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12 水底の薔薇
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夕方、両親が部屋で休むというので、夕食までの間、アスター伯爵が温室に案内してくれる事になった。私が想像したよりずっと大きな温室で、植物館さながらの広さと設備が備わっている。大温室だ。
「この辺りがハーブや果物。通路沿いに根菜。奥は観賞用で、あっちまで行くと一休みできるベンチがある」
「素晴らしいですね」
「庭園とは別の庭師が専門に管理しているんだ。採れたては美味いよ。ほら、食べてごらん」
歩きながら、アスター伯爵がベリーをひとつちぎった。
手を出す前に、唇に、果実がふれる。知り合って数日の男性に、ものを食べさせてもらうなんて、とてもいけない事のように思う。
でも……
甘酸っぱい果実を噛みながら、彼の煌びやかな微笑みにふれると、すべて正しい事のようにも思えてしまって。
私は、伯爵を見つめたまま、小さな果実を呑み込んだ。
「美味しいだろう?」
「はい……」
少しだけ声を潜めて、彼は笑みを深めた。
「この温室はね、時間と天気で表情を変える。もうすぐ夕立が来るよ」
「え……?」
「特等席へ案内しよう」
またお喋りしながら歩く。
さっきと違うのは、私の視線が無意識に捉えた植物の名前をその都度教えてくれる事。植物にはそんなに詳しくないので、新鮮で楽しい時間になった。
でも、アスター伯爵の言った通り。
少しすると、一面の曇り空に覆われた。
天井まで這う蔦や、背の高い木の葉が、天幕のように思えるのに。その先でバラバラと音を立てて雨が打ち付け、弾けて、星のように流れた。
「……」
「僕は雨が好きだ。君は?」
「……美しいと、思います」
呟いて、もう当たり前のようになっている微笑みに迎えられる。
アスター伯爵の言う特等席というのは、奥のベンチの事だった。
ベンチを囲む薔薇は、ピンク、アプリコット、オレンジ、ホワイト。柔らかくて可愛い巨大なブーケのよう。その中に据えられたベンチにはクッションが備え付けられて、据わって正面にはどこまでも広がる草原。
「温室担当の庭師は愛妻家でね。このベンチで物思いにふけるために、手伝いを申し出るメイドが後を絶たないそうだよ」
「わかります。こんな、御伽噺みたいな、美しい場所……」
雨足が強くなり、柔らかな滝のようにガラスを雨が流れ落ちていく。
雨の音。
雨が打つ音。
花の香り、草木の香り。
世界は、こんなにも、美しい……。
「オリヴィア」
隣に座るアスター伯爵が、ふいに私の名を、囁いた。
私は彼のほうに顔を向けて、その美しさに、目を奪われた。
ずっと、目にしていたはずなのに。
初めて会ったような、それでいて永遠を感じるような、淡く深く、熱い、輝き。
「君の周りには、君に相応しい愛が溢れている。この場所や僕は、君に、悪くないと思うよ?」
「……」
私の中にずっとあった彼への感謝が、ちろりと、別の火を灯す。
カメロン侯爵家の傍の、美しい白い橋。
走るカメロン侯爵夫人。
なだらかな馬車道。
楽しい晩餐。
壮大な葡萄園。
ある場所に立つとその姿がわかる、ひょうたん型の中州。
そして、温室。
私はもう、新しい私なのかもしれない。
その新しい私がいるのは、彼が、隣にいてくれたから。
彼が、導いてくれたから。
「悪くないなんて……素晴らしくて、素敵すぎて、私……」
「君を一目見た瞬間から、僕は、それ以前の僕ではなくなった。僕の見せた景色がもし君の胸を打ったなら、僕にとって君は、それより遥かに素敵なんだという事を今知ってほしい」
見つめられて、言葉がもう出て来なくて、私は、抗えないなにかに従う事しかできなかった。彼の手が頬に触れても、それが、早すぎるとは思えなかった。
思わない自分になっていた。
「私も──」
アスター伯爵が薄く瞼を伏せ、私の見つけられなかった言葉ごと、唇を啄んだ。
稲光。
落雷に、胸の奥が弾む。
雨音に吐息が溶けて、まるで、薔薇の咲き誇る水の底に、沈んだような……
世界にふたりきりのような。
魔法のような。
夢のような。
「君に結婚を申し込みたい。夕立が去るまでに、僕を好きになって」
「伯爵」
「僕が君を想うくらいには、せめて」
もう一度、唇が重なった。
今度は深く、長く、甘く、熱く……
「この辺りがハーブや果物。通路沿いに根菜。奥は観賞用で、あっちまで行くと一休みできるベンチがある」
「素晴らしいですね」
「庭園とは別の庭師が専門に管理しているんだ。採れたては美味いよ。ほら、食べてごらん」
歩きながら、アスター伯爵がベリーをひとつちぎった。
手を出す前に、唇に、果実がふれる。知り合って数日の男性に、ものを食べさせてもらうなんて、とてもいけない事のように思う。
でも……
甘酸っぱい果実を噛みながら、彼の煌びやかな微笑みにふれると、すべて正しい事のようにも思えてしまって。
私は、伯爵を見つめたまま、小さな果実を呑み込んだ。
「美味しいだろう?」
「はい……」
少しだけ声を潜めて、彼は笑みを深めた。
「この温室はね、時間と天気で表情を変える。もうすぐ夕立が来るよ」
「え……?」
「特等席へ案内しよう」
またお喋りしながら歩く。
さっきと違うのは、私の視線が無意識に捉えた植物の名前をその都度教えてくれる事。植物にはそんなに詳しくないので、新鮮で楽しい時間になった。
でも、アスター伯爵の言った通り。
少しすると、一面の曇り空に覆われた。
天井まで這う蔦や、背の高い木の葉が、天幕のように思えるのに。その先でバラバラと音を立てて雨が打ち付け、弾けて、星のように流れた。
「……」
「僕は雨が好きだ。君は?」
「……美しいと、思います」
呟いて、もう当たり前のようになっている微笑みに迎えられる。
アスター伯爵の言う特等席というのは、奥のベンチの事だった。
ベンチを囲む薔薇は、ピンク、アプリコット、オレンジ、ホワイト。柔らかくて可愛い巨大なブーケのよう。その中に据えられたベンチにはクッションが備え付けられて、据わって正面にはどこまでも広がる草原。
「温室担当の庭師は愛妻家でね。このベンチで物思いにふけるために、手伝いを申し出るメイドが後を絶たないそうだよ」
「わかります。こんな、御伽噺みたいな、美しい場所……」
雨足が強くなり、柔らかな滝のようにガラスを雨が流れ落ちていく。
雨の音。
雨が打つ音。
花の香り、草木の香り。
世界は、こんなにも、美しい……。
「オリヴィア」
隣に座るアスター伯爵が、ふいに私の名を、囁いた。
私は彼のほうに顔を向けて、その美しさに、目を奪われた。
ずっと、目にしていたはずなのに。
初めて会ったような、それでいて永遠を感じるような、淡く深く、熱い、輝き。
「君の周りには、君に相応しい愛が溢れている。この場所や僕は、君に、悪くないと思うよ?」
「……」
私の中にずっとあった彼への感謝が、ちろりと、別の火を灯す。
カメロン侯爵家の傍の、美しい白い橋。
走るカメロン侯爵夫人。
なだらかな馬車道。
楽しい晩餐。
壮大な葡萄園。
ある場所に立つとその姿がわかる、ひょうたん型の中州。
そして、温室。
私はもう、新しい私なのかもしれない。
その新しい私がいるのは、彼が、隣にいてくれたから。
彼が、導いてくれたから。
「悪くないなんて……素晴らしくて、素敵すぎて、私……」
「君を一目見た瞬間から、僕は、それ以前の僕ではなくなった。僕の見せた景色がもし君の胸を打ったなら、僕にとって君は、それより遥かに素敵なんだという事を今知ってほしい」
見つめられて、言葉がもう出て来なくて、私は、抗えないなにかに従う事しかできなかった。彼の手が頬に触れても、それが、早すぎるとは思えなかった。
思わない自分になっていた。
「私も──」
アスター伯爵が薄く瞼を伏せ、私の見つけられなかった言葉ごと、唇を啄んだ。
稲光。
落雷に、胸の奥が弾む。
雨音に吐息が溶けて、まるで、薔薇の咲き誇る水の底に、沈んだような……
世界にふたりきりのような。
魔法のような。
夢のような。
「君に結婚を申し込みたい。夕立が去るまでに、僕を好きになって」
「伯爵」
「僕が君を想うくらいには、せめて」
もう一度、唇が重なった。
今度は深く、長く、甘く、熱く……
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