7 / 10
フォーグラフ夫妻の日常
しおりを挟む
ハリーがクラリスと結婚して一か月が過ぎた。
懸念事項だったラッセル・レイン子爵だが、ウォルト・アンダーソン子爵の元に返事が届いたそうだ。ウォルトが業務提携の凍結も示唆したせいかもしれないが、ラッセルは引き下がったらしい。まあ、クラリスは再婚してしまっているし、ラッセルとの間には口約束すらないのだから、引き下がるしかないだろう。
オーガスト夫人はクラリスが納得させてくれた。もちろん改めて二人で挨拶に行ったが、その際には祝福してくれた。「わたくしの縁談は断ったくせに」などと、多少嫌味混じりではあったけれど。
今日は休日だ。
事務所の定休は、依頼人の特別な事情がない限りは暦通りだった。
結婚して最初の休みに書斎に引きこもったハリーに対して、「休日は居間で過ごすこと」とクラリスが宣言し、以降はそれを守っている。
ハリーは一人がけの椅子で最新の論文集を読み、クラリスはソファで刺繍をしていた。
暖炉の上にはアイリスの花が活けられた花瓶。そして壁には結婚記念の写真が飾られている。
ちょっとした違いなのに、部屋の雰囲気がずいぶん変わったような気がする。
外は雨が降っている。テラスの向こうの庭が煙っていた。
晴れていたら一緒に出掛けても良かったのに。
そんな風に考えて、自嘲する。
今までの結婚では、相手から誘われない限りは思いつきもしなかった。だから離婚する結果になったのだろう。
――先日のことだ。
打ち合わせが長引き、予定していた帰宅時間に遅れそうになった。
クラリスに怒られるかな、と考えると自然に視線が指輪にいってしまう。
それを見た秘書のドリスが笑ったのだ。
「今度の結婚はうまくいきそうですね」
「え?」
「前の奥様のときは、所長は全然指輪を確認していませんでしたよ」
確かに自分では気づかなくて、ドリスに「色が変わっていませんか」と指摘されたのだった。
一度目も二度目の相手の心変わりが原因だったから、自分に落ち度はないつもりでいた。「俺も悪かった」とは口にしたけれど、心底思っていたわけではなかった。
本当に自分も悪かったのだと今ならわかる。ことあるごとに言い訳に使った「自分は家庭に向かない」は、とても深刻な欠陥だった。ハリーは遅まきながら反省した。
「どうかした?」
ぼーっと見ていたせいか、クラリスが顔を上げた。
「いや、刺繍するんだなと思って」
適当にごまかすと、クラリスは微笑む。
「これでも貴族夫人だったのよ」
彼女は元子爵夫人で、自分は元平民で爵位も最下位だ。百年ほど前なら貴賤結婚だと非難されてもおかしくなかった。
「実家だと領地の教会を支援していて、そこにバザー用に寄付していたのだけれど、フォーグラフ家は決まった教会があるかしら?」
「いや、特にはない。定期的な寄付は、魔術師協会の魔術科生向けの奨学金制度だけだ。俺が世話になったからな」
「魔術師協会にバザーはないわよね。……王都なら中央教会が定番かしら。私の方で探してみて構わない?」
「もちろん、好きにしてくれ」
クラリスに軽く睨まれて、ハリーは言い直す。
「君に任せるよ」
クラリスは満足気に微笑んで、視線を窓に移す。
「よく降るわね」
「今度の休みに晴れたら、どこかに出かけないか?」
「いいわね。どこに行くの?」
「君は? 行きたい場所はない?」
クラリスはハリーに視線を向けて、少し考えて、
「応接間に飾る絵画か置物を買いたいわね。……あとは、魔術陣用の石板を買いに行きたいわ」
「石板?」
「ええ。また勉強し直そうかと思って。……魔術科時代に使っていたものは、卒業のときに寄付してしまったの」
クラリスは目を伏せる。
「平日、けっこう暇なのよ。家政ってほどの仕事はないし、家事は私には無理ね。社交もないし、領地経営の手伝いもない。……ねぇ、前の奥様方は何をしていたの?」
「え? うーん……俺はよく知らない……」
首を傾げると呆れた目を向けられた。
「ああ! 最初の相手は昼食を届けてくれていたかな」
それで事務所の秘書と恋仲になった。
「次の相手は茶会や夜会にも出ていたと思う」
それで別の男と恋に落ちたのだが。
「君も自由に出かけてくれて構わないよ」
間に挟んだ心の声が聞こえていたのか、クラリスは「私はもうこれ以上恋には落ちないわ」と左手の指輪を撫でた。
「せっかく魔術科を卒業したのだから、魔術師として働くのもいいかと思ったの」
「ああ、いいね」
卒業時の成績は、一位のハリー、二位のブラッドに次ぐ三位だったクラリスだ。王立魔術院からもスカウトが来ていたのに、振り切って結婚したのだ。魔術第一の魔術師たちには理解できない所業だったらしく、今でも伝説となっている。
「どうせなら魔術契約士の国家資格を取って、うちの事務所で働かないか?」
「そうね。考えてみるわ」
合格率が一割を切る試験なのに、クラリスはあっさりとうなずく。
対等に話ができるのが楽しい。
クラリスは自立している。ハリーがいてもいなくても生活が変わらなそうな様子に安心する。
彼女がハリーに余計な気を使わないから、ハリーも気を使わないでいられる。一緒にいても負担にならない距離感がちょうど良かった。
クラリスとの『都合のいい結婚』は、これ以上ない結婚だった。
このままずっと暮らしていきたい。
結婚して長い先のことを想像したのは初めてだった。
懸念事項だったラッセル・レイン子爵だが、ウォルト・アンダーソン子爵の元に返事が届いたそうだ。ウォルトが業務提携の凍結も示唆したせいかもしれないが、ラッセルは引き下がったらしい。まあ、クラリスは再婚してしまっているし、ラッセルとの間には口約束すらないのだから、引き下がるしかないだろう。
オーガスト夫人はクラリスが納得させてくれた。もちろん改めて二人で挨拶に行ったが、その際には祝福してくれた。「わたくしの縁談は断ったくせに」などと、多少嫌味混じりではあったけれど。
今日は休日だ。
事務所の定休は、依頼人の特別な事情がない限りは暦通りだった。
結婚して最初の休みに書斎に引きこもったハリーに対して、「休日は居間で過ごすこと」とクラリスが宣言し、以降はそれを守っている。
ハリーは一人がけの椅子で最新の論文集を読み、クラリスはソファで刺繍をしていた。
暖炉の上にはアイリスの花が活けられた花瓶。そして壁には結婚記念の写真が飾られている。
ちょっとした違いなのに、部屋の雰囲気がずいぶん変わったような気がする。
外は雨が降っている。テラスの向こうの庭が煙っていた。
晴れていたら一緒に出掛けても良かったのに。
そんな風に考えて、自嘲する。
今までの結婚では、相手から誘われない限りは思いつきもしなかった。だから離婚する結果になったのだろう。
――先日のことだ。
打ち合わせが長引き、予定していた帰宅時間に遅れそうになった。
クラリスに怒られるかな、と考えると自然に視線が指輪にいってしまう。
それを見た秘書のドリスが笑ったのだ。
「今度の結婚はうまくいきそうですね」
「え?」
「前の奥様のときは、所長は全然指輪を確認していませんでしたよ」
確かに自分では気づかなくて、ドリスに「色が変わっていませんか」と指摘されたのだった。
一度目も二度目の相手の心変わりが原因だったから、自分に落ち度はないつもりでいた。「俺も悪かった」とは口にしたけれど、心底思っていたわけではなかった。
本当に自分も悪かったのだと今ならわかる。ことあるごとに言い訳に使った「自分は家庭に向かない」は、とても深刻な欠陥だった。ハリーは遅まきながら反省した。
「どうかした?」
ぼーっと見ていたせいか、クラリスが顔を上げた。
「いや、刺繍するんだなと思って」
適当にごまかすと、クラリスは微笑む。
「これでも貴族夫人だったのよ」
彼女は元子爵夫人で、自分は元平民で爵位も最下位だ。百年ほど前なら貴賤結婚だと非難されてもおかしくなかった。
「実家だと領地の教会を支援していて、そこにバザー用に寄付していたのだけれど、フォーグラフ家は決まった教会があるかしら?」
「いや、特にはない。定期的な寄付は、魔術師協会の魔術科生向けの奨学金制度だけだ。俺が世話になったからな」
「魔術師協会にバザーはないわよね。……王都なら中央教会が定番かしら。私の方で探してみて構わない?」
「もちろん、好きにしてくれ」
クラリスに軽く睨まれて、ハリーは言い直す。
「君に任せるよ」
クラリスは満足気に微笑んで、視線を窓に移す。
「よく降るわね」
「今度の休みに晴れたら、どこかに出かけないか?」
「いいわね。どこに行くの?」
「君は? 行きたい場所はない?」
クラリスはハリーに視線を向けて、少し考えて、
「応接間に飾る絵画か置物を買いたいわね。……あとは、魔術陣用の石板を買いに行きたいわ」
「石板?」
「ええ。また勉強し直そうかと思って。……魔術科時代に使っていたものは、卒業のときに寄付してしまったの」
クラリスは目を伏せる。
「平日、けっこう暇なのよ。家政ってほどの仕事はないし、家事は私には無理ね。社交もないし、領地経営の手伝いもない。……ねぇ、前の奥様方は何をしていたの?」
「え? うーん……俺はよく知らない……」
首を傾げると呆れた目を向けられた。
「ああ! 最初の相手は昼食を届けてくれていたかな」
それで事務所の秘書と恋仲になった。
「次の相手は茶会や夜会にも出ていたと思う」
それで別の男と恋に落ちたのだが。
「君も自由に出かけてくれて構わないよ」
間に挟んだ心の声が聞こえていたのか、クラリスは「私はもうこれ以上恋には落ちないわ」と左手の指輪を撫でた。
「せっかく魔術科を卒業したのだから、魔術師として働くのもいいかと思ったの」
「ああ、いいね」
卒業時の成績は、一位のハリー、二位のブラッドに次ぐ三位だったクラリスだ。王立魔術院からもスカウトが来ていたのに、振り切って結婚したのだ。魔術第一の魔術師たちには理解できない所業だったらしく、今でも伝説となっている。
「どうせなら魔術契約士の国家資格を取って、うちの事務所で働かないか?」
「そうね。考えてみるわ」
合格率が一割を切る試験なのに、クラリスはあっさりとうなずく。
対等に話ができるのが楽しい。
クラリスは自立している。ハリーがいてもいなくても生活が変わらなそうな様子に安心する。
彼女がハリーに余計な気を使わないから、ハリーも気を使わないでいられる。一緒にいても負担にならない距離感がちょうど良かった。
クラリスとの『都合のいい結婚』は、これ以上ない結婚だった。
このままずっと暮らしていきたい。
結婚して長い先のことを想像したのは初めてだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
82
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる