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九条雪子
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◆九条雪子
その日も、部室で無意味な時間を過ごしていた。今日は休講ではなく、サボっていた。その講義は抗議に出席しなくても単位をくれると聞いて、何だか一生懸命に講義を聞き、ノートをとるのが馬鹿らしくなってきたからだ。
三崎涼子に、「あんな煙草の煙の中で読書会をするなんて、考えただけでゾッとするわ」と言われた部屋で僕は文庫本を読んでいる。
今日は今度の読書会の課題の本、三島由紀夫の「美徳のよろめき」を読んでいる。
部室には他に、右系のドストエフスキー好きの中垣と、一回生の大人しい女の子、九条さんがいるだけだ。
この部には、三人の女性がいる。
三回生の佐伯さんは、天真爛漫な女性だ。面倒見もよい感じだ。
先日、珈琲館に同行した吉原さんは、少し謎めいているけれど、色々と勉強になりそうな発言をする人だ。
そして、今、テーブルを挟んで文庫本を開いている九条さんは、先輩の二人ともまた違うタイプだ。
部員の誰とも仲良くはないし、人付き合いも苦手らしく、飲み会にもあまり参加しない無口な少女だ。
その容姿だけを見ると、文学少女を絵に描いたような女の子だ。
僕は九条さんから借りていた遠藤周作の「沈黙」を返した。
「どうだった?」と訊かれたので、「面白かったよ。主人公の神父さんはもちろん凄いけれど、キチジローには、自分を重ねてしまったよ」と言った。
「でしょ、キチジローは、最初は悪い男に書かれているようだけど、あれが人間本来の姿だと思ったわ」九条さんはそう言った。
「沈黙」を読んだ者にしか分からない会話だが、部室内ではこんな会話も多々ある。
誰かが間に入ってくる場合が多いが、それぞれの世界に浸って割り込んで来ないこともある。
中垣は割り込まないタイプに属する。というか中垣は、自分の好きな本以外には興味を示さない男だ。それに加えて中垣は女の子にも興味がないようだ。それはどうかと思うが、彼なりのポリシーを持っているだろう。
その中垣が珍しく、僕の「美徳のよろめき」を横目で見て、
「三島由紀夫は。レーモンラディゲの影響を受けてるんだぜ」と言った。
ラディゲというのは「肉体の悪魔」や「ドルジェル伯の舞踏会」を書いたフランスの小説家だ。病で二十歳の短い生涯を閉じている。
「へえっ、そうなんだ」と僕は言った。
けれどそこから話が続かず中垣は自分の文庫本に戻った。中垣はこのパターンの話が多い。
中垣は、ドストエフスキーの「未成年」を読んでいる。
僕には理解できないが、中垣は、ドストエフスキーを読むといつも泣くらしい。それが全く分からない。僕は、「罪と罰」を読んでも泣きはしなかった。
中垣曰く、ドストエフスキーの心に自分の心を重ねるらしい。
すると、目の前にドストエフスキーの全身が現れるというのだ。
「俺は、現れた等身大のドストエフスキーといつも対話をしているんだ」中垣はそんなことを言っていた。
やっぱり僕には、中垣の心は理解できない。何かの病気としか思えない。
沈黙に徹していた中垣が、時計を見て、「あっ、次の講義の準備をしないと」と言って、「図書館に行ってくるよ」と言い残して出ていった。
すると、部室には僕と九条さんの二人きりになった。
少し気まずくなった僕、改めて九条さんに、
「九条さんは何を読んでいるの?」と訊いた。
すると彼女は、倉橋由美子の「パルタイ」の表紙を見せて、「全部読んで、面白かったら、北原くんに貸してあげるわ」と言った。
僕が「いつもありがとう」と返すと、それぞれ本に目を移し、静かな時間が流れた。
窓の外からブラスバンドの音や、女性コーラスの声、演劇部の掛け声が流れ込んできた。
すると、その喧騒を破るように、
「北原くん」と九条さんが呼んだ。
九条さんが僕をじっと見ている。真顔だ。
「何?」
九条さんは文庫本をそっと閉じて、
「少し、話していい?」と言った。
「かまわないけど」
九条さんは少しためらったような表情を見せた後、意を決したように、
「小山くんに聞いたのだけど」と前置して、
「三崎さんとお付き合いしているのは本当?」と訊いた。
吉原先輩にも似たようなことを訊かれたけれど、どうして女性はそんなことを知りたがるのだろう。
「つき合っているというより・・」どう答えていいか分からない。
「より・・?」九条さんは首を傾げた。
「三崎さんとは不思議な関係なんだ」とも言えない。
「いつも一緒にいる、というか、何となくというか」僕は言葉を濁した。
いわゆるお友達宣言、又は交際宣言のようなものは一切ない関係だ。でも手は繋いだし、キスもした。このままだとそれ以上の関係へと進むかもしれない。
けれど、そんなことは他人に言う必要はない。九条さんには関係のないことだ。
問答が途絶えると、九条さんは、少し大きめの声でこう言った。
「・・やめた方がいいと思うけど」
一瞬、九条さんが何を言ったのか、分からなかった。
「えっ、やめる、って・・何を?」僕は訊き直した。
「だから、三崎さんと一緒にいることよ」
その日も、部室で無意味な時間を過ごしていた。今日は休講ではなく、サボっていた。その講義は抗議に出席しなくても単位をくれると聞いて、何だか一生懸命に講義を聞き、ノートをとるのが馬鹿らしくなってきたからだ。
三崎涼子に、「あんな煙草の煙の中で読書会をするなんて、考えただけでゾッとするわ」と言われた部屋で僕は文庫本を読んでいる。
今日は今度の読書会の課題の本、三島由紀夫の「美徳のよろめき」を読んでいる。
部室には他に、右系のドストエフスキー好きの中垣と、一回生の大人しい女の子、九条さんがいるだけだ。
この部には、三人の女性がいる。
三回生の佐伯さんは、天真爛漫な女性だ。面倒見もよい感じだ。
先日、珈琲館に同行した吉原さんは、少し謎めいているけれど、色々と勉強になりそうな発言をする人だ。
そして、今、テーブルを挟んで文庫本を開いている九条さんは、先輩の二人ともまた違うタイプだ。
部員の誰とも仲良くはないし、人付き合いも苦手らしく、飲み会にもあまり参加しない無口な少女だ。
その容姿だけを見ると、文学少女を絵に描いたような女の子だ。
僕は九条さんから借りていた遠藤周作の「沈黙」を返した。
「どうだった?」と訊かれたので、「面白かったよ。主人公の神父さんはもちろん凄いけれど、キチジローには、自分を重ねてしまったよ」と言った。
「でしょ、キチジローは、最初は悪い男に書かれているようだけど、あれが人間本来の姿だと思ったわ」九条さんはそう言った。
「沈黙」を読んだ者にしか分からない会話だが、部室内ではこんな会話も多々ある。
誰かが間に入ってくる場合が多いが、それぞれの世界に浸って割り込んで来ないこともある。
中垣は割り込まないタイプに属する。というか中垣は、自分の好きな本以外には興味を示さない男だ。それに加えて中垣は女の子にも興味がないようだ。それはどうかと思うが、彼なりのポリシーを持っているだろう。
その中垣が珍しく、僕の「美徳のよろめき」を横目で見て、
「三島由紀夫は。レーモンラディゲの影響を受けてるんだぜ」と言った。
ラディゲというのは「肉体の悪魔」や「ドルジェル伯の舞踏会」を書いたフランスの小説家だ。病で二十歳の短い生涯を閉じている。
「へえっ、そうなんだ」と僕は言った。
けれどそこから話が続かず中垣は自分の文庫本に戻った。中垣はこのパターンの話が多い。
中垣は、ドストエフスキーの「未成年」を読んでいる。
僕には理解できないが、中垣は、ドストエフスキーを読むといつも泣くらしい。それが全く分からない。僕は、「罪と罰」を読んでも泣きはしなかった。
中垣曰く、ドストエフスキーの心に自分の心を重ねるらしい。
すると、目の前にドストエフスキーの全身が現れるというのだ。
「俺は、現れた等身大のドストエフスキーといつも対話をしているんだ」中垣はそんなことを言っていた。
やっぱり僕には、中垣の心は理解できない。何かの病気としか思えない。
沈黙に徹していた中垣が、時計を見て、「あっ、次の講義の準備をしないと」と言って、「図書館に行ってくるよ」と言い残して出ていった。
すると、部室には僕と九条さんの二人きりになった。
少し気まずくなった僕、改めて九条さんに、
「九条さんは何を読んでいるの?」と訊いた。
すると彼女は、倉橋由美子の「パルタイ」の表紙を見せて、「全部読んで、面白かったら、北原くんに貸してあげるわ」と言った。
僕が「いつもありがとう」と返すと、それぞれ本に目を移し、静かな時間が流れた。
窓の外からブラスバンドの音や、女性コーラスの声、演劇部の掛け声が流れ込んできた。
すると、その喧騒を破るように、
「北原くん」と九条さんが呼んだ。
九条さんが僕をじっと見ている。真顔だ。
「何?」
九条さんは文庫本をそっと閉じて、
「少し、話していい?」と言った。
「かまわないけど」
九条さんは少しためらったような表情を見せた後、意を決したように、
「小山くんに聞いたのだけど」と前置して、
「三崎さんとお付き合いしているのは本当?」と訊いた。
吉原先輩にも似たようなことを訊かれたけれど、どうして女性はそんなことを知りたがるのだろう。
「つき合っているというより・・」どう答えていいか分からない。
「より・・?」九条さんは首を傾げた。
「三崎さんとは不思議な関係なんだ」とも言えない。
「いつも一緒にいる、というか、何となくというか」僕は言葉を濁した。
いわゆるお友達宣言、又は交際宣言のようなものは一切ない関係だ。でも手は繋いだし、キスもした。このままだとそれ以上の関係へと進むかもしれない。
けれど、そんなことは他人に言う必要はない。九条さんには関係のないことだ。
問答が途絶えると、九条さんは、少し大きめの声でこう言った。
「・・やめた方がいいと思うけど」
一瞬、九条さんが何を言ったのか、分からなかった。
「えっ、やめる、って・・何を?」僕は訊き直した。
「だから、三崎さんと一緒にいることよ」
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