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平気なふりが得意なんて、どの口で言っていたの?
「まりたん、あーん」
苺が迫る。彼は今夜も大量の料理を頼んだ。ケーキと、果物もたくさん。冷凍庫のウォッカは私の知らない間に消費されたのか、空き瓶と同じ数の新しいものが届いている。食事が喉を通らないのは、体調というより、気分の問題だった。
雲田は、得体の知れない“悪”そのものに変わってしまった。それなのに、興行は万事順調に続き、明日もまた幕があがる。大勢の観客は完璧な“夢”に酔うのだろう。彼らの芸術は、死と同列だった。日高、長谷、雲田は、素晴らしい演者だった。
私は、立ち直れない。
冷たい果実が唇を割る。スープを一口と白身魚のグリルを一口、そこから先に進めなくなった私を、彼は甲斐甲斐しく世話してくれる。心地いいのは恋のためだけとは思えなかった。根源的な安堵に、箍が外れていた。
苺をかじる。冷えた果汁がさらりと顎を伝う。彼の親指がそれを拭い、てのひらはそっと頭を押さえ込む。撫でるよりも頼もしい。ふくみきれなかった苺が彼の口に消える。その間、彼は注意深く私を見つめていた。
大きな両手が、頬というより、顔全体を包み込んでくる。親指で頬骨を撫でられ、少しだけうっとりとしてしまった。
「ダー。わかった」
出し抜けにそう言って、彼は立ち上がった。淋しくはなかった。彼は別に、私の恋人ではないのだ。
オーディオからラジオが流れる。声だけで誰とはわからないけれど、根菜の効能について男女が意見を交換している。彼は右足を投げ出すようにだらんと立って、チャンネルを変えていく。網目のきつい灰色のセーターと、ごわついたジーンズ。つるんとした踵。彼は裸足だ。私は我ながらうっとりと後姿を眺めた。けれど恐怖や不安が頬を叩くように現実を思い出させる。
悪い夢なら覚めて欲しいと願っただろう。彼と、一緒でなければ。
心地よい旋律が、彼を止めた。洋楽だから聞き取れるけれど、女性ヴォーカリストの名前も曲名も知らない。しっとりとしたバラードに、癖のない甘い歌声がいい意味で軽さを与えている。可憐な少女が誠実な男性に導かれ大人の恋を覚えていく。そんな雰囲気を感じ取ると、歌詞がゆっくり、私の予想を裏づけしていった。
彼がふり返る。真面目な表情で前まで来ると、私の手をとって立ち上がらせた。暗い気分を紛らわせてくれるのね。私は甘えることにした。スローダンスだと思ったのだ。
広いリビングの中央で、彼は私の手を離した。向かい合って立ち、不思議に思って見あげる。彼はまだ、大真面目な顔をしていた。笑わないと、怖いくらい野性的な顔立ちだ。赤褐色の瞳がよけいに肉食獣を思わせる。けれど、優しい獣だと、私は知っている。
どうしたの、と訊くつもりで口があかなかった。代わりに、私は微笑む。彼は左のてのひらを、顔から30センチほど脇に掲げた。右手が、私の脇腹をすかし、背中を支える。くつろぐというには、あまりに整いすぎた姿勢に戸惑う。
「ミーチャ」
「手」
呼ぶのと同時に、彼は言った。
「できないわ」
小さく首をふりながら告げると、彼はわずかに首をかしげた。
「無理よ。私、あなたには小さすぎるもの。バランスが」
「関係ないよ」
「でも」
「まりえ」
可愛い大型犬のミーチャは消えた。彼は完全に、振付師の目で私を待っている。
「手。はやく」
「でも」
初めて受ける無言の圧力に私は負けた。逞しい腕に肘を預けるようにして、肩より少し下に触れる。右手は、彼の顔の横で、乾いたてのひらに捕まった。ああ、ふれた。体温に酔い痴れる間もなく、大きく一歩床を滑る。彼の引いた右足にあわせて、左足を踏み出した。曲調からもワルツだろうとわかっていたから、右足を引き寄せる。そろえた両足を軸に回転し、次の一歩。リードされているというより、持ち運ばれている気分になる。彼は怖くはないけれど、厳しい教師だ。急に恥ずかしさがこみあげてきた。私は姿勢を正した。
床を滑り、円を描く。ソシアルダンスの生まれは社交界、かつては決まった振り付けはなく、組んだ男性に導かれるままにフロアを回った。細かくジャンルが分かれ、順位を競う大会やショービジネスに発展した今でも、基本は変わらない。女性は、自分から動いてはいけない。柔軟に、優雅に、従う。理由は単純、それが美しいから。
「まりたん、あーん」
苺が迫る。彼は今夜も大量の料理を頼んだ。ケーキと、果物もたくさん。冷凍庫のウォッカは私の知らない間に消費されたのか、空き瓶と同じ数の新しいものが届いている。食事が喉を通らないのは、体調というより、気分の問題だった。
雲田は、得体の知れない“悪”そのものに変わってしまった。それなのに、興行は万事順調に続き、明日もまた幕があがる。大勢の観客は完璧な“夢”に酔うのだろう。彼らの芸術は、死と同列だった。日高、長谷、雲田は、素晴らしい演者だった。
私は、立ち直れない。
冷たい果実が唇を割る。スープを一口と白身魚のグリルを一口、そこから先に進めなくなった私を、彼は甲斐甲斐しく世話してくれる。心地いいのは恋のためだけとは思えなかった。根源的な安堵に、箍が外れていた。
苺をかじる。冷えた果汁がさらりと顎を伝う。彼の親指がそれを拭い、てのひらはそっと頭を押さえ込む。撫でるよりも頼もしい。ふくみきれなかった苺が彼の口に消える。その間、彼は注意深く私を見つめていた。
大きな両手が、頬というより、顔全体を包み込んでくる。親指で頬骨を撫でられ、少しだけうっとりとしてしまった。
「ダー。わかった」
出し抜けにそう言って、彼は立ち上がった。淋しくはなかった。彼は別に、私の恋人ではないのだ。
オーディオからラジオが流れる。声だけで誰とはわからないけれど、根菜の効能について男女が意見を交換している。彼は右足を投げ出すようにだらんと立って、チャンネルを変えていく。網目のきつい灰色のセーターと、ごわついたジーンズ。つるんとした踵。彼は裸足だ。私は我ながらうっとりと後姿を眺めた。けれど恐怖や不安が頬を叩くように現実を思い出させる。
悪い夢なら覚めて欲しいと願っただろう。彼と、一緒でなければ。
心地よい旋律が、彼を止めた。洋楽だから聞き取れるけれど、女性ヴォーカリストの名前も曲名も知らない。しっとりとしたバラードに、癖のない甘い歌声がいい意味で軽さを与えている。可憐な少女が誠実な男性に導かれ大人の恋を覚えていく。そんな雰囲気を感じ取ると、歌詞がゆっくり、私の予想を裏づけしていった。
彼がふり返る。真面目な表情で前まで来ると、私の手をとって立ち上がらせた。暗い気分を紛らわせてくれるのね。私は甘えることにした。スローダンスだと思ったのだ。
広いリビングの中央で、彼は私の手を離した。向かい合って立ち、不思議に思って見あげる。彼はまだ、大真面目な顔をしていた。笑わないと、怖いくらい野性的な顔立ちだ。赤褐色の瞳がよけいに肉食獣を思わせる。けれど、優しい獣だと、私は知っている。
どうしたの、と訊くつもりで口があかなかった。代わりに、私は微笑む。彼は左のてのひらを、顔から30センチほど脇に掲げた。右手が、私の脇腹をすかし、背中を支える。くつろぐというには、あまりに整いすぎた姿勢に戸惑う。
「ミーチャ」
「手」
呼ぶのと同時に、彼は言った。
「できないわ」
小さく首をふりながら告げると、彼はわずかに首をかしげた。
「無理よ。私、あなたには小さすぎるもの。バランスが」
「関係ないよ」
「でも」
「まりえ」
可愛い大型犬のミーチャは消えた。彼は完全に、振付師の目で私を待っている。
「手。はやく」
「でも」
初めて受ける無言の圧力に私は負けた。逞しい腕に肘を預けるようにして、肩より少し下に触れる。右手は、彼の顔の横で、乾いたてのひらに捕まった。ああ、ふれた。体温に酔い痴れる間もなく、大きく一歩床を滑る。彼の引いた右足にあわせて、左足を踏み出した。曲調からもワルツだろうとわかっていたから、右足を引き寄せる。そろえた両足を軸に回転し、次の一歩。リードされているというより、持ち運ばれている気分になる。彼は怖くはないけれど、厳しい教師だ。急に恥ずかしさがこみあげてきた。私は姿勢を正した。
床を滑り、円を描く。ソシアルダンスの生まれは社交界、かつては決まった振り付けはなく、組んだ男性に導かれるままにフロアを回った。細かくジャンルが分かれ、順位を競う大会やショービジネスに発展した今でも、基本は変わらない。女性は、自分から動いてはいけない。柔軟に、優雅に、従う。理由は単純、それが美しいから。
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