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第49話 転院

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 母は国立のリハビリセンターという回復期を専門とする病院に転院した。このセンターは常時、満床状態でよほどのツテがないと簡単には転院できない。順番待ちなのであるが、何故かすんなりと転院できてしまった。

 広い敷地に建つ病院のフロント・ヤードは駐車場として規則正しく整備されていて、病院というよりもマンションのように見える。ただ、一文字づつ分けられて掲げられている看板だけが、紛れもなく病院である事を教えてくれていた。

非常に静かな場所で、西武線の最寄駅から徒歩圏内なのだが住宅がない事、ショッピングセンターがないので、このリハビリ専門病院に用がある者だけがここにいる。

 母に用意されていた病室は二人部屋で、先に入院されている方も母と同年代らしく「よろしくね。」と笑顔で挨拶されたが、言葉を失っている母にできる事は、やはり笑顔で会釈を返すだけであった。

 母に代わって私が事情を話し、母が失語症である事を説明すると同室のこの女性は自らに降りかかった災難を語りはじめた。

 「私はねぇ、もうすぐここにきて二ヶ月くらいになると思う。トラックに跳ね飛ばされたらしいの。自分では全く覚えていないものだから、なにも感じていないんだけれど主人に言わせると、ものすごく酷い状態が続いて諦めていたって言うのよ。」

母と同じ年代ならば六十歳代の中頃であろうと予測できる女性は笑い顔を作って話されたが、確かに頭部には長い傷跡があり、髪をすくうと生々しい事故の痕跡が見て取れた。

そして「この人は復帰を目指してリハビリセンターに来た。母はこの先、いったい何を目指せば良いのだろうか。」という漠然とした不安が私の脳裏に生まれてしまった。

 当時は今と違ってWEBサイトで検索し、自己満足を得られる時代ではなかったので、わずかばかりの私のツテを辿って言語障害者専門のリハビリ・トレーナーという職種がある事を知った。この、今いる病院にも在籍している事も教えてもらえた。

 言語障害者専門リハビリ・トレーナーを略してSTという。正式名称は言語・聴覚士といい、スピーチ・セラピストともいう。

 担当医にお願いして、このSTの方に会わせてもらい今後、母がどうなっていくのかを教えていただいた。
母の脳は言語野といわれるウエルニッケが虚血により死滅していて言葉自体は理解できているものの返答に対して、どの言葉を使えば良いのかが判らないそうだ。

頭の中にはものすごい数の『引き出し』があり、どこの引き出しに、どの言葉が仕舞われているのか、会話を交わすたびに出し入れしている。

例えば『オトコ』という言葉は一番奥の上から二段目、『オンナ』はその下の段にある。この単語の仕舞ってある場所が判らなくなるのである。

 単語化されている言葉の検索を頭の中で素早くできるようになるには相当の努力と時間が必要らしいが、母がもとのように戻れる可能性は限りなく0と言われた。

 そして、もっとも気がかりなことは脳梗塞の後遺症に鬱病があることだった。

母は小綺麗な人である。白髪も丁寧に染めて、ちょっとだけ薄くなってしまった頭頂部にはウィックを乗せて覆っていた。それに、人付き合いが良い、良すぎるというより面倒見が良すぎた。

 「そういえば、かあちゃんが倒れた日って代わりに誰がパートに入ったんだろうね。」

 母は倒れる二日前まで仕事をしていた。駅前のスーパーマーケットに入っているテナントでお茶と和菓子の販売をしていた。確か三人でローテションするひとり勤務だったはずだ。

突然、まったく連絡を入れずに長期欠勤している事態に気が付くまで1ヶ月以上も経っていた。
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