英雄の番が名乗るまで

長野 雪

文字の大きさ
56 / 67

56.若気の至りなら

 自室で一人、せっせと書き物に励んでいたユーリは、ふとペンを止めた。机の上に広げられているのは、自分がこの世界に持ち込んだ刺繍のマニュアル本だ。表紙には大きく「一から始める刺繍の本」と書かれており、内容は刺繍用の針など刺繍道具、色々な刺繍について図解入りでわかりやすく書かれている。暇を持て余してこれらの翻訳を自主的に始めていた。

(……そういえば、あのハンカチ、すごく喜んでくれてたな)

 思い出すのは、湖デートでフィルに渡した刺繍入りハンカチだ。初心者の拙い作品だったというのに、フィルは大袈裟なぐらいに喜び、勿体ないから使わないとさえ口にした。しまいには額に入れて飾るというので、さすがにそれは恥ずかし過ぎると死ぬ気で止めた。

「また何か作ってみようかな。刺繍もいいけど、定番のマフラーも……いや、鱗に引っかかりそうで怖いかも」

 刺繍、かぎ針編み、棒針編み、タティングレース……我ながら節操なしに買ったもんだ、と自嘲する。家庭的な女と言われてカッとなって極端に走ってしまったが、元彼のあの発言は、もっと精神的なものを指していたのかもしれないと思うようになった。ダブルインカムでバリバリ働くような相手ではなく、主婦となり家庭を守る存在を求めていたのなら、最初からミスマッチだったのだろう。

(冷静に考えられるようになったのも、たぶん、フィルさんのおかげ……だよね)

 初対面はなかなか酷いものだったが、今ではそれだけ必死だったんだと理解できる。理解できているからこそ、もういっそのこと彼に名を預けてしまってもいいと思っている。それでも踏ん切りがつかないのは――――

(私が臆病だから、だよね)

 まだ自分の知らない『常識』が残っているんじゃないか、とか、もっとよく考えた方がいいんじゃないか、とか、考えればキリがない。せめてもっと若い頃なら、深く考えることなく疑うことなく目の前の美味しい話に飛びつけただろうに。自分だけと言ってくれる金も地位もある男性がいる。取り立てて美人でも有能でもない自分にそんなことを言うなんて、きっと裏があるんだろうと、どうしても考えてしまうのだ。

「……ユーリ様、そろそろフィル殿下とのお約束の時間ですが」
「あ、ありがとうございます!」

 教えてくれた侍女に感謝して、慌てて机の上を片付けたユーリは、いそいそと中庭に向かう。今日は昼食こそ一緒にできなかったけれど、休憩時間にお茶をしようと言伝があったのだ。また邪魔が入らないようにと、いつもの中庭ではなく一室を用意するという所に、誰にも邪魔されたくないというフィルの本音が透けて見えた。

「部屋はどのあたりなんですか?」
「中庭が一望できる所だと伺っております」

 侍女に先導され、ユーリは「上から眺めるのもまた素敵かも」と弾むような足取りで廊下を歩く。

「こちらでございます」
「失礼します……って、まだ、フィルさんは来ていないんですね」

 部屋に入り、ぐるりと見回すがお茶と茶菓子がテーブルに用意されているだけで、彼の姿はない。仕事が推しているのかと考えた矢先、部屋の隅から小柄な人影が姿を現した。

「来てないよ。だって、呼んだのはあたしだし」
「……!」

 透き通るような白い肌を隠すかのように真っ黒なローブを身につけたその人は、にっこりと無邪気な笑みを浮かべた。

「こんにちは、フィルのつがいちゃん」
「どうして……」

 フィルの誘いではなかったのかと侍女を振り返れば、どこかぼんやりとした表情の侍女が「それでは、わたくしはこれで」と辞去の挨拶を告げる。

「うん、お疲れ~。アンタはここで何も見なかったし、アンタはいつも通りお仕事をしていなよ。この番ちゃんの部屋を守るっていう仕事をね」

 軽い口調で手を振るイングリッドに、ユーリは目を見開いた。思い出すのは、イングリッドが「魔女」と呼ばれていることと、王妃から「探究心の塊」と称されていたことだ。

(まさか、催眠とか洗脳とか、そういうこと?)

 まずいと思って退室した侍女の後を追おうと動くが、何故か扉は開かなかった。

感想 2

あなたにおすすめの小説

【完結】番である私の旦那様

桜もふ
恋愛
異世界であるミーストの世界最強なのが黒竜族! 黒竜族の第一皇子、オパール・ブラック・オニキス(愛称:オール)の番をミースト神が異世界転移させた、それが『私』だ。 バールナ公爵の元へ養女として出向く事になるのだが、1人娘であった義妹が最後まで『自分』が黒竜族の番だと思い込み、魅了の力を使って男性を味方に付け、なにかと嫌味や嫌がらせをして来る。 オールは政務が忙しい身ではあるが、溺愛している私の送り迎えだけは必須事項みたい。 気が抜けるほど甘々なのに、義妹に邪魔されっぱなし。 でも神様からは特別なチートを貰い、世界最強の黒竜族の番に相応しい子になろうと頑張るのだが、なぜかディロ-ルの侯爵子息に学園主催の舞踏会で「お前との婚約を破棄する!」なんて訳の分からない事を言われるし、義妹は最後の最後まで頭お花畑状態で、オールを手に入れようと男の元を転々としながら、絡んで来ます!(鬱陶しいくらい来ます!) 大好きな乙女ゲームや異世界の漫画に出てくる「私がヒロインよ!」な頭の変な……じゃなかった、変わった義妹もいるし、何と言っても、この世界の料理はマズイ、不味すぎるのです! 神様から貰った、特別なスキルを使って異世界の皆と地球へ行き来したり、地球での家族と異世界へ行き来しながら、日本で得た知識や得意な家事(食事)などを、この世界でオールと一緒に自由にのんびりと生きて行こうと思います。 前半は転移する前の私生活から始まります。

【完結】地味な私と公爵様

ベル
恋愛
ラエル公爵。この学園でこの名を知らない人はいないでしょう。 端正な顔立ちに甘く低い声、時折見せる少年のような笑顔。誰もがその美しさに魅了され、女性なら誰もがラエル様との結婚を夢見てしまう。 そんな方が、平凡...いや、かなり地味で目立たない伯爵令嬢である私の婚約者だなんて一体誰が信じるでしょうか。 ...正直私も信じていません。 ラエル様が、私を溺愛しているなんて。 きっと、きっと、夢に違いありません。 お読みいただきありがとうございます。短編のつもりで書き始めましたが、意外と話が増えて長編に変更し、無事完結しました(*´-`)

ストーカー婚約者でしたが、転生者だったので経歴を身綺麗にしておく

犬野きらり
恋愛
リディア・ガルドニ(14)、本日誕生日で転生者として気付きました。私がつい先程までやっていた行動…それは、自分の婚約者に対して重い愛ではなく、ストーカー行為。 「絶対駄目ーー」 と前世の私が気づかせてくれ、そもそも何故こんな男にこだわっていたのかと目が覚めました。 何の物語かも乙女ゲームの中の人になったのかもわかりませんが、私の黒歴史は証拠隠滅、慰謝料ガッポリ、新たな出会い新たな人生に進みます。 募集 婿入り希望者 対象外は、嫡男、後継者、王族 目指せハッピーエンド(?)!! 全23話で完結です。 この作品を気に留めて下さりありがとうございます。感謝を込めて、その後(直後)2話追加しました。25話になりました。

これ以上私の心をかき乱さないで下さい

Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。 そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。 そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが “君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない” そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。 そこでユーリを待っていたのは…

モブ令嬢、当て馬の恋を応援する

みるくコーヒー
恋愛
侯爵令嬢であるレアルチアは、7歳のある日母に連れられたお茶会で前世の記憶を取り戻し、この世界が概要だけ見た少女マンガの世界であることに気づく。元々、当て馬キャラが大好きな彼女の野望はその瞬間から始まった。必ずや私が当て馬な彼の恋を応援し成就させてみせます!!!と、彼女が暴走する裏側で当て馬キャラのジゼルはレアルチアを囲っていく。ただしアプローチには微塵も気づかれない。噛み合わない2人のすれ違いな恋物語。

【完結】悪役令嬢は番様?

水江 蓮
恋愛
ある日ぼんやり鏡を見ていたら、前世の記憶を思い出したツェツリア8歳。 この世界は人気乙女ゲームの世界であり自分の役どころは悪役令嬢だと…。 まだ悪役令嬢として活動していないから、まだ挽回できるはず! え? 誰が誰の番? まず番って何? 誰か何がどうなっているのか教えて!!

【完結】勘当されたい悪役は自由に生きる

雨野
恋愛
 難病に罹り、15歳で人生を終えた私。  だが気がつくと、生前読んだ漫画の貴族で悪役に転生していた!?タイトルは忘れてしまったし、ラストまで読むことは出来なかったけど…確かこのキャラは、家を勘当され追放されたんじゃなかったっけ?  でも…手足は自由に動くし、ご飯は美味しく食べられる。すうっと深呼吸することだって出来る!!追放ったって殺される訳でもなし、貴族じゃなくなっても問題ないよね?むしろ私、庶民の生活のほうが大歓迎!!  ただ…私が転生したこのキャラ、セレスタン・ラサーニュ。悪役令息、男だったよね?どこからどう見ても女の身体なんですが。上に無いはずのモノがあり、下にあるはずのアレが無いんですが!?どうなってんのよ!!?  1話目はシリアスな感じですが、最終的にはほのぼの目指します。  ずっと病弱だったが故に、目に映る全てのものが輝いて見えるセレスタン。自分が変われば世界も変わる、私は…自由だ!!!  主人公は最初のうちは卑屈だったりしますが、次第に前向きに成長します。それまで見守っていただければと!  愛され主人公のつもりですが、逆ハーレムはありません。逆ハー風味はある。男装主人公なので、側から見るとBLカップルです。  予告なく痛々しい、残酷な描写あり。  サブタイトルに◼️が付いている話はシリアスになりがち。  小説家になろうさんでも掲載しております。そっちのほうが先行公開中。後書きなんかで、ちょいちょいネタ挟んでます。よろしければご覧ください。  こちらでは僅かに加筆&話が増えてたりします。  本編完結。番外編を順次公開していきます。  最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

【完結】悪女を押し付けられていた第一王女は、愛する公爵に処刑されて幸せを得る

甘海そら
恋愛
第一王女、メアリ・ブラントは悪女だった。 家族から、あらゆる悪事の責任を押し付けられればそうなった。 国王の政務の怠慢。 母と妹の浪費。 兄の女癖の悪さによる乱行。 王家の汚点の全てを押し付けられてきた。 そんな彼女はついに望むのだった。 「どうか死なせて」 応える者は確かにあった。 「メアリ・ブラント。貴様の罪、もはや死をもって以外あがなうことは出来んぞ」 幼年からの想い人であるキシオン・シュラネス。 公爵にして法務卿である彼に死を請われればメアリは笑みを浮かべる。 そして、3日後。 彼女は処刑された。