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第三章 転
思い内にあれば色外に現る
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ぱちぱち。ぱちぱち。ぱちぱちぱちぱち。
大急ぎでまばたきしてみたけれど、こみあげてくる水分の方が多くて、蒸発が間に合わない。あ、と思った時には、ぽろりぽろりと眦から涙が転げ落ちてしまった。
私は慌ててうつむいて、涙を拭こうとして、自分ががっちり八島さんの手を握っていることに気付いた。
「すすすすすみませんっ」
ひーっとなりながら、勢いよく手を引っ込めようとした。……だけど、できなかった。するっと動いた八島さんの手が、あの一瞬でどうやったのか、逆に私の両手を握りしめ返していたのだ。
頭の上に影がさす。何かと顔をあげれば、いくらか首を傾げた八島さんの顔が至近距離にあって、あまりの近さに、うわぁぁぁぁぁと狼狽えて、思考も体も停止した。すみやかに近づいてくる彼の顔を、呆然と眺める。
なんてきれいな肌だろう。現実とは遊離した頭の片隅で、そんなことを思う。すべすべでソバカス一つない。それに、睫毛が長い。それが目元に影を作るから色っぽいのかと、気付いて感心した。形のいい鼻に、芸術的な曲線を描く唇。柔らかそうで、官能的で、目を離せなくなる……。
その唇が、近づいて、近づいて、近づいてきて、ほっぺたに触れる! と思ったところで、身をすくめて目をつぶった。
きっと、渇いた柔らかいものが押し付けられるのだろう。そう思った。指を彼の唇で食まれたくすぐったい感覚を思い出し、ものすごく恥ずかしくなった。
温かく柔らかいものが、そっと触れてくる。それが、なぜか濡れた感覚をともなって、ゆっくり肌の上を這っていく。それが間違いじゃなかったのを示すように、離れていった後は、肌がひんやりとして。
思いもよらない感覚に、目をあけた。八島さんの薄く開いた唇が左から右へと目の前数センチの距離を横切っていき、ピンク色の舌が見えたと思ったら、今度は右の頬を、……ぺろーりと舐められた。
「なっ、なにっ、してっ、」
驚きのあまり、ちゃんとした言葉になって出てこない。
舌を引っ込めたばかりの八島さんが、吐息のかかりそうな場所で見下ろしてきた。
「ああ。これは失礼いたしました。私としたことが、つい」
つい!? つい、で人のほっぺたを舐めるんですか!?
私はまた、泣いちゃったから、ちゅっとして慰めてくれるんだと思ってたよ!! ほら、映画や小説の中で、そういうシーンがあるでしょう? 涙の跡にキスしてくれるって。何をやっても一流で、無自覚無意識自然体で口説き魔な八島さんのことだから、そういうやり方も不思議じゃないかなって。
だけど、舐めるって。舐めるって、
「なんで、な、舐め、な、……っ」
痛っ。動揺しちゃって、舌噛んじゃったよ!
「大丈夫でいらっしゃいますか?」
今度は私の口の方へと意識を持っていく八島さんに、私は力いっぱいわめいた。
「大丈夫です!」
「ですが、ずいぶん痛そうにしていらっしゃいましたが」
「舐めてくれなくてもけっこうです!」
「いえ、お薬を」
うぎゃーーーーーーーっっっっ。
私は自分の自意識過剰な反応に、一瞬にして赤面した。
もうやだ、この人。男性に口説かれた経験に乏しい私には、身の毒すぎる! 羞恥で死ねる、いや、死ぬ、いっそ死んでしまいたい、うわーん、恥ずかしーっっ!!
今度は本気で羞恥で涙が出てきた。自分の手に視線を落として、八島さんから逃れようと、ぐいっぐいっとひっぱってみるけど、ぜんぜんちっとも取り出せない。
涙声を出すのも嫌で、離してくれとも言えなくて、無言で一人で悪戦苦闘していたら、はあ、とも、ほう、ともつかない、なんだか色っぽい吐息が聞こえてきた。
「舐められるのは、お嫌ですか?」
「は?」
何を言ってるんだ、この人は。
私は怪訝さ丸出しで彼を見上げた。
「お嫌なんですね」
心なし悲しそうに見つめられる。それに私は、ぐっときた。私はこの顔に弱い。そう、出会いの時から、八島さんの憂い顔には、母性本能を鷲掴みにされるのだ。条件反射的に、慰めの言葉が口からでてきてしまう。
「嫌っていうか、」
そこで理性が戻ってきた。いやいやいやいや、ダメダメ、ここで負けたら、またべろーりとされる。それが嫌かっていうと、そうでもないけど、って、ちがうちがうちがうっ、だって、なんか変でしょ、それはっ。なんで時々ほっぺた舐められなきゃいけないの、執事さんに!
「嫌っていうか?」
いつまでも中途半端に黙っている私に、鸚鵡返しに八島さんは問い返してきた。
「そ、その、びっくりするっていうか」
私は正直に答えてしまった。八島さんは憂い顔を少しほどいて、数秒考え込んでから、また尋ねてきた。
「では、おことわりしてからなら良いですか?」
「なんでそうなるの!?」
私は我を忘れて全力でツッコんだ。舐めてもいいですかって、いちいち聞くっていうの、本気なの!?
でも、冗談を言ってる表情じゃないのは、見ればわかった。八島さんはどこまでも真剣だ。真面目にお伺いをたてているのである。
何がこの人をこんな妙なことにそこまで駆り立てるのか、知っておいた方がいいのか、知らぬが仏なのか、私は束の間考え込んだ。
が、その逡巡は、八島さんの次の言で不要になった。
「なぜ、でしょうか。千世様があまりにお可愛らしいことをされると、齧ってみたくなるのです」
「齧る?」
「はい。私には食欲というものは備わっていないはずなのですが、千世様を食べてしまいたくなります。いえ、もちろんそんなことはいたしませんが。食べてしまったら、千世様はいなくなってしまわれますから」
……うーんと、えーと。
「食べるかわりに、味見してる、と?」
「はあ、まあ、そうなるのでしょうか」
八島さんにしては珍しく、自信なさそうに首を傾げた。
私は重要なことを思い出した。そういえば、八島さん、人じゃなかったんだった……っ。
「『 』って、もしかして、人を食べるんですか?」
再びぐいぐいと手を取り戻そうとしながら、怖いけど、聞いてみる。手が抜けたからって、運動能力が桁違いすぎる八島さんから逃げられるかは疑問だったけれど、そうせずにはいられなかった。
「いいえ。我々には食欲というものはありません。主から生気をいただきますので、摂食によって物質を補給する必要がないのです」
「じゃあ、なんで」
「さあ、なぜなのでしょう。よくわかりません」
八島さんは、にこっとした。爽やかな笑顔だ。だけど、手が、手が抜けないって、それはつまり、逃がしたくない、まだ食べたいって思ってるってことだよね!!
「ああ、お可愛らしい」
八島さんは、うっとりと笑った。
「舐……」
「だめです! お断りです!」
「……さようですか。残念です」
出たっ、眼福にもほどがある色男の憂い顔! その顔には、絆されないよ! 絶対絆されたりしないからね!
「次! 次のお部屋の案内をお願いします!!」
彼の興味を他へ向けるべく、私は必死で叫んだ。
「かしこまりました」
八島さんはそれ以上執着することもなく、何事もなかったかのように軽く頭を下げて、私の手を引いて立ち上がった。
大急ぎでまばたきしてみたけれど、こみあげてくる水分の方が多くて、蒸発が間に合わない。あ、と思った時には、ぽろりぽろりと眦から涙が転げ落ちてしまった。
私は慌ててうつむいて、涙を拭こうとして、自分ががっちり八島さんの手を握っていることに気付いた。
「すすすすすみませんっ」
ひーっとなりながら、勢いよく手を引っ込めようとした。……だけど、できなかった。するっと動いた八島さんの手が、あの一瞬でどうやったのか、逆に私の両手を握りしめ返していたのだ。
頭の上に影がさす。何かと顔をあげれば、いくらか首を傾げた八島さんの顔が至近距離にあって、あまりの近さに、うわぁぁぁぁぁと狼狽えて、思考も体も停止した。すみやかに近づいてくる彼の顔を、呆然と眺める。
なんてきれいな肌だろう。現実とは遊離した頭の片隅で、そんなことを思う。すべすべでソバカス一つない。それに、睫毛が長い。それが目元に影を作るから色っぽいのかと、気付いて感心した。形のいい鼻に、芸術的な曲線を描く唇。柔らかそうで、官能的で、目を離せなくなる……。
その唇が、近づいて、近づいて、近づいてきて、ほっぺたに触れる! と思ったところで、身をすくめて目をつぶった。
きっと、渇いた柔らかいものが押し付けられるのだろう。そう思った。指を彼の唇で食まれたくすぐったい感覚を思い出し、ものすごく恥ずかしくなった。
温かく柔らかいものが、そっと触れてくる。それが、なぜか濡れた感覚をともなって、ゆっくり肌の上を這っていく。それが間違いじゃなかったのを示すように、離れていった後は、肌がひんやりとして。
思いもよらない感覚に、目をあけた。八島さんの薄く開いた唇が左から右へと目の前数センチの距離を横切っていき、ピンク色の舌が見えたと思ったら、今度は右の頬を、……ぺろーりと舐められた。
「なっ、なにっ、してっ、」
驚きのあまり、ちゃんとした言葉になって出てこない。
舌を引っ込めたばかりの八島さんが、吐息のかかりそうな場所で見下ろしてきた。
「ああ。これは失礼いたしました。私としたことが、つい」
つい!? つい、で人のほっぺたを舐めるんですか!?
私はまた、泣いちゃったから、ちゅっとして慰めてくれるんだと思ってたよ!! ほら、映画や小説の中で、そういうシーンがあるでしょう? 涙の跡にキスしてくれるって。何をやっても一流で、無自覚無意識自然体で口説き魔な八島さんのことだから、そういうやり方も不思議じゃないかなって。
だけど、舐めるって。舐めるって、
「なんで、な、舐め、な、……っ」
痛っ。動揺しちゃって、舌噛んじゃったよ!
「大丈夫でいらっしゃいますか?」
今度は私の口の方へと意識を持っていく八島さんに、私は力いっぱいわめいた。
「大丈夫です!」
「ですが、ずいぶん痛そうにしていらっしゃいましたが」
「舐めてくれなくてもけっこうです!」
「いえ、お薬を」
うぎゃーーーーーーーっっっっ。
私は自分の自意識過剰な反応に、一瞬にして赤面した。
もうやだ、この人。男性に口説かれた経験に乏しい私には、身の毒すぎる! 羞恥で死ねる、いや、死ぬ、いっそ死んでしまいたい、うわーん、恥ずかしーっっ!!
今度は本気で羞恥で涙が出てきた。自分の手に視線を落として、八島さんから逃れようと、ぐいっぐいっとひっぱってみるけど、ぜんぜんちっとも取り出せない。
涙声を出すのも嫌で、離してくれとも言えなくて、無言で一人で悪戦苦闘していたら、はあ、とも、ほう、ともつかない、なんだか色っぽい吐息が聞こえてきた。
「舐められるのは、お嫌ですか?」
「は?」
何を言ってるんだ、この人は。
私は怪訝さ丸出しで彼を見上げた。
「お嫌なんですね」
心なし悲しそうに見つめられる。それに私は、ぐっときた。私はこの顔に弱い。そう、出会いの時から、八島さんの憂い顔には、母性本能を鷲掴みにされるのだ。条件反射的に、慰めの言葉が口からでてきてしまう。
「嫌っていうか、」
そこで理性が戻ってきた。いやいやいやいや、ダメダメ、ここで負けたら、またべろーりとされる。それが嫌かっていうと、そうでもないけど、って、ちがうちがうちがうっ、だって、なんか変でしょ、それはっ。なんで時々ほっぺた舐められなきゃいけないの、執事さんに!
「嫌っていうか?」
いつまでも中途半端に黙っている私に、鸚鵡返しに八島さんは問い返してきた。
「そ、その、びっくりするっていうか」
私は正直に答えてしまった。八島さんは憂い顔を少しほどいて、数秒考え込んでから、また尋ねてきた。
「では、おことわりしてからなら良いですか?」
「なんでそうなるの!?」
私は我を忘れて全力でツッコんだ。舐めてもいいですかって、いちいち聞くっていうの、本気なの!?
でも、冗談を言ってる表情じゃないのは、見ればわかった。八島さんはどこまでも真剣だ。真面目にお伺いをたてているのである。
何がこの人をこんな妙なことにそこまで駆り立てるのか、知っておいた方がいいのか、知らぬが仏なのか、私は束の間考え込んだ。
が、その逡巡は、八島さんの次の言で不要になった。
「なぜ、でしょうか。千世様があまりにお可愛らしいことをされると、齧ってみたくなるのです」
「齧る?」
「はい。私には食欲というものは備わっていないはずなのですが、千世様を食べてしまいたくなります。いえ、もちろんそんなことはいたしませんが。食べてしまったら、千世様はいなくなってしまわれますから」
……うーんと、えーと。
「食べるかわりに、味見してる、と?」
「はあ、まあ、そうなるのでしょうか」
八島さんにしては珍しく、自信なさそうに首を傾げた。
私は重要なことを思い出した。そういえば、八島さん、人じゃなかったんだった……っ。
「『 』って、もしかして、人を食べるんですか?」
再びぐいぐいと手を取り戻そうとしながら、怖いけど、聞いてみる。手が抜けたからって、運動能力が桁違いすぎる八島さんから逃げられるかは疑問だったけれど、そうせずにはいられなかった。
「いいえ。我々には食欲というものはありません。主から生気をいただきますので、摂食によって物質を補給する必要がないのです」
「じゃあ、なんで」
「さあ、なぜなのでしょう。よくわかりません」
八島さんは、にこっとした。爽やかな笑顔だ。だけど、手が、手が抜けないって、それはつまり、逃がしたくない、まだ食べたいって思ってるってことだよね!!
「ああ、お可愛らしい」
八島さんは、うっとりと笑った。
「舐……」
「だめです! お断りです!」
「……さようですか。残念です」
出たっ、眼福にもほどがある色男の憂い顔! その顔には、絆されないよ! 絶対絆されたりしないからね!
「次! 次のお部屋の案内をお願いします!!」
彼の興味を他へ向けるべく、私は必死で叫んだ。
「かしこまりました」
八島さんはそれ以上執着することもなく、何事もなかったかのように軽く頭を下げて、私の手を引いて立ち上がった。
応援ありがとうございます!
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