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56.若気の至りなら
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自室で一人、せっせと書き物に励んでいたユーリは、ふとペンを止めた。机の上に広げられているのは、自分がこの世界に持ち込んだ刺繍のマニュアル本だ。表紙には大きく「一から始める刺繍の本」と書かれており、内容は刺繍用の針など刺繍道具、色々な刺繍について図解入りでわかりやすく書かれている。暇を持て余してこれらの翻訳を自主的に始めていた。
(……そういえば、あのハンカチ、すごく喜んでくれてたな)
思い出すのは、湖デートでフィルに渡した刺繍入りハンカチだ。初心者の拙い作品だったというのに、フィルは大袈裟なぐらいに喜び、勿体ないから使わないとさえ口にした。しまいには額に入れて飾るというので、さすがにそれは恥ずかし過ぎると死ぬ気で止めた。
「また何か作ってみようかな。刺繍もいいけど、定番のマフラーも……いや、鱗に引っかかりそうで怖いかも」
刺繍、かぎ針編み、棒針編み、タティングレース……我ながら節操なしに買ったもんだ、と自嘲する。家庭的な女と言われてカッとなって極端に走ってしまったが、元彼のあの発言は、もっと精神的なものを指していたのかもしれないと思うようになった。ダブルインカムでバリバリ働くような相手ではなく、主婦となり家庭を守る存在を求めていたのなら、最初からミスマッチだったのだろう。
(冷静に考えられるようになったのも、たぶん、フィルさんのおかげ……だよね)
初対面はなかなか酷いものだったが、今ではそれだけ必死だったんだと理解できる。理解できているからこそ、もういっそのこと彼に名を預けてしまってもいいと思っている。それでも踏ん切りがつかないのは――――
(私が臆病だから、だよね)
まだ自分の知らない『常識』が残っているんじゃないか、とか、もっとよく考えた方がいいんじゃないか、とか、考えればキリがない。せめてもっと若い頃なら、深く考えることなく疑うことなく目の前の美味しい話に飛びつけただろうに。自分だけと言ってくれる金も地位もある男性がいる。取り立てて美人でも有能でもない自分にそんなことを言うなんて、きっと裏があるんだろうと、どうしても考えてしまうのだ。
「……ユーリ様、そろそろフィル殿下とのお約束の時間ですが」
「あ、ありがとうございます!」
教えてくれた侍女に感謝して、慌てて机の上を片付けたユーリは、いそいそと中庭に向かう。今日は昼食こそ一緒にできなかったけれど、休憩時間にお茶をしようと言伝があったのだ。また邪魔が入らないようにと、いつもの中庭ではなく一室を用意するという所に、誰にも邪魔されたくないというフィルの本音が透けて見えた。
「部屋はどのあたりなんですか?」
「中庭が一望できる所だと伺っております」
侍女に先導され、ユーリは「上から眺めるのもまた素敵かも」と弾むような足取りで廊下を歩く。
「こちらでございます」
「失礼します……って、まだ、フィルさんは来ていないんですね」
部屋に入り、ぐるりと見回すがお茶と茶菓子がテーブルに用意されているだけで、彼の姿はない。仕事が推しているのかと考えた矢先、部屋の隅から小柄な人影が姿を現した。
「来てないよ。だって、呼んだのはあたしだし」
「……!」
透き通るような白い肌を隠すかのように真っ黒なローブを身につけたその人は、にっこりと無邪気な笑みを浮かべた。
「こんにちは、フィルの番ちゃん」
「どうして……」
フィルの誘いではなかったのかと侍女を振り返れば、どこかぼんやりとした表情の侍女が「それでは、わたくしはこれで」と辞去の挨拶を告げる。
「うん、お疲れ~。アンタはここで何も見なかったし、アンタはいつも通りお仕事をしていなよ。この番ちゃんの部屋を守るっていう仕事をね」
軽い口調で手を振るイングリッドに、ユーリは目を見開いた。思い出すのは、イングリッドが「魔女」と呼ばれていることと、王妃から「探究心の塊」と称されていたことだ。
(まさか、催眠とか洗脳とか、そういうこと?)
まずいと思って退室した侍女の後を追おうと動くが、何故か扉は開かなかった。
(……そういえば、あのハンカチ、すごく喜んでくれてたな)
思い出すのは、湖デートでフィルに渡した刺繍入りハンカチだ。初心者の拙い作品だったというのに、フィルは大袈裟なぐらいに喜び、勿体ないから使わないとさえ口にした。しまいには額に入れて飾るというので、さすがにそれは恥ずかし過ぎると死ぬ気で止めた。
「また何か作ってみようかな。刺繍もいいけど、定番のマフラーも……いや、鱗に引っかかりそうで怖いかも」
刺繍、かぎ針編み、棒針編み、タティングレース……我ながら節操なしに買ったもんだ、と自嘲する。家庭的な女と言われてカッとなって極端に走ってしまったが、元彼のあの発言は、もっと精神的なものを指していたのかもしれないと思うようになった。ダブルインカムでバリバリ働くような相手ではなく、主婦となり家庭を守る存在を求めていたのなら、最初からミスマッチだったのだろう。
(冷静に考えられるようになったのも、たぶん、フィルさんのおかげ……だよね)
初対面はなかなか酷いものだったが、今ではそれだけ必死だったんだと理解できる。理解できているからこそ、もういっそのこと彼に名を預けてしまってもいいと思っている。それでも踏ん切りがつかないのは――――
(私が臆病だから、だよね)
まだ自分の知らない『常識』が残っているんじゃないか、とか、もっとよく考えた方がいいんじゃないか、とか、考えればキリがない。せめてもっと若い頃なら、深く考えることなく疑うことなく目の前の美味しい話に飛びつけただろうに。自分だけと言ってくれる金も地位もある男性がいる。取り立てて美人でも有能でもない自分にそんなことを言うなんて、きっと裏があるんだろうと、どうしても考えてしまうのだ。
「……ユーリ様、そろそろフィル殿下とのお約束の時間ですが」
「あ、ありがとうございます!」
教えてくれた侍女に感謝して、慌てて机の上を片付けたユーリは、いそいそと中庭に向かう。今日は昼食こそ一緒にできなかったけれど、休憩時間にお茶をしようと言伝があったのだ。また邪魔が入らないようにと、いつもの中庭ではなく一室を用意するという所に、誰にも邪魔されたくないというフィルの本音が透けて見えた。
「部屋はどのあたりなんですか?」
「中庭が一望できる所だと伺っております」
侍女に先導され、ユーリは「上から眺めるのもまた素敵かも」と弾むような足取りで廊下を歩く。
「こちらでございます」
「失礼します……って、まだ、フィルさんは来ていないんですね」
部屋に入り、ぐるりと見回すがお茶と茶菓子がテーブルに用意されているだけで、彼の姿はない。仕事が推しているのかと考えた矢先、部屋の隅から小柄な人影が姿を現した。
「来てないよ。だって、呼んだのはあたしだし」
「……!」
透き通るような白い肌を隠すかのように真っ黒なローブを身につけたその人は、にっこりと無邪気な笑みを浮かべた。
「こんにちは、フィルの番ちゃん」
「どうして……」
フィルの誘いではなかったのかと侍女を振り返れば、どこかぼんやりとした表情の侍女が「それでは、わたくしはこれで」と辞去の挨拶を告げる。
「うん、お疲れ~。アンタはここで何も見なかったし、アンタはいつも通りお仕事をしていなよ。この番ちゃんの部屋を守るっていう仕事をね」
軽い口調で手を振るイングリッドに、ユーリは目を見開いた。思い出すのは、イングリッドが「魔女」と呼ばれていることと、王妃から「探究心の塊」と称されていたことだ。
(まさか、催眠とか洗脳とか、そういうこと?)
まずいと思って退室した侍女の後を追おうと動くが、何故か扉は開かなかった。
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