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しおりを挟む彼の出演が大きな理由だろうけれど、ミュージカル《アグネス・コード》は既にDVD化が決まっていた。映像特典としてメイキングが撮影される。もちろん顔合わせでもカメラが入り、私は思ったよりずっと長く彼と時間を共有するのだと知った。マネージャーのように、常に、ぴったり。
また噂になる。
小さな不安は、大きなやりがいに掻き消された。
喪中の彼に配慮されたのか、取材は時間内に終わった。移動の車で苺だいふくを食べ、彼は涙ぐみ私を見つめていた。なにか、言葉にできない思いが吹き荒れているのがわかり、それがなんであれ、私は受け止めますという笑みを返した。
初顔合わせは稽古場となるスタジオで行われた。
鏡貼りの広い一室に口の字型にテーブルが並び、席も決まっている。名札は小学校のように三角に折った紙だった。私は公演スタッフではないので、彼の後ろにパイプ椅子を置いて座り、鏡越しにスタイルをチェックしていた。
主役の彼を挟み、上座に最年長で悪役のバルトロメア役・加納千代、下座にヒロイン・アグネス役となる長谷昴が座る。加納の貫禄に対し、新人の長谷昴は緊張で怖い顔になっていた。実力でのし上がって来たとはいえショーガール出身と聞いていたから、もっといい加減な感じかと思っていたけれど、ぱっと見て大きな胸以外に如何わしい点はない。
彼は加納との静かな会話が途切れると、そのたび、長谷昴を気遣ってなにか言葉をかけていた。長谷は肩を縮こまらせて大きく頷くだけで、余裕のなさが見て取れる。
準主役のディーノをつとめる雲田出は、加納と同じオペラ界から抜擢された若手のホープだ。大柄だけれど引き締まり、野球少年がそのまま大人になったような親しみやすい雰囲気がある。彼とは席が離れているけれど、たまに目で会話していた。
開始直前、鏡越しに目があい合図だと思って行くと、椅子の背に肘をかけふり向いた日高が言った。
「ごめん。パウダーいい?」
「はい」
人柄のあらわれた笑顔にいつものようにパフを近づけると、彼は笑いながら仰け反り逃げてしまう。
「?」
中途半端に腰を折った状態で、私は固まった。
「すいませんっ」
後ろから、空咳のような声がする。
長谷と彼の間に割り込んだのだから、彼女しかいない。
「カメラ回ってるから。してあげて」
「ほんとすいませんッ」
振り向くと、玉の汗が浮かぶ鼻が。
「はい、お水のんで」
彼がわざわざキャップをあけ、彼女の前に水を置く。呆れてしまった。彼は優しいからこうして新人のフォローをしているけれど、そうは言っても彼女は大人だ。初舞台でもあるまいし、気持ちの整理はここへ来る前に済ませておくべきなのに。
とはいえ、これは彼の復帰作。
私の仕事は、美しさを保つ事だ。
「風邪ですか?」
一応、聞いておく。
「違います。いま、最高潮に動悸が……」
「意外に緊張しぃなんだ。大丈夫だって、俺いるし」
「少し上向いてください」
「はいぃ……っ」
どちらに答えたのかわからないけれど、情けない声をあげて長谷は顔をあげた。ふざけてるのだろうか。なんというか、まぬけだ。
手早く長谷の顔を直しながら、私は、なにかひっかかるものを感じた。それは、彼の口調だと気づく。俺、いるし。その言い方がとてもそっけないのに、あたたかい。彼はぶっきらぼうな人ではない。まるで、手のかかる妹をなだめるような親密さがあった。
顔見知りなのだろうか。
瞬間、息をのんだ。
まったく気づかなかった。彼女は、亡くなった彼のお兄さんとその恋人と3人で、あの日《Doragonia》の楽屋に来た眼鏡の女性だ。そして、そうだ。ただ情報として私の体を流れていったいくつかの事実が、ふいに身近な事件となって蘇る。
乗客者名簿に名前があるにもかかわらず船に乗らなかった日本人。あの事故の、生き残り。長谷昴。
偶然なんて、あるだろうか。それとも、同姓同名とでも?
私は自分の動悸が高まるのを無視し、素早く席へ戻った。
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