芋虫(完結)

ありがとうございました。さようなら

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「凛子さん。お疲れ様でした」

 柏木が少しだけ寂しそうに微笑んで乾杯の言葉を言った。そして、私以外はお酒を飲み始めた。
 私はお酒を飲むのは憚られたのでソフトドリンクにした。

「凛子さん。本当に飲まないんですね、最後くらいハメ外してもいいじゃないですか」

 柏木はソフトドリンクを飲んでいる私を見て困ったように笑った。

「そうだけどね」

 長年のくせなのか、こういう場で素を出すのは苦手だった。

「最後だから好きにしていいですよ。いつも弱いのに付き合いで一杯飲んでたのも知ってますから」

 柏木は何もかもお見通しだったようだ。いつも一応飲まないといけない席では無理して飲んでいた。

「ありがとう」

 だけど、ふと私は思った。今、この場で理性をなくすくらい飲んでも、もうその私の醜態を見た人とは二度と会うことはないのだと。
 もう、何かに怯えて過ごす必要なんてない。

「やっぱり今日は飲もうかしら、最後だし。潰れたら家まで送ってね」

 私はお酒のメニュー表を見ながら柏木に悪戯っぽく笑った。何もかもが馬鹿らしくて。お酒を飲んだら今日は睡眠薬は飲めないけれど、今日くらいは別にいいだろう。
 仕事はないし少しだけ堕落した生活をしたっていいじゃないかと思い始める。
 なぜか、楽しくなって笑い声が出てきた。それを見た柏木は、驚いたように目を開いて口に含んでいたビールを勢い良く飲み込んだ。

「はい。潰れたら送りますね」

 今日は無礼講だと察した柏木は饒舌でズバズバと色々な事を聞いてきて、その度に私はタジタジになりながら答えた。
 その光景を同僚は呆気に取られながら見ていた。みんな随分お酒が回りだし、私達の話を興味深そうに聞いている人はもういなかった。

「ねぇ、凛子さん」

「なあに?」

 お酒が回り始めていたので私の呂律は少しだけ危うい。

「彼氏とかいないんですか?」

 婚約破棄の件から誰も聞かれなくなった事を柏木は聞いてきた。お酒で気が大きくなっているのもあるのかもしれない。

「それを聞くの?」

「だってずっと気になってたから。柴多さんとは違うでしょ?なんかいつも男の影があるみたいだから」

 やっぱり友達の浮いた話は気になるものなのだろうか。
 友達とはいえ異性だし、遊びに誘うには気がひけるのかもしれない。

「ないない。誰も居ないわよ」

「本当に?」

「本当よ、浮いた話一つもないんだから」

「それなら良かった」

 柏木は安心したように呟く。

「大体、彼氏が居たら柏木くんと飲みになんて行かないし、ライブなんて行かないわよ」

「確かにそうですね。じゃあ、心置きなく遊びに誘えます。仕事が始まるまでは時間の余裕はあるでしょ?」

 確かに次の仕事が見つかるまでは暇を持て余している。もし、彼と時々遊びに行けるのなら楽しいだろうなと思った。

「うん」

「辞めても会ってくれますよね?」

「もちろん」

 私はそう答えながら、柏木も同じ思いでいた事がとても嬉しかった。

「良かった」

 話し込むとお酒はすすむ。宴会は気がついたら終わっていた。
 水津に何かされないかという不安は杞憂に終わった。柏木はお会計を済ませてくれて、同僚はそれぞれお店を出ていっていた。
 私もお店から出ようとゆっくりと歩いていた。少しだけ足元がおぼつかないので、タクシーを呼んで帰った方が良さそうだ。
 もう少しで扉に手が届くところで、ぐらりと足の力が抜けて後方に揺らめいた。尻餅をつきそうになったが、誰かに抱えられ何とか持ちこたえた。
 私は柏木が支えてくれたのだろうと思った。

「ありがとう、柏木くん」

 お酒のせいか浮遊感が凄い。それがおかしくて笑いながら私は後ろを向いた。

「あ……」

 しかし、そこに居たのは柏木でもなければ、見知らぬ人でもなかった。……放っておいてくれれば良かったのに。
 私が支えてくれたのは水津だった。
 その瞳は何の感情もなく、怯えた表情の私が映し出されていた。
 何を考えているのかわからなくて怖い
 水津の温もりを感じると、痛め付けられて抱かれた時のように私の身体は強ばる。
 彼の腕から逃れようともがくけれど、力が強くてそこから抜けられなかった。

「あ、は、離して」

 声が震える。『やり返してやる』『一人でも平気』だと言いながら水津に怯えている自分が情けない。

「あ、はい」

 水津はそう返事をしてあっさりと腕の力を弱めた。逃れるように急いで私は身を離した。
 まだ、身体に残る水津の温もりを感じながら、私はなぜか戯れ合うように抱きしめ合い眠りについた夜のことを思い出していた。

 そう、私は彼が許せない。憎い。だけど、嫌いになれずにいた。
 睡眠薬で見る夢には水津ばかり出てくる。目が覚めるたびに私は絶望で叫び声を上げそうになるのだ。それでも、やめられなくて、苦しみに苛まれ続けた。
 きっと、ずっとこれが続くのだろう。彼のことを忘れることができるまで。

「凛……」

 水津が何かを言いたそうに私の名前を呼び掛けたが、私はそれを遮った。

「水津くん。今まで本当にありがとう」

 忘れることができなくても別れの言葉は必要だ。
水津と過ごした日々は楽しくて、憎しみや嘘で塗り固められた関係でもその時は幸せだった。
 心の底ではどれだけ憎まれて蔑まれていても、私は彼に感謝していた。

「さようなら」

 私は別れの挨拶をして、その返事を聞くことなく背を向けて柏木のところに向かった。ようやく一つの区切りができた気がする。
 けれど、水津は私の背中を見ながら何かを企むように嗤っているような気がした。
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