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私ははっとして息をつめた。単純に踊ろうと誘われているのではなく、作品を創るという意味で彼は言っている。そうなると、話は別だ。私は小さすぎるし、そもそも、踊り手としての才能はなかった。言葉よりも先に、口だけあけて首をふっていた。彼の人差し指が天井から私の鼻へ向きを変えた。
「君は小さい」
それは、よく知っている。
「ヤー。だから私」
「僕は大きい。だから、面白くなるよ」
彼は大真面目に頷いた。困ってしまう。
拒否権はないのね。
「タンゴ?」
不安たっぷりに問いかけると、また彼は頷いた。先日までの歌劇で彼のダンスナンバーを見てきた私は、その扇情的な魔力に魅入られていたからこそ、できないと思った。私の踊りには感情が無い。無機質な手本なら務まるけれど、彼が求めているのは演者だ。
「私」
「まりえ」
拒もうとして、厳しく遮られる。
「君はすばるの《鳥篭》を踊った。知ってる。それに、君は元気になった。大暴れしていいんだ」
その一言で、胸の奥になにか熱いものが宿ったとき、
「やってみよう?」
彼がやさしく囁き、顔を寄せた。私はくちびるがふれる前にヤーと答えていた。
キスのあと音源をセットしながら、彼は肩越しに私をふりかえった。強い夜風が彼のシャツの裾を乱暴にはためかせている。あまり向けられることのない指導者としての眼差しに、胸が跳ねた。
「君は精霊、普段はぴかぴかの像にとじ込められている。僕は測量隊のひとりで、仲間の目を盗んで現地の宝物を盗むんだ。像にキスして封印を解く。すると君が現れる。君はとても可憐で子どもっぽく、僕は落胆する。だけど君に興味がある。からかって、誘惑して、そのうち自分が虜になる。君の番だ。虜になった僕を今度は君がからかって、手玉にとって、徐々に女の顔になる。これで禁忌を犯した。僕と君はただの男と女になって、あとは、燃えあがる」
「それをタンゴでやるの?」
オーディオから弦楽器でアレンジされたアラビア調の旋律が流れる。タンゴに幻想的な物語を織り込むのは意外だったけれど、彼の芸術性は実証済みだ。
「競技会に出るわけじゃない。いいものはいいんだよ」
「そうね」
彼は顎で浜辺を示し、音量を上げた。《アグネス・コード》のときもそうだったけれど、彼ははじめから音楽をかけたまま振りを付け、突如旋律にのり見本を示す。カウントをとりながら口頭での説明が一般的なのに対し、彼の振付は少し強引だ。けれど、頭より先に身体が納得するので、完成が早い。それにしても、砂の上で振り付けをするなんてどこまで型破りなのかしら。私は裸足になり彼を追って外へ出た。さらさらとした冷たい砂に一足ごと沈む。
月明かりの下、彼が低い囁きとともに足を止めた。
「まずは、僕の番」
彼は襟を開くような素振りをしてから、身を屈め手を伸ばしてきた。もちろん踊り手としての美しい姿勢と、役としての欲深い眼差しを保って。彼は、びっくりして逃げて、と言った。けれど私は彼の首に腕をまきつけ、キスを強請った。
「まりえ」
唸るように私を呼んで、ぶるりとふるえる。それから深く唇を食み、一度だけ舌を忍ばせ出て行った。
「逃げて」
低い声がかすれている。熱い瞳が追いかけてくる。
欲しくなった。細胞のひとつひとつが彼を求めていた。そして、彼も同じだとわかっていた。もうひとつになったから。
背中から腰をつかまれ、首筋に吐息をうける。くすぐったい。ふりむいてキスをしたいけれど、今は真面目な仕事の時間だ。少なくとも、彼はそう在ろうとしている。私は囁かれた指示のままにふりほどき、軽やかに逃げた。指がとられ、引き寄せられる。ふり向いて、ホールド。私を絡めとろうとする脚をかわし、月に煌く金色の瞳を見つめる。
昂ぶった瞳は、キスをすると赤褐色に戻る。私はこの血に潜む力に酔い痴れていた。
「キスしてもいい?」
「ニェット」
彼は首をふりながらも私を抱き寄せ、深く唇を貪った。唸りながら顔を引き剥がし、彼は私にわからない悪態をついた。
悔しそうに顔を歪め、目に欲望を滾らせている。切なそうに私を見つめ、ゆれる、赤褐色の瞳。私の好きな、あかいキャンディー。
「私、覚えるの得意よ」
「帰るまでに」
「まかせて」
彼が音楽を無視し私を抱えあげ、ふわりと砂浜に倒れた。私は手をついて彼の胸の上で背中を反るようにして身を起こす。彼の手が私の髪を耳にかけ、愛しげに頭を包んだ。私の影が月光を遮り、彼の顔を半分以上隠している。それでも、今の私にはよく見えた。
「まりえ、僕の傍にいて」
私はそっと唇をふさいだ。
潤む瞳は熱のせいばかりではないようだった。たくさん失い、たくさん傷ついて生きてきた彼は、私を失わないという事実を受け入れられないのかもしれない。受け入れたとしても、ふとした瞬間に疑ってしまうのだろう。私が、むやみに死に怯え、諦めていたのと同じように。
「あなたの傍で、あなたのくれた時間を共に生きると誓うわ」
あなたは奪ったのではなく、与えたのだと伝えたかった。
波の音を聞いた。私が彼を見つめている間、彼も私を見つめていた。彼が恐れているのは、私の心変わりではないと気づいた。それなら尚更、今でなくていい。時を重ねれば重ねるほど、彼の不安は薄れていくはずだから。
今度は甘いキスで誘う。上唇をしつこく舐ると、彼は眉をひそめて低く唸り、胸をふるわせた。わからないのかしら。彼の瞳が、私を燃やし、息づかせているのに。
やがて彼は私を掻き抱き、腰をつきあげながら獰猛な舌で貪り尽くした。私は爆ぜる鼓動を聞き、炎に呑まれ、彼の名を叫び、熱い涙をこぼしながら、ただ生きて、生きて、生きて───……
(終)
「君は小さい」
それは、よく知っている。
「ヤー。だから私」
「僕は大きい。だから、面白くなるよ」
彼は大真面目に頷いた。困ってしまう。
拒否権はないのね。
「タンゴ?」
不安たっぷりに問いかけると、また彼は頷いた。先日までの歌劇で彼のダンスナンバーを見てきた私は、その扇情的な魔力に魅入られていたからこそ、できないと思った。私の踊りには感情が無い。無機質な手本なら務まるけれど、彼が求めているのは演者だ。
「私」
「まりえ」
拒もうとして、厳しく遮られる。
「君はすばるの《鳥篭》を踊った。知ってる。それに、君は元気になった。大暴れしていいんだ」
その一言で、胸の奥になにか熱いものが宿ったとき、
「やってみよう?」
彼がやさしく囁き、顔を寄せた。私はくちびるがふれる前にヤーと答えていた。
キスのあと音源をセットしながら、彼は肩越しに私をふりかえった。強い夜風が彼のシャツの裾を乱暴にはためかせている。あまり向けられることのない指導者としての眼差しに、胸が跳ねた。
「君は精霊、普段はぴかぴかの像にとじ込められている。僕は測量隊のひとりで、仲間の目を盗んで現地の宝物を盗むんだ。像にキスして封印を解く。すると君が現れる。君はとても可憐で子どもっぽく、僕は落胆する。だけど君に興味がある。からかって、誘惑して、そのうち自分が虜になる。君の番だ。虜になった僕を今度は君がからかって、手玉にとって、徐々に女の顔になる。これで禁忌を犯した。僕と君はただの男と女になって、あとは、燃えあがる」
「それをタンゴでやるの?」
オーディオから弦楽器でアレンジされたアラビア調の旋律が流れる。タンゴに幻想的な物語を織り込むのは意外だったけれど、彼の芸術性は実証済みだ。
「競技会に出るわけじゃない。いいものはいいんだよ」
「そうね」
彼は顎で浜辺を示し、音量を上げた。《アグネス・コード》のときもそうだったけれど、彼ははじめから音楽をかけたまま振りを付け、突如旋律にのり見本を示す。カウントをとりながら口頭での説明が一般的なのに対し、彼の振付は少し強引だ。けれど、頭より先に身体が納得するので、完成が早い。それにしても、砂の上で振り付けをするなんてどこまで型破りなのかしら。私は裸足になり彼を追って外へ出た。さらさらとした冷たい砂に一足ごと沈む。
月明かりの下、彼が低い囁きとともに足を止めた。
「まずは、僕の番」
彼は襟を開くような素振りをしてから、身を屈め手を伸ばしてきた。もちろん踊り手としての美しい姿勢と、役としての欲深い眼差しを保って。彼は、びっくりして逃げて、と言った。けれど私は彼の首に腕をまきつけ、キスを強請った。
「まりえ」
唸るように私を呼んで、ぶるりとふるえる。それから深く唇を食み、一度だけ舌を忍ばせ出て行った。
「逃げて」
低い声がかすれている。熱い瞳が追いかけてくる。
欲しくなった。細胞のひとつひとつが彼を求めていた。そして、彼も同じだとわかっていた。もうひとつになったから。
背中から腰をつかまれ、首筋に吐息をうける。くすぐったい。ふりむいてキスをしたいけれど、今は真面目な仕事の時間だ。少なくとも、彼はそう在ろうとしている。私は囁かれた指示のままにふりほどき、軽やかに逃げた。指がとられ、引き寄せられる。ふり向いて、ホールド。私を絡めとろうとする脚をかわし、月に煌く金色の瞳を見つめる。
昂ぶった瞳は、キスをすると赤褐色に戻る。私はこの血に潜む力に酔い痴れていた。
「キスしてもいい?」
「ニェット」
彼は首をふりながらも私を抱き寄せ、深く唇を貪った。唸りながら顔を引き剥がし、彼は私にわからない悪態をついた。
悔しそうに顔を歪め、目に欲望を滾らせている。切なそうに私を見つめ、ゆれる、赤褐色の瞳。私の好きな、あかいキャンディー。
「私、覚えるの得意よ」
「帰るまでに」
「まかせて」
彼が音楽を無視し私を抱えあげ、ふわりと砂浜に倒れた。私は手をついて彼の胸の上で背中を反るようにして身を起こす。彼の手が私の髪を耳にかけ、愛しげに頭を包んだ。私の影が月光を遮り、彼の顔を半分以上隠している。それでも、今の私にはよく見えた。
「まりえ、僕の傍にいて」
私はそっと唇をふさいだ。
潤む瞳は熱のせいばかりではないようだった。たくさん失い、たくさん傷ついて生きてきた彼は、私を失わないという事実を受け入れられないのかもしれない。受け入れたとしても、ふとした瞬間に疑ってしまうのだろう。私が、むやみに死に怯え、諦めていたのと同じように。
「あなたの傍で、あなたのくれた時間を共に生きると誓うわ」
あなたは奪ったのではなく、与えたのだと伝えたかった。
波の音を聞いた。私が彼を見つめている間、彼も私を見つめていた。彼が恐れているのは、私の心変わりではないと気づいた。それなら尚更、今でなくていい。時を重ねれば重ねるほど、彼の不安は薄れていくはずだから。
今度は甘いキスで誘う。上唇をしつこく舐ると、彼は眉をひそめて低く唸り、胸をふるわせた。わからないのかしら。彼の瞳が、私を燃やし、息づかせているのに。
やがて彼は私を掻き抱き、腰をつきあげながら獰猛な舌で貪り尽くした。私は爆ぜる鼓動を聞き、炎に呑まれ、彼の名を叫び、熱い涙をこぼしながら、ただ生きて、生きて、生きて───……
(終)
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