9 / 19
9 誰よりも相応しい私
私の毎日は、春の花のように甘く、そして夜の星のように、鮮明に輝き始めた。
優しくて大人の博士は、私が言葉を詰まらせてしまっても、穏やかな微笑みを浮かべて待ってくれる。気を紛らわせるために、私がわかる範囲で興味深い研究の話をしてくれる。
只ひとつ気掛りなのは、私が一度は婚約を破棄された事のある、後ろ暗い恥を背負った人間という事だ。そして彼は、私の不安を見逃しはしなかった。
ある日の午後。
「なぜ御父上はクライヴ伯爵との婚約を?」
研究所から大学を繋ぐ前庭と並木道を散歩しながら、単刀直入に彼は言った。
その口調には一切の含みもなく、強いて言えば、まるで研究資材の出処を確認するかのような些細な知的好奇心だけが感じられた。
私の不安は、彼にとって、取るに足らない過去なのだと思った。
「母は私が3才の頃に病気で亡くなったのですが、父は私が母と同じように病弱になるのを恐れていました」
「うむ」
「実際、子供の頃は風邪をひきやすく、治りも遅くて、とても心配をかけていたと思います。今は元気です。父があの求婚を受け入れた大きな理由のひとつには、気候がありました」
「なるほど」
「アデラインは穏やかな街ですが、やはり都会なので空気が好ましくないと考えていたようです。その点、クライヴ領は豊かな自然に恵まれた穏やかな土地です。別荘地や保養所も多く、あの地での休養を進めるお医者様も多いと聞きます」
「あなたの健康を気遣っての事だったのか」
「はい。先代のクライヴ伯爵は堅実な方だったそうですし、それに、ローガン領とクライヴ領は平地を挟んでの地続きなので、馬車道も整備されていて、いざという時に道が塞がる事もなく、行き来するにも懸念が少ないと言っていました」
「その通りだ」
博士は納得したようだった。
思い返し、私は、自らの都合のよさに、少なからず罪悪感を覚えた。
貴族の結婚に愛は必ずしも必要ではない。けれど、私はジェフリー卿に好意を抱いていたのではなく、ジェフリー卿の備えた好都合な要素について、好ましく思っていただけなのかもしれない。
私は彼に、恋をした。
そう思っていた。
けれどそれは、恋に恋をし、好都合な結婚に喜んでいただけ。
彼自身を見ていたわけではなかった。
浅はかな私が、愛情を示すあの子に負けるのは、当然だったのだ。
貴族としてそれが正しいかと言われれば一概には言えないけれど、少なくとも、私は彼を愛してはいなかった。
私は、私を、愛していた。
「では私は申し分ないな」
「え?」
宙を見あげて人差し指を立てる博士の横顔を、私は見あげた。
「君の安全についてはもちろん、健康について配慮し、対処すべき箇所には適切に対処できる。気晴らしと調査を兼ねた旅行もいいだろう。君を退屈させず、疲れすぎにもさせず、心身ともに健康を増進できるよう努めるよ。なんなら、医学の講義を受けてもいいしね」
「博士」
「知的好奇心が愛の役に立つなら、解き放つまでだ」
彼の眼鏡が太陽を弾き、私は反射的に瞼を閉じた。
刹那。
右手が掬い上げられて、手の甲に短い口づけを受ける。
驚いて目を開けた私が見たのは、愛しい人の優しい微笑みだった。
優しくて大人の博士は、私が言葉を詰まらせてしまっても、穏やかな微笑みを浮かべて待ってくれる。気を紛らわせるために、私がわかる範囲で興味深い研究の話をしてくれる。
只ひとつ気掛りなのは、私が一度は婚約を破棄された事のある、後ろ暗い恥を背負った人間という事だ。そして彼は、私の不安を見逃しはしなかった。
ある日の午後。
「なぜ御父上はクライヴ伯爵との婚約を?」
研究所から大学を繋ぐ前庭と並木道を散歩しながら、単刀直入に彼は言った。
その口調には一切の含みもなく、強いて言えば、まるで研究資材の出処を確認するかのような些細な知的好奇心だけが感じられた。
私の不安は、彼にとって、取るに足らない過去なのだと思った。
「母は私が3才の頃に病気で亡くなったのですが、父は私が母と同じように病弱になるのを恐れていました」
「うむ」
「実際、子供の頃は風邪をひきやすく、治りも遅くて、とても心配をかけていたと思います。今は元気です。父があの求婚を受け入れた大きな理由のひとつには、気候がありました」
「なるほど」
「アデラインは穏やかな街ですが、やはり都会なので空気が好ましくないと考えていたようです。その点、クライヴ領は豊かな自然に恵まれた穏やかな土地です。別荘地や保養所も多く、あの地での休養を進めるお医者様も多いと聞きます」
「あなたの健康を気遣っての事だったのか」
「はい。先代のクライヴ伯爵は堅実な方だったそうですし、それに、ローガン領とクライヴ領は平地を挟んでの地続きなので、馬車道も整備されていて、いざという時に道が塞がる事もなく、行き来するにも懸念が少ないと言っていました」
「その通りだ」
博士は納得したようだった。
思い返し、私は、自らの都合のよさに、少なからず罪悪感を覚えた。
貴族の結婚に愛は必ずしも必要ではない。けれど、私はジェフリー卿に好意を抱いていたのではなく、ジェフリー卿の備えた好都合な要素について、好ましく思っていただけなのかもしれない。
私は彼に、恋をした。
そう思っていた。
けれどそれは、恋に恋をし、好都合な結婚に喜んでいただけ。
彼自身を見ていたわけではなかった。
浅はかな私が、愛情を示すあの子に負けるのは、当然だったのだ。
貴族としてそれが正しいかと言われれば一概には言えないけれど、少なくとも、私は彼を愛してはいなかった。
私は、私を、愛していた。
「では私は申し分ないな」
「え?」
宙を見あげて人差し指を立てる博士の横顔を、私は見あげた。
「君の安全についてはもちろん、健康について配慮し、対処すべき箇所には適切に対処できる。気晴らしと調査を兼ねた旅行もいいだろう。君を退屈させず、疲れすぎにもさせず、心身ともに健康を増進できるよう努めるよ。なんなら、医学の講義を受けてもいいしね」
「博士」
「知的好奇心が愛の役に立つなら、解き放つまでだ」
彼の眼鏡が太陽を弾き、私は反射的に瞼を閉じた。
刹那。
右手が掬い上げられて、手の甲に短い口づけを受ける。
驚いて目を開けた私が見たのは、愛しい人の優しい微笑みだった。
あなたにおすすめの小説
【完結】離縁ですか…では、私が出掛けている間に出ていって下さいね♪
山葵
恋愛
突然、カイルから離縁して欲しいと言われ、戸惑いながらも理由を聞いた。
「俺は真実の愛に目覚めたのだ。マリアこそ俺の運命の相手!」
そうですか…。
私は離婚届にサインをする。
私は、直ぐに役所に届ける様に使用人に渡した。
使用人が出掛けるのを確認してから
「私とアスベスが旅行に行っている間に荷物を纏めて出ていって下さいね♪」
貴妃エレーナ
無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」
後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。
「急に、どうされたのですか?」
「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」
「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」
そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。
どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。
けれど、もう安心してほしい。
私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。
だから…
「陛下…!大変です、内乱が…」
え…?
ーーーーーーーーーーーーー
ここは、どこ?
さっきまで内乱が…
「エレーナ?」
陛下…?
でも若いわ。
バッと自分の顔を触る。
するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。
懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!
完璧な妹に全てを奪われた私に微笑んでくれたのは
今川幸乃
恋愛
ファーレン王国の大貴族、エルガルド公爵家には二人の姉妹がいた。
長女セシルは真面目だったが、何をやっても人並ぐらいの出来にしかならなかった。
次女リリーは逆に学問も手習いも容姿も図抜けていた。
リリー、両親、学問の先生などセシルに関わる人たちは皆彼女を「出来損ない」と蔑み、いじめを行う。
そんな時、王太子のクリストフと公爵家の縁談が持ち上がる。
父はリリーを推薦するが、クリストフは「二人に会って判断したい」と言った。
「どうせ会ってもリリーが選ばれる」と思ったセシルだったが、思わぬ方法でクリストフはリリーの本性を見抜くのだった。
【完結】お父様に愛されなかった私を叔父様が連れ出してくれました。~お母様からお父様への最後のラブレター~
山葵
恋愛
「エリミヤ。私の所に来るかい?」
母の弟であるバンス子爵の言葉に私は泣きながら頷いた。
愛人宅に住み屋敷に帰らない父。
生前母は、そんな父と結婚出来て幸せだったと言った。
私には母の言葉が理解出来なかった。
ワガママを繰り返してきた次女は
柚木ゆず
恋愛
姉のヌイグルミの方が可愛いから欲しい、姉の誕生日プレゼントの方がいいから交換して、姉の婚約者を好きになったから代わりに婚約させて欲しい。ロートスアール子爵家の次女アネッサは、幼い頃からワガママを口にしてきました。
そんなアネッサを両親は毎回注意してきましたが聞く耳を持つことはなく、ついにアネッサは自分勝手に我慢の限界を迎えてしまいます。
『わたくしは酷く傷つきました! しばらく何もしたくないから療養をさせてもらいますわ! 認められないならこのお屋敷を出ていきますわよ!!』
その結果そんなことを言い出してしまい、この発言によってアネッサの日常は大きく変化してゆくこととなるのでした。
※現在体調不良による影響で(すべてにしっかりとお返事をさせていただく余裕がないため)、最新のお話以外の感想欄を閉じさせていただいております。
※11月23日、本編完結。後日、本編では描き切れなかったエピソードを番外編として投稿させていただく予定でございます。
断罪された公爵令嬢に手を差し伸べたのは、私の婚約者でした
カレイ
恋愛
子爵令嬢に陥れられ第二王子から婚約破棄を告げられたアンジェリカ公爵令嬢。第二王子が断罪しようとするも、証拠を突きつけて見事彼女の冤罪を晴らす男が現れた。男は公爵令嬢に跪き……
「この機会絶対に逃しません。ずっと前から貴方をお慕いしていましたんです。私と婚約して下さい!」
ええっ!あなた私の婚約者ですよね!?
幼馴染の婚約者を馬鹿にした勘違い女の末路
今川幸乃
恋愛
ローラ・ケレットは幼馴染のクレアとパーティーに参加していた。
すると突然、厄介令嬢として名高いジュリーに絡まれ、ひたすら金持ち自慢をされる。
ローラは黙って堪えていたが、純粋なクレアはついぽろっとジュリーのドレスにケチをつけてしまう。
それを聞いたローラは顔を真っ赤にし、今度はクレアの婚約者を馬鹿にし始める。
そしてジュリー自身は貴公子と名高いアイザックという男と結ばれていると自慢を始めるが、騒ぎを聞きつけたアイザック本人が現れ……
※短い……はず
夫から「余計なことをするな」と言われたので、後は自力で頑張ってください
今川幸乃
恋愛
アスカム公爵家の跡継ぎ、ベンの元に嫁入りしたアンナは、アスカム公爵から「息子を助けてやって欲しい」と頼まれていた。幼いころから政務についての教育を受けていたアンナはベンの手が回らないことや失敗をサポートするために様々な手助けを行っていた。
しかしベンは自分が何か失敗するたびにそれをアンナのせいだと思い込み、ついに「余計なことをするな」とアンナに宣言する。
ベンは周りの人がアンナばかりを称賛することにコンプレックスを抱えており、だんだん彼女を疎ましく思ってきていた。そしてアンナと違って何もしないクラリスという令嬢を愛するようになっていく。
しかしこれまでアンナがしていたことが全部ベンに回ってくると、次第にベンは首が回らなくなってくる。
最初は「これは何かの間違えだ」と思うベンだったが、次第にアンナのありがたみに気づき始めるのだった。
一方のアンナは空いた時間を楽しんでいたが、そこである出会いをする。