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第31話 申し訳ございませんでした

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「さて、じゃあ僕は仕事に戻るよ」
「仕事?」

 夕食後。
 エリクの言葉に、ヒストリカが冷たい声で返した。

「もしかして、まだ仕事を続けると仰りました?」
「うん、そのつもりだけど……」
「今日の分が終わらなかったのですか?」
「いや、今日の分は……お陰様で終わったよ。明日の分にも手をつけて、少し余裕を持たせようかなと思って」
「でしたら、今日はもう仕事はおしまいです。お風呂に入って、ゆっくりして、早めに寝ましょう」

 ヒストリカが言うと、エリクは「えっ」と目を丸める。

「いやでも、せっかくまで時間があるんだから、明日の分もやっておきたいというか……」
「明日の分は明日やりましょう。人間が一日に発揮できる集中力は限られているのです。朝から日中にかけては集中力も高く、仕事にはもってこいですが、この時間になると頭はヘトヘトに疲れています。なのでこれ以上やっても、効率が悪い上に強いストレスを感じてくるかと」

 ヒストリカの言葉にエリクは言葉を詰まらせた後、ぽつりと言う。

「……毎日夜遅くまで仕事をしていたから、ここで止めるのは落ち着かないんだ」
「やはり、それが理由ですか」

 小さく嘆息してから、ヒストリカは子供に言い聞かせるみたいに言う。

「いいですか。現状のエリク様はまだ、身体が回復し切っていません。確かに昨日は睡眠をしっかり取れたかもしれませんが、回復は一時的なものです。今まで過度な労働を続けてきた反動で、身体は慢性的にボロボロになっているはずなので、しばらくは無理をしない事を心がけてください。本当なら日中も仕事をせずに回復に努めて欲しいくらいなんですが……」

 そこで、ヒストリカは言葉を切った。

 エリクが纏う空気が、みるみるうちに下降していく気配を感じ取ったからだ。

 しん、と静寂が舞い降りる。

 エリクの表情に陰りが差していた。
 ぎゅっと唇を結んで、落ち込んでいるように見える。

 この反応に、ヒストリカは覚えがあった。

 いつだったか。
 元婚約者のハリーに、女性関係の素行が悪い点について注意をした時。
 ハリーは不貞腐れた様子で言った。
 
 ──小言ばっかりうるさいなあ。そんなに人を口撃して、楽しいか?

 その時のハリーと、エリクが重なった。

 どくんっと心臓が跳ねて、身体から体温が引いていく。
 ヒストリカはハッとした。

 今日一日、自分がエリクに浴びせた言葉を思い返す。

 ──起きて朝食も食べずに仕事に取り掛かるなんて、正気ですか?

 ──ダメです。野菜も食べないと、栄養が偏ります。

 ──今日はもう仕事はおしまいです。お風呂に入って、ゆっくりして、早めに寝ましょう

 ……どう解釈しても、口うるさい小言女である。

 言葉だけではない。
 朝起きてから白湯を飲ませ、散歩に連れ出し、毎回の食事の内容も決めて、仕事中はストレッチを指示し、夕食後は仕事を強制的に終わらせにかかる……。

 完全に、エリクの行動を支配しにかかっている悪妻の如きである。
 女の自分にここまで行動を決められて、男のエリクが腹が立たないわけがない。

 昨日、エリクはありのままでいて欲しいと言ってくれたが、流石にこれは度を越しているだろう。
 そもそも自分は嫁いできてまだ一日しか経ってないのに、何様のつもりだろうか。

 冷静に自分の言動を振り返って、公爵家に嫁いできた令嬢が取るべき振る舞いではない。

(サポート役と決めていたのに……出過ぎた真似を……)

 先日、婚約破棄をされた際に感じた、惨めで虚しい感覚が蘇る。
 もうあんな思いはしたくないと、ヒストリカは思った。

 思ったら、勝手に体が動いていた。

「さまざまなご無礼、大変申し訳ございませんでした」

 跪き、両手と頭を床につけ、ヒストリカが誠心誠意の謝罪を口にした。

「えっ、ちょ!? ヒストリカ!? 何してるの!?」

 ヒストリカが突然平伏した事に、エリクが分かりやすく狼狽する。

「子爵家から嫁いできた女の分際であれをしろこれをしろと、出過ぎた真似をしてしまいました。本当に、申し訳ございませんでした」

 もう一度、自分の犯した罪についての謝罪を言葉にするヒストリカ。

「頭を上げて、立ち上がってくれ、ヒストリカ」
「いえ、ですが……」
「いいから」

 普段のエリクらしくない強い声色に、ヒストリカは従う。
 立ち上がってすぐに、エリクは言った。

「ヒストリカが謝る事は一つもないよ。無礼なんて、とんでもない。むしろ僕は、君に感謝しているんだ」
「しかし……先ほどのエリク様は、不服そうに見えました」
「あっ、あー……ごめん。そう見えちゃったか……」

 バツの悪そうに頭を掻いて、エリクは言う。

「ヒストリカの指摘が的確過ぎて、自分が情けなくなっただけだよ。まだ身体が回復し切ってないんだから無理はするなって、まさにその通り過ぎてさ。視野が狭くなって、ただ仕事しか見えていない自分に呆れたというか……とにかく、ヒストリカに腹が立ったとか、そういうのは全然ないから」

 エリクの言葉に、ヒストリカは目を丸める。
 胸に怯えを感じ取りながら、恐る恐る尋ねた。

「エリク様は……気にならないのですか?」
「何をだい?」
「女である私に、こうやって上からものを言われて、従うように強制されて……」
「いや、全然?」

 何も気にしていないと言った表情で答えるエリクに、ヒストリカが少なからず驚きを覚えた。

「ヒストリカが、僕の体調を慮って言ってくれてるのは、わかるからさ。それに腹を立てる事自体おかしな話だろう? むしろ、こんな僕のことを気遣って、行動してくれて……とても、嬉しく思ってる」

 少し間を置いて、ヒストリカは尋ねる。

「何故……エリク様は、そういう事を言えるんですか?」
「そういう事、とは?」
「申し訳ございません、分かりやすく言い換えます」

 頭を回してから、改めて口を開く。
 
「……ヒーデル王国は、男尊女卑の風潮が強い国です。特に貴族の世界では、顕著に見られます」

 昨日今日で感じていた疑問を、ヒストリカは投げかけた。

「ですが、エリク様からそのような気配を全く感じません……なぜでしょうか?」
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