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007
しおりを挟む深紅の絨毯が敷かれた細い廊下、右手に受付があった。口髭を蓄えた中年の男性が、掃除をしていた彼から簡潔な説明をうけ短い指示を出す。左胸の名札で支配人だとわかった。
警察より、救急車を呼ばれるかもしれない。想像より格式が高そうで、私は少し後悔した。世の中には、笑っちゃうほどのお金をかけて遊ぶ人たちがたくさんいるのだ。
クラブといっても廊下を歩くばかりで、お酒の飲めるようなフロアは見当たらない。
ただ、どこかから音楽が聞こえてくる。
案内されたのは朱色と薄桃色の大きなタイルに造花の蔦があしらわれた、金縁の鏡がある、豪華な内装のトイレだった。シンクが、なぜかきらきらしている。ピカピカ、ではない。
個室に入り、蓋の上に腰をおろした。吐き気はおさまっていたけれど、じわじわと恐怖が私を呑み込んでいく。つかまれば、何をされたかわからない。今まで入ったどこのトイレでも聞いたことがない、クリアなせせらぎと小鳥の囀りが、私の神経をなだめていく。口をおさえ前屈みになり、深呼吸を繰り返した。
怖かった。でも、何もなくて、よかった。
落ち着くと、自分の失態に愕然とした。私はたぶん、きっと、迷惑な買い物依存症の女だと思われただろう。謝らなければ。そして、いたたまれないけれどやっぱりタクシーは呼んでもらい、早く帰ろう。
廊下に出ると、腕組みをした女性が壁によりかかっていた。汗の匂いがする。髪をまとめ、ダンスウェアにタオルを巻いた胸の大きな……
「吐いた?」
「いえ」
「だいじょうぶ?」
「はい。すみませんでした」
「ちょっと休んだ方がいいって、支配人が部屋用意したから。歩けるの?」
「はい。すみません」
「じゃ来て」
「はい」
明らかに機嫌が悪い。けれど迷惑をかけたのは確かなので、申し訳ない気持ちでついていく。開店前のクラブで汗をかいたダンスウェアの女性ということは、彼女はここのダンサーだろう。するとここは、主に男性が通う会員制クラブだ。
ずっと、音は聞こえていた。けれど、飲食店というよりもレトロなホテルを思わせる光景が続き、私が案内された扉もまた、そうだった。ナンバープレートのかかった、木の扉。彼女は乱雑にノブを回し、開いた。
「ごゆっくり~」
と、私が部屋に入る前に、さっさと行ってしまう。
とてもタクシーを呼んで欲しいと言える雰囲気ではなかった。けれど、休める部屋を用意してくれるほどなのだから、そう待たずに様子を見に来てくれるだろう。そのときに、丁重にお願いすることにして、私は部屋に入った。
ちょっと座ろう。トイレの蓋は、硬くて冷たかった。椅子を見たら感動して泣きそう。
けれど、部屋に入り、顔を上げ、私は凍りついた。
これ見よがしに、ベッドがある。
「……」
そういうお店なのだろうか。
たとえ赴きがあっても、風俗店は所詮、風俗店。
私の荷物は、ベッド脇の丸いテーブルに運ばれていた。椅子が2脚──あたりまえね、ここは男女ふたりが過ごすことを前提に作られた部屋だもの──、片方に私の、諦めたはずのブーツが乗っている。私が“棄てた”ブーツだ。
「……?」
そして、ベッドやブーツより大変な問題があった。もう片方の椅子には、人が座っている。若い白人男性は、長い脚を組み頬杖をついて、私のバッグホルダーで手遊びしながらこちらを見ていた。燃える鉄のような、赤褐色の瞳。ジュウと煙が出そうなほど、じっと。
値踏みされている。
私を、今夜の相手だと思っている。
汗が噴出し、手がふるえた。
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