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「美味しい?」

 わかる言葉で、いま、話しかけないで。
 私はフルーツナイフを掴んだ。

「教えて。私、下手なの」
「えー?」
「手が小さいからかしら」
「それはあるよ」

 彼が頷く。私が持つと、オレンジは一欠けら失くしていてもずっしりと重い。角度を調節しながら器用にナイフを使えるとは思えない。

「まりえは置いて切りなよ」
「そうよね。あなたは、林檎を刃から食べたりする?」
「かじるよ」

 いつだったか映画で見たそんなシーンを思い出して聞くと、彼は心外だとでも言うような口調で答えた。おかしかった。
 そう、映画みたい。死にかけて身体を変えてしまうなんて、夢のような話だ。

「それじゃあ、傷もすぐに治るのかしら」

 日本語で呟いたので、ミーチャはにこにこしたまま、首をかしげた。

 意図せず強靭な身体を手に入れてしまう主人公の、定石のひとつ。彼が嘘を言っていないのは確かだろう。彼の悲しみや、心の痛みは本物だから。でも、私は? すべて私の妄想なら、彼はキスをしてくれるし、オレンジも食べさせてくれるだろう。嘘もつかない。家にあげて、君を守ると誓ってくれる。

 白いベッド。灰色のベルト。咲良のせいで何年か早まっただけの話かもしれない。私の最期は、痛みのために精神を壊すか、薬物療法で正気を失くすか、そのどちらかなのだから。

 てのひらを裂いた。
 ミーチャが一瞬でナイフを奪い取り、遠くへ置く。熱い痛みが傷口から走り、思わず涙ぐんだ。彼は至極冷静に私の手首を掴んだ。止血のためだとわかる。少し、怒ったようだ。金色の目がギラリと光り、傷口を凝視している。

「ごめんなさい」

 とても痛い。
 夢だとは、思えない。

「まりえ」
「治ると思ったの。馬鹿なことしてごめんなさい」

 彼はつらそうに目を閉じ、鼻をひくひくさせて、私を見つめた。悲しい眼差し。

「治るよ」

 罪を告白するように、力なく彼は言った。
 彼はそっと手を離した。その瞬間から、出血が増える。てのひらを上にしてテーブルに手を寝かせ、私は痛みを堪えた。ドクドク、ジクジクと痛む。親指の下の太い動脈を狙った。怖いほど、血が溢れてくる。私の手の周りに、血溜まりができた。

「止まらないわ」

 自分の出血を見続けたせいで眩暈に襲われ、彼を見あげた。彼は、愕然としていた。血が、止まらないほうがおかしいのだ。私たちの“病気”は。

「手当てしないと」

 料理と一緒にきていたパーパータオルに手をのばし、腰をあげる。

「まりえ」
「ごめんなさい。疑ったわけじゃないの。ただ、夢みたいで」
「僕が治してあげる」
「え?」

 低く囁くと、彼は私の指を複雑に絡めとり、動けないようにして、傷口をさらした。皮膚が引っぱられ痛みが増したのは一瞬で、彼が口をあけて顔をよせると、そんなことはどうでもよくなってしまった。なめらかな唇の感触が、広くてのひらを包んだ。歯があたる。舌が、痛みにおしつけられる。

「っ」

 じゅる、と音を立て、彼が血をすすった。

 瞬間、ぐらりと視界がゆれる。頭の奥がツンと痺れ、心地よさと、居た堪れないもどかしさに腰を下ろした。傷の痛みは瞬く間に和らぎ、彼の舌の感触や、私の血で濡れた唇、うっとりと細められた黄金の双眸が私を支配した。反対の手で彼の袖をつかみ、ふるえる息を吐く。声をこらえた。胸の先が、じんと痺れた。

 うそ。こんなふうに感じてはいけないのに。
 彼の舌が、ゆっくりと円を描いた。彼の瞳が、熱に潤んだ。

「僕をぜんぶあげる」

 赤い唇が、迫る。


 警報が鳴り響いた。
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