芋虫(完結)

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「っ……!」

 仕事を始めてしばらくすると、頭が次第に痛み始めた。
 私は柴多と昼食を摂る時に、痛み止めを飲み忘れた事に気がつく。カバンの中にあるピルケースを取り出して、痛みに耐えながらゆっくりと立ち上がる。
 幸い何も顔に出ない方なので、誰も私の体調が悪いなどと誰も気が付いていないだろう。

「柏木くん。ちょっと席外すね。すぐに戻ります」

 私がそれだけ言うと、柏木は察したのか心配そうな顔をして頷いた。
 何も言ってないけれど彼は、私が偏頭痛持ちな事を知っているような気がする。
 誰にも悟らせないように普段は時間を計算して、事前に薬を飲んでいるが、今日は慌ただしくて完全に忘れていた。

「大丈夫ですから、無理しないで落ち着いたら戻って来てください」

 柏木は気にしなくてもいいと微笑む。その優しい言葉に安心して私は給湯室へ向かった。
 やっぱり、本当に彼は誰よりも頼りになる。嫉妬しそうなくらいに。

 脳を掻き混ぜられるような感覚に痛みと吐き気がする。
 不安から手が震えて薬を落としそうになりながらも、なんとか薬を飲み下す。
 飲んだところですぐによくなるわけではないが、『飲んだ』という安心感から少しだけ痛みが引いたような気がした。

 我慢できるくらいになったら仕事に戻ろう。

 こういう時は何も考えないで、時間が過ぎ去るのを待つ方がいい。
 早く戻らないといけない。とか、水津や柴多や進藤の事を考えるのはやめよう。
 私は壁にもたれながら時計と睨み合い時間が過ぎるのを待った。

「……」

 10分ほど経過した。頭の痛みは治まらないが、吐き気は随分よくなったような気がした。薬が効けば痛みは落ち着くので私はフロアに戻ろうと思った。
 柏木は大丈夫だとは言ったが、責任者である私が長時間居ないのは良くない事だ。
 吐き気さえなければ作業効率が落ちても仕事はできる。それまで多少辛くてもなんとかなるだろう。


 私は給湯室から出た。さっきよりはいくらか足は軽くなったが、頭痛のせいでかなり身体は疲れていた。
よくなる事を信じて仕事に戻るしかない。

 それに、早く戻らないと柏木に申し訳ない。

 私は周囲に気を配る余裕もなく、戻る事しか考えていなかった。
 だから、コピー室の前を通り過ぎる瞬間、大きな腕が私に向かって伸びたことにすぐに気がつかなかった。

「あっ、……!」

 私はその腕に抱き寄せられて、コピー室の中に引き摺り込まれた。

「うっ」

 急に視界が揺らぎ、頭を掻き混ぜられるような感覚が余計に酷くなる。
 私はその男に抱きしめられて腕の中に収まってしまった。

「うっ……」

 呻き声をあげてその男の胸に両手で押そうとするが力で敵うわけがない。どれだけ、力を込めて押しても男の身体はピクリとも動かなかった。

「やめて……」

 唇から出てきたのはとても弱々しい声で、こんな抵抗をしても男を喜ばせるだけだ。わかっていてもそれしかできない。

「……」

 チュッ、と音をたてて男が私の耳朶に唇を落とした。顔が近いせいで微かにかかる息に私の背筋はゾクリと粟立つ。

「……凛子」

 水津はしばらく逢えなかった恋人に囁くように、私の名前を呼んだ。
 荒い息で彼が私の耳を甘噛みしながら、逃げようとその胸を押す右手を掴む。
 私の手は簡単に絡め取られた。

「ねぇ、やめて」

 私は掴まれていない左手で水津を押そうとするが、腰を抱く手の力が強くなっただけだ。
 さらに引き寄せられて、身体が密着させられる。逃げようにも体には力が入らずされるがままだ。

「……」

 水津は私の右手の指一本ずつに音をたてながら口づけをしていく。
 私に向けられた瞳はなぜかわからないが、咎めているように感じた。
 水津は私の指が甘い蜜で出来ていて、蝶が味わうように五本の指の全てに口づけを落としていく。

「ねぇ、あの人また来たの?何の用事で?」

 口づけを終えたら水津はどこか安堵したように私の顔を見た。
 けれど、手は解放してくれず今度はゆっくりと頬擦りを始めた。
 私は『貴方に関係のないことでしょう』と反射的に言いたくなった。しかし、もし言ってしまえば逆上しそうな気がしてそれを抑えた。

「異動になるらしくてその挨拶と、想い出作りに時々昼食を一緒に食べようって誘われただけよ。」

「そう」

 私が答えるなり抱き締める腕の力が強くなる。

「俺も再来年には居なくなるよ?」

 水津は頬擦りをやめて寂しそうに微笑み、私の手のひらに目を閉じて唇を落とした。
 その通りだけど、いつか私の事を忘れる人との想い出を作ったところで意味などない。
 私は水津との想い出は作りたくなかった。

「そうだけど、まだ先でしょう?」

 私はそれを悟られないように話をはぐらかす。とにかく身体を離して欲しい。誰かにこんなところ見られでもしたらどうなる事か。
 私は冷静に状況の不味さをよく理解していた。

「俺にも想い出を『今』作らせてよ」

 水津は蕩けそうな笑顔で私の右手の甲に口づけをした。
 何度も角度や位置を変えて、大切そうに右手に口づけを重ねられると、なぜか嘘を塗り重ねられているような気分になっていく。
 彼は誠実そうな仮面を被って、平気で私の所へ逃げている。進藤という現実と向き合う事もせずに。

「お願い、やめて」

 ようやく出た拒否の言葉は上擦っていて、情けないものだった。それに、水津はピクリと反応した。

「ねぇ、俺の事を煽ってるの?」

 彼は急に私を『憎い』と言わんばかりに睨み付けてきた。
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