芋虫(完結)

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 居酒屋代は『何とか』割り勘にしてもらえた。柏木が『僕の方が沢山飲んで食べてるから多目に出します!』と言い出したけれど何とか我慢してもらえた。

「今日は楽しかった。ありがとう」

 待合せ場所だった銀時計の前に戻り私は柏木にお礼を言った。

「こちらこそ、楽しかったです。」

 柏木は歩いている間にすっかり酔いは覚めたようだ。

「あの、聞いてもいいですか?少しだけ気になったんですけど、個室の居酒屋は好きじゃないんですか?」

 柏木は少しだけ聞きにくそうに、だけど、とても気にしているように私を見て言った。

「そうね。好きじゃない。怖いの」

 言うべきか悩みながら、私は目を伏せた。柏木は信用できる人間だと思う。
 それを誰かに知られたところで、何か言ってくる人はいないだろう。

「何があったの?言いたくないなら言わなくていいけど」

 柏木は敬語すら忘れて心配してくれている。私はそれに突き動かされるように口を開いた。
 柏木の「言わなくてもいい」という言葉がとても嬉しかった。
気がつけば私は口を開いていた。

「昔の事なんだけどね。婚約破棄した直後に同期から個室の居酒屋で吊し上げされたんだ。そこに行くと思い出しそうで。どうも苦手で……ね」

 柴多は事前に『部屋まで選別して予約を取った』と言ったそこは二人が入るにしては広すぎた。
 まるで、私と柴多以外が入るのを見越したかのように。
 仕事で呼び止められ会社に残る事になった柴多に「待っていて」と言われた私は一人でそこに待っていた。
 それから、しばらくして個室の扉は開かれて……。

「その、言ってもいいかな?凛子さん、柴多さん好きじゃないでしょ?それも関係してるの?」

 柏木はずっと前から気になっていたであろう事を私に聞いてきた。やっぱり気がついていたんだ。
 私が柴多を嫌っている事を。

「うん、あの時一緒に飲みに行こうって誘われて、それなのに柴多は残業でいなくて、一人で残っていたの、その直後に同期が入ってきて」

 吊し上げにされた。
 同期は澤田の言った事を信じて疑わず。私に「謝れ」と強要した。
 私が断ると頭を床に押し付けられて罵られた。
 それ以上は唇が震えて言えなかった。あの時の事を思い出すと今でも身体が震えそうになる。
 その後すぐに偏頭痛の発作を起こして。嘔吐や過呼吸まで誘発した私は救急車で病院に運ばれた。
 その時意外にも全ての後処理をしたのは柴多だった。救急車を呼んでくれたのも、上に私には何も落ち度がないことを証言したのも。
 そのおかげで同期や元婚約者は処分された。もし、柴多まで私が悪いと証言していたら今ごろ私はこの会社には居なかっただろう。
 けれど、柴多は私に真実を今も話してくれてはいない。時折、彼があんな事を言ったのが嘘ではなかったのかと思うことがある。

「思い出しちゃうんですね」

「うん」

 柏木は唇を噛み締めながらとても悔しそうな顔をした。
 私が理不尽な思いをした事が許せないのかもしれない。親しい人が辛い思いをしたから彼は腹を立ててくれているのだろう。
 柏木はとても優しいから。

「その時、僕が居たら良かったのに」

 彼がもしその時に部下でいてくれたら、私もここまで人間不信を拗らせなかった。

「ありがとう」

 柏木がそう思ってくれただけで私は嬉しかった。けれど、私は嘘はついていないが、本当の事を話していない。柴多とちゃんと話し合うべきなのは私だから。 表面上の柴多との嘘で塗り固めた友人関係は壊れてしまってもいいと思っている。
 だから私がこのプレゼントを渡す時に、真実を確かめて彼と決別するつもりでいる。

「柴多さんと一緒に居たくなければ僕が間に入りますよ」

 私が本当の事を話していない事を知らない柏木は、やはり気を遣ってくれた。

「ありがとう。でも、付き合いだし。私の一方的なものだしね。大丈夫。ありがとう」

 本当はそれを受けたいけれど、やはり柏木に申し訳なくてそれを断った。

「凛子さんって本当に」

 柏木はしょうがないなと困ったように頭を掻いていた。
 ふいに柏木の困ったような苦笑いが消えて急に、とても熱っぽい視線を向けられた。
 まだ、酔いが抜けきれていないのだろうか。
 その瞳が獲物を狙うようにスッと細められて。
 柏木が私の頬を右手でゆっくりと撫でた。
 その、綺麗な手はその見た目のわりに大きく男性的で私はドキリとしてしまう。
 手に目が行っている間に彼の顔がすぐ近くに迫ってきていた。

 何するつもりなのかしら……!?

 突然迫ってきた柏木の顔に驚いて避けようと思わず仰け反った。
 私と柏木の顔は無事激突することなく難を逃れた。

「はぁ、やっぱりダメか」

 彼は悪戯が失敗した子供のように気まずそうな苦笑いをして私を見下ろしていた。
 柏木は撫でるように私の頬に触れ手を離し、ゆっくりと一歩下がった。


「え……?あの、何?」

 何するつもりだったの?と聞けるわけもなく柏木を呆然と見つめると。
 彼は苦笑いからいつものすぐに考えの読み取れない笑顔になった。

「何でもないです。次は会社だね、じゃあ、また」

 柏木は何もなかったかのような、向日葵が咲いたように明るい笑顔になると私に手を振った。

「またね!」

 私も彼につられるように笑顔で手を振り背を向けた。今日は楽しい時間を過ごしたと思う。
 その時がきても『大丈夫』だと自分に言い聞かせるように、柴多へのプレゼントをギュッと握り地下鉄の駅の中を歩いた。
 吹き付ける風が強くて水津と歩いた浜辺をふと思い出して、少しだけ寂しさを感じる。
 家に着くと柴多に渡す予定のネクタイピンは、すぐにクローゼットの中に大切にしまった。
 その時が来たらいつでも取り出せるように。
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