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しおりを挟む彼は薬をテーブルに置いた。私は奪い返し、バッグに入れ、彼を睨んだ。彼は私を見ていなかった。部屋の中をざっと見回し、なにか独り言をもらしながらドアの方へ向かう。大きな身体が、すいすいと浮くように動いていた。身のこなしは軽い。彼は部屋の隅にあったクーラーボックスを開けると、水のペットボトルを2本持って戻ってきた。
「パジャールスタ」
1本を私に差し出す。
薬を飲め、ということ?
私が受け取らないでいると、彼はまた長く唸ってからテーブルに置いた。それからベッドの上掛けをはいで、私を見ながら枕を叩く。その間もムニャムニャと何か言っているけれど、意味はわからない。おっとりした口調は見た目にそぐわず、気分が沈んだ。お酒か薬で朦朧としているように見えた。そういう人種を見るのは、残念だ。
ベッドの頭上で、これ見よがしにティッシュとタオルが出窓に並んでいる。彼は自分の持っていたペットボトルをあけ、タオルに水を注いだ。
「……?」
異様だ。やっぱり、正気ではない。
早く立ち去った方がいいとバッグ以外の荷物を諦めたとき、彼はタオルを絞り、私を見た。四角く畳み、形を整え、労わるような目をして近寄ってくる。
違和感を覚えた。
私は、もしかして、勘違いをしているの?
彼は、心配してくれているのだろうか。
疑っている私の前髪を無遠慮な手がかきあげ、冷たいタオルが押し当てられた。冷たさに思わず目を閉じる。彼の手が離れる気配に、私はタオルをおさえた。
「プラスチー」
囁きは頼りなさをふくみ、胸にせまる。
目をあけて彼を追った。彼は何度か、その「プラスチー」をくり返しながら、しょんぼり肩をおとして出て行った。彼が去ったドアを、私は長いこと見つめていた気がする。とても、後悔していた。
少しして、ベッドに腰掛け水をのんでいると、支配人の牧辺という男性がやってきた。上品な口ひげの紳士、40代後半に見える。私は自分が恥ずかしくて、立ち上がる気力もなかった。
「すみません」
ボトルを膝におき、謝る。
「おかげんはどうですか?」
彼は私の前に片膝をつき、気遣ってくれる。
ひどい偏見に、火が出そうなほど恥ずかしい。
「大丈夫です。すみません。……さっきの人は?」
「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。あの方も、かえって怖がらせてしまったお詫びにと、あなたにこれを」
支配人の白い手袋には、飴の袋が5つのせられていた。どれもコンビニで買うことのできる有名なキャンディーだ。りんご、ミルク、サワー、マーブル、のど飴。
「あなたが質の悪い連中から逃げているのを見かけたそうです。反撃にお買い物の袋を投げたとかで、あの方はそれを拾って、あなたを助けようと追いかけたそうですが、ここへ入るのを見て安心し、のんびり追いかけたと」
口ぶりから、彼はこの店の常連客であることも、私を気遣ってくれた事もわかる。
「そうとは知らずお化粧室などに案内させ申し訳ありませんでした。ここの安全は私が保証します。お望みなら、すぐに警察をお呼びします」
「警察は要りません」
咄嗟に強く言ってしまう。支配人は一瞬怪訝そうな顔をしたけれど、頷いた。
「わかりました。救急車は必要ですか?」
「大丈夫です。本当にありがとうございました」
「ではタクシーを手配します。今日はそれでお帰りになったほうがいい。安全の為に。それまで、ここでお休みになってください」
手厚い持成しに深く頭を下げた。
私は、人の親切も信じられなくなっている。
支配人は溜め息をつきながら立ち上がり、ふいに苛立った声をあげた。私は驚いて、ベッドで小さく跳ねた。
「ああ、失礼しました。他人事ではないので、つい」
「いえ……」
「あなたくらいの娘がいるのですよ。まったく、遊ぶ礼儀を知らない子どもばかりうろついていて、困る」
こんな仕事をしているから独身と思い込んでいた。
ああ、私は偏見のかたまりだ。
支配人は、思いやり深いまなざしで好きなだけ休むよう言って、静かに扉を閉めた。
汗が引いて体が楽になるのを待ち、厚意に甘えた。そもそも荷物を届けてくれた彼にお礼とお詫びを言いたかったけれど、すでにお店で遊び始めてしまったとのことで、伝言を頼み、私は帰った。
長い一日が終わった。
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