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28 父との再会
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サヴァチエ伯爵家の階段をあがる時、ルーカスはまるで私が姫か王妃かというような恭しさで手を取りエスコートしてくれた。
父の寝室は既に墓地のように静まり返っている。
私の知らない医者が付き添い、正妻──セレスティーヌの母親がベッドに縋りついていた。
「……っ」
父は死ぬと、悟る。
もう死に向かい、こちら側へ振り返ることはないのだと。
「……」
ルーカスが強く私の手を握った。
「ルーカス様の御友人マルクリー卿がおいでです」
使用人の取次の後、マーカスが短い挨拶を正妻の背中にかけた。その声には深い労わりが込められていた。
「……ありがとうございます。娘は元気ですか?」
正妻がふり向いた。
げっそりと痩せこけて、自分も病気のような顔をしている。
ベールの下からその顔を見て、夫人の言った、愛しているからきちんと看病しているという現実を受け止める。
この人は、きっと、病床の父に対してはよくしてくれたのだろう。
「ああ……! ごめんなさいっ」
「!?」
正妻が突如泣き崩れた。
それからベッドではなく父に覆いかぶさり、祈るように続ける。
「あなたの愛する娘イリスが来てくれました……っ、どうか、目を覚ましてください……!」
「……」
ベールごときでは、何も隠せなかった。
私はベールを帽子の留金に当てて顔を出すと、静かにベッドに歩み寄る。
父は生きている。
けれどもう、死人の顔をしている。
「……っ」
ただ悲しくて。
愛された日々、微笑みの一つ一つ、優しい声。それが嵐のように蘇り、私は泣きじゃくった。
「こちらへ来て……話しかけてあげて……」
正妻が身を起こして数歩下がる。
私は数歩進んで、父を見下ろして、それから崩れ落ちるように跪いた。
骨ばった冷たい手を強く握っても、父はもう微笑まない。
「お父様……ッ」
話しかけるなんて、できない。
もう父の耳には届かない。
私はなんて酷い娘だっただろうかと悔やんだ。
既に死体のような父の手を握り、父のために、今この時に父のために祈る。
痛みや苦しみがあるなら、少しでも取り除いてください。
いい夢を見ているなら、どうか奪わないでください。
そしてどうか、ほんの少しでもいいから、私の事を思い出して……
「たまに、目を覚ます事もありますよ」
医者がそっと声を掛けてくる。
それが善意だとわかったけれど、私は一瞬でも父から目を離せない。
長い時間、父の傍で跪いていた。
嗚咽が落ち着き、ただ涙だけが溢れて止まらないくらいになると、すっと頭が冴えて来た。
もし、目を覚ます事で父が少しでも苦しむなら、私のためには目覚めないでほしい。母の夢を見ているなら、それがいちばんいい。
「ありがとうございます、マルクリー卿。娘を見つけてくださって」
正妻の声がした。
昔から、父のために私に気を遣う人だった。
ただセレスティーヌを産み、私の産みの母を憎み続ける人でもある。
けれどそれは、死にゆく父の前ではもうどうでもいい。
向こうにとってもお互い様よね。
「もしその子さえよければ、最期の時も傍に……いるために、しばらくここで暮らしては頂けないものでしょうか……?」
「……」
ルーカスは答えなかった。
私が決める事だと思ってくれたからだ。
私さえよければ?
元々、私はここで暮らしていた。
最後の時も傍にいるために?
父が、私が傍にいれば目覚めそうだから?
私の気持ちなんて何一つ考えてはいない。
でも、だから何?
「お父様の……傍にいます」
私が声を絞り出すと、すぐにルーカスが動き出した。
「父娘二人きりに」
「ええ……」
医者は席を外さなかった。
私は病状や、痛みや苦しみの程度、私にできる事は何かなどを尋ねた。
すっかり夜になって、使用人が夕食を報せる。
今日明日の命ではないと医者が言うので、ルーカスも待たせているし、私は一度、父の寝室から出てもいいような気がした。
「お父様。また、あとで」
手を撫で擦り、話しかける。
たとえわからなくても、言葉を返してくれなくても、私は父に微笑みかけて立ち上がった。名残惜しくても、悔しくても、もう覚悟が必要な時期なのだという事は認めるしかないのだ。
医者が戸口で待ってくれたので、私は一歩、ベッドから離れた。
その時。
「……!」
視界の隅で、父の手が、ゆっくり、上がった。
「!」
振り向くと、父は目を閉じたまま柔らかな微笑みを浮かべ、さっきまで私が握っていた手をほんの少し持ち上げていた。
「お父様……!」
再び傍に跪く。
そして父の手を取ると、今度は握り返された。
「お父様……! お父様!」
父の瞼があいた。
そして迷うことなく、温かな眼差しを私に向けた。
「……、…………」
「声が出ませんが、あなたの事はわかっていますよ」
気づくと医者がすぐ後ろにいて、その席に改めて腰を下ろす。
ほんの短い時間だった。
父は目覚めている間、私を優しく見つめて、大きな手で、私の小さな両手に応えてくれた。
やがてまた父は眠った。
それから2ヶ月後、父は静かに息を引き取った。
私は父の妻と交代で看病にあたっていたけれど、叩き起こされ、父の最期の瞬間に立ち会う事ができた。
医者は父の死亡宣告をしたその口で、私に言った。
「あなたを愛していたのですね。いい最期でした。この方は幸でした」
父の寝室は既に墓地のように静まり返っている。
私の知らない医者が付き添い、正妻──セレスティーヌの母親がベッドに縋りついていた。
「……っ」
父は死ぬと、悟る。
もう死に向かい、こちら側へ振り返ることはないのだと。
「……」
ルーカスが強く私の手を握った。
「ルーカス様の御友人マルクリー卿がおいでです」
使用人の取次の後、マーカスが短い挨拶を正妻の背中にかけた。その声には深い労わりが込められていた。
「……ありがとうございます。娘は元気ですか?」
正妻がふり向いた。
げっそりと痩せこけて、自分も病気のような顔をしている。
ベールの下からその顔を見て、夫人の言った、愛しているからきちんと看病しているという現実を受け止める。
この人は、きっと、病床の父に対してはよくしてくれたのだろう。
「ああ……! ごめんなさいっ」
「!?」
正妻が突如泣き崩れた。
それからベッドではなく父に覆いかぶさり、祈るように続ける。
「あなたの愛する娘イリスが来てくれました……っ、どうか、目を覚ましてください……!」
「……」
ベールごときでは、何も隠せなかった。
私はベールを帽子の留金に当てて顔を出すと、静かにベッドに歩み寄る。
父は生きている。
けれどもう、死人の顔をしている。
「……っ」
ただ悲しくて。
愛された日々、微笑みの一つ一つ、優しい声。それが嵐のように蘇り、私は泣きじゃくった。
「こちらへ来て……話しかけてあげて……」
正妻が身を起こして数歩下がる。
私は数歩進んで、父を見下ろして、それから崩れ落ちるように跪いた。
骨ばった冷たい手を強く握っても、父はもう微笑まない。
「お父様……ッ」
話しかけるなんて、できない。
もう父の耳には届かない。
私はなんて酷い娘だっただろうかと悔やんだ。
既に死体のような父の手を握り、父のために、今この時に父のために祈る。
痛みや苦しみがあるなら、少しでも取り除いてください。
いい夢を見ているなら、どうか奪わないでください。
そしてどうか、ほんの少しでもいいから、私の事を思い出して……
「たまに、目を覚ます事もありますよ」
医者がそっと声を掛けてくる。
それが善意だとわかったけれど、私は一瞬でも父から目を離せない。
長い時間、父の傍で跪いていた。
嗚咽が落ち着き、ただ涙だけが溢れて止まらないくらいになると、すっと頭が冴えて来た。
もし、目を覚ます事で父が少しでも苦しむなら、私のためには目覚めないでほしい。母の夢を見ているなら、それがいちばんいい。
「ありがとうございます、マルクリー卿。娘を見つけてくださって」
正妻の声がした。
昔から、父のために私に気を遣う人だった。
ただセレスティーヌを産み、私の産みの母を憎み続ける人でもある。
けれどそれは、死にゆく父の前ではもうどうでもいい。
向こうにとってもお互い様よね。
「もしその子さえよければ、最期の時も傍に……いるために、しばらくここで暮らしては頂けないものでしょうか……?」
「……」
ルーカスは答えなかった。
私が決める事だと思ってくれたからだ。
私さえよければ?
元々、私はここで暮らしていた。
最後の時も傍にいるために?
父が、私が傍にいれば目覚めそうだから?
私の気持ちなんて何一つ考えてはいない。
でも、だから何?
「お父様の……傍にいます」
私が声を絞り出すと、すぐにルーカスが動き出した。
「父娘二人きりに」
「ええ……」
医者は席を外さなかった。
私は病状や、痛みや苦しみの程度、私にできる事は何かなどを尋ねた。
すっかり夜になって、使用人が夕食を報せる。
今日明日の命ではないと医者が言うので、ルーカスも待たせているし、私は一度、父の寝室から出てもいいような気がした。
「お父様。また、あとで」
手を撫で擦り、話しかける。
たとえわからなくても、言葉を返してくれなくても、私は父に微笑みかけて立ち上がった。名残惜しくても、悔しくても、もう覚悟が必要な時期なのだという事は認めるしかないのだ。
医者が戸口で待ってくれたので、私は一歩、ベッドから離れた。
その時。
「……!」
視界の隅で、父の手が、ゆっくり、上がった。
「!」
振り向くと、父は目を閉じたまま柔らかな微笑みを浮かべ、さっきまで私が握っていた手をほんの少し持ち上げていた。
「お父様……!」
再び傍に跪く。
そして父の手を取ると、今度は握り返された。
「お父様……! お父様!」
父の瞼があいた。
そして迷うことなく、温かな眼差しを私に向けた。
「……、…………」
「声が出ませんが、あなたの事はわかっていますよ」
気づくと医者がすぐ後ろにいて、その席に改めて腰を下ろす。
ほんの短い時間だった。
父は目覚めている間、私を優しく見つめて、大きな手で、私の小さな両手に応えてくれた。
やがてまた父は眠った。
それから2ヶ月後、父は静かに息を引き取った。
私は父の妻と交代で看病にあたっていたけれど、叩き起こされ、父の最期の瞬間に立ち会う事ができた。
医者は父の死亡宣告をしたその口で、私に言った。
「あなたを愛していたのですね。いい最期でした。この方は幸でした」
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