないことを書きましたね」

ルアーノは独り言を呟き、頬杖をついた。

「でも、悪くない響きです。……『愛』という無形資産も、運用次第では莫大な利益を生むかもしれませんし」

コンコン。

窓ガラスが叩かれる音がした。
バルコニーには、当然のようにギルバートが立っている。

「……また不法侵入ですか」

ルアーノが窓を開けると、ギルバートは悪びれもせずに部屋に入ってきた。

「工程表の進捗はどうだ?」

「今、作成中です。……それより、何か用ですか?」

「いや、契約書の第1条を履行しに来た」

「はい?」

「『愛し合うこと』。……今の時間は、そのための業務時間だろう?」

ギルバートはルアーノの手からペンを取り上げ、机の上に置いた。
そして、彼女を抱き寄せる。

「ちょ、ちょっと! まだ仕事が……!」

「残業は禁止だ。社長命令……いや、夫としての命令だ」

「まだ夫じゃありません!」

「時間の問題だ」

ギルバートの顔が近づく。
抵抗する気力も、計算する余裕もない。

チュッ。

甘い口づけが落ちてくる。
それはドーナツよりも甘く、そしてミントティーのように心を溶かしていく。

(……ああ、もう。計算が狂うわ)

ルアーノは目を閉じ、彼の首に腕を回した。

「……今回だけですよ。特別サービスです」

「毎晩でも構わんぞ」

「別料金になります」

「金ならある」

二人の影が重なる。
机の上の電卓には、『0』の数字が表示されたまま、静かにその時を刻んでいた。
愛という変数は、やはりどんな計算機でも弾き出せないようである。

***

一方、その頃。
北の極寒鉱山。

「くしゅん! ……さ、寒い……」

元王太子アレクセイは、ボロ布のような防寒着に身を包み、ツルハシを振るっていた。
周りには、屈強な囚人たちがいる。

「おい新入り! 手が止まってるぞ!」

「は、はい! すみません!」

アレクセイは必死に石を掘る。
かつての栄光は見る影もない。

「……ルアーノ……今頃、どうしているだろうか……」

彼は冷たい手を擦り合わせながら、遠い空を見上げた。

「きっと、優雅に紅茶でも飲んでいるんだろうな……。ああ、あの時、素直に彼女の言うことを聞いていれば……」

後悔先に立たず。
彼が失ったものの大きさ(主に金と安らぎ)に気づくのは、いつも全てが終わった後なのだった。

「さあ掘れ! 今日のノルマまであと金貨100枚分だ!」

「ひぃぃぃ! 無理だぁぁぁ!」

彼のリハビリ(借金返済)生活は、まだ始まったばかりである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……

buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。 みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……

たいした苦悩じゃないのよね?

ぽんぽこ狸
恋愛
 シェリルは、朝の日課である魔力の奉納をおこなった。    潤沢に満ちていた魔力はあっという間に吸い出され、すっからかんになって体が酷く重たくなり、足元はふらつき気分も悪い。  それでもこれはとても重要な役目であり、体にどれだけ負担がかかろうとも唯一無二の人々を守ることができる仕事だった。  けれども婚約者であるアルバートは、体が自由に動かない苦痛もシェリルの気持ちも理解せずに、幼いころからやっているという事実を盾にして「たいしたことない癖に、大袈裟だ」と罵る。  彼の友人は、シェリルの仕事に理解を示してアルバートを窘めようとするが怒鳴り散らして聞く耳を持たない。その様子を見てやっとシェリルは彼の真意に気がついたのだった。

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。

【完結】記憶が戻ったら〜孤独な妻は英雄夫の変わらぬ溺愛に溶かされる〜

凛蓮月@騎士の夫〜発売中です
恋愛
【完全完結しました。ご愛読頂きありがとうございます!】  公爵令嬢カトリーナ・オールディスは、王太子デーヴィドの婚約者であった。  だが、カトリーナを良く思っていなかったデーヴィドは真実の愛を見つけたと言って婚約破棄した上、カトリーナが最も嫌う醜悪伯爵──ディートリヒ・ランゲの元へ嫁げと命令した。  ディートリヒは『救国の英雄』として知られる王国騎士団副団長。だが、顔には数年前の戦で負った大きな傷があった為社交界では『醜悪伯爵』と侮蔑されていた。  嫌がったカトリーナは逃げる途中階段で足を踏み外し転げ落ちる。  ──目覚めたカトリーナは、一切の記憶を失っていた。  王太子命令による望まぬ婚姻ではあったが仲良くするカトリーナとディートリヒ。  カトリーナに想いを寄せていた彼にとってこの婚姻は一生に一度の奇跡だったのだ。 (記憶を取り戻したい) (どうかこのままで……)  だが、それも長くは続かず──。 【HOTランキング1位頂きました。ありがとうございます!】 ※このお話は、以前投稿したものを大幅に加筆修正したものです。 ※中編版、短編版はpixivに移動させています。 ※小説家になろう、ベリーズカフェでも掲載しています。 ※ 魔法等は出てきませんが、作者独自の異世界のお話です。現実世界とは異なります。(異世界語を翻訳しているような感覚です)

彼女が望むなら

mios
恋愛
公爵令嬢と王太子殿下の婚約は円満に解消された。揉めるかと思っていた男爵令嬢リリスは、拍子抜けした。男爵令嬢という身分でも、王妃になれるなんて、予定とは違うが高位貴族は皆好意的だし、王太子殿下の元婚約者も応援してくれている。 リリスは王太子妃教育を受ける為、王妃と会い、そこで常に身につけるようにと、ある首飾りを渡される。

笑い方を忘れた令嬢

Blue
恋愛
 お母様が天国へと旅立ってから10年の月日が流れた。大好きなお父様と二人で過ごす日々に突然終止符が打たれる。突然やって来た新しい家族。病で倒れてしまったお父様。私を嫌な目つきで見てくる伯父様。どうしたらいいの?誰か、助けて。

自業自得じゃないですか?~前世の記憶持ち少女、キレる~

浅海 景
恋愛
前世の記憶があるジーナ。特に目立つこともなく平民として普通の生活を送るものの、本がない生活に不満を抱く。本を買うため前世知識を利用したことから、とある貴族の目に留まり貴族学園に通うことに。 本に釣られて入学したものの王子や侯爵令息に興味を持たれ、婚約者の座を狙う令嬢たちを敵に回す。本以外に興味のないジーナは、平穏な読書タイムを確保するために距離を取るが、とある事件をきっかけに最も大切なものを奪われることになり、キレたジーナは報復することを決めた。 ※2024.8.5 番外編を2話追加しました!

【完結】灰かぶりの花嫁は、塔の中

白雨 音
恋愛
父親の再婚により、家族から小間使いとして扱われてきた、伯爵令嬢のコレット。 思いがけず結婚が決まるが、義姉クリスティナと偽る様に言われる。 愛を求めるコレットは、結婚に望みを託し、クリスティナとして夫となるアラード卿の館へ 向かうのだが、その先で、この結婚が偽りと知らされる。 アラード卿は、彼女を妻とは見ておらず、曰く付きの塔に閉じ込め、放置した。 そんな彼女を、唯一気遣ってくれたのは、自分よりも年上の義理の息子ランメルトだった___ 異世界恋愛 《完結しました》

処理中です...