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2. ここにあり
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彼らが探しているヒルデは木が生い茂る森の中にある湖の前に膝をつき、しゃがんでいた。彼らがいる街から随分と離れた、国境に近い場所。まだ早朝という緩やかな日差しのもと、美しい湖と美女……画家が見たら思わず絵筆を取りたくなる構図である。
彼女は美しい顔がはっきりと映る澄んだ湖面に向かって指先を伸ばすとそっと湖面に映る自分の顔を撫でた。
花や草木がそよ風に揺られる音しかしない。彼女は王宮を追放され人目に触れないようにひっそりと森の中で暮らしていた
………………わけではなく
「ヒルデちゃーん!薪割りが終わったら食事の用意を手伝ってもらってもいいかしら?」
「はーい。もう終わったので行きます!」
柔らかい女性の声に応えたヒルデは湖から手を離すと傍らに置いておいた薪をよっこいせ、と背中に背負うとその場から消えた。次に姿を現したのは広大な屋敷裏の薪置場だった。そして背負っていた薪を背中からおろし、残り少なくなっていた薪置き場に積んでいく。すべて終わると再び音もなく姿を消した。
~~~~~
外から姿を消したヒルデは今度は厨房にいた。先程、ヒルデを呼んだ女性と朝食の用意をしていた。グツグツと煮える鍋の中から食欲をそそる香りがする。もうすぐ完成だ。
そのとき厨房に近づいてくる足音に女性たちが気づくと同時に穏やかな男性の声がした。
「ヒルデさん。庭の木の上の方にある枝が折れてしまって……落ちてくると危ないから切ってもらえないかい?」
「はーい。すぐに行きます!」
完成したお鍋の中身をお皿にササッと盛りワゴンに乗せると消えた。次は食事部屋に姿を現すと人の5倍速でテーブルに3人分の食事のセッティングを終え、再び姿を消した。
~~~~~
庭に姿を現したヒルデは木に立てかけた梯子を足場にして、先程厨房から失敬したパンを口にくわえながら言われた枝以外も手際よく切っていく。1本終わると梯子を抱えて隣の木に移動していく、黙々とそれを繰り返していると先程の女性の声が再び聞こえてきた。
「ヒルデちゃーん。昼食の買い出しに行ってもらえるかしらぁ?」
「はーい」
そしてまた消えた。ヒルデが消えた後の庭には、熟練の庭師も息を呑むであろう美麗な楕円を描く木々が整然と並んでいた。
~~~~~
ヒルデが買い出しから帰ってきた後も……
ーーーーヒルデさん。坊っちゃんにお客様がいらっしゃってるからお茶出しお願いできるかい?
ーはい
ーーーーヒルデちゃーん!熊よ!屋敷の中に熊がいるわ!
ーはい
ーーーーヒルデさん。掃除中にすまないが、坊っちゃんが金の計算が合わないと頭を捻っていて……。
ーはい
ーーーーヒルデちゃん。一人でお茶を飲んでもつまらないわ。一緒にお茶を飲みながらお話しましょ。
ーはい
ーーーーヒルデさん。今日の夕飯はどうする?
ーはい…………じゃなくて、先程の熊の丸焼きです。
~~~~~
ヒルデが今何をしているのか……。まあ、いろいろとこきつかわれておりました。彼女がいるところは王都からずーーーーっと離れている伯爵領に住む男爵の屋敷。そこで彼女は住み込みで労働中。
ちなみに彼女の雇い主である男爵家は超貧乏。男爵家は昔やらかしてしまった際に領地は没収され、現在は小さめの森と湖がついた無駄に広大な屋敷を持っている。すなわち非常に維持費がかかる。伯爵領にある広大な土地と家……非常に税金がお高めだった。
維持費は無駄にかかるが、頼みの収入源となる領地もなし。男爵位のお手当てだけでやっていけるはずもなし。男爵が何でも屋のようなことをしてなんとか遣り繰りしていた。使用人を何人も抱える余裕はなく、いるのは齢70歳を越えた老夫婦とヒルデのみ。
すなわち先程何度もヒルデの名前を繰り返し呼んでいた男女は70歳を越える老夫婦。老夫婦に無理はさせられない。そして、させられたくない老夫婦にありとあらゆることにおいて有能な彼女はこきつかわれているわけであった。今も窓掃除をせっせかと行っている。
「おい、ヒルデ。お前ちゃんと休んでるか?仕事もほどほどにしておけよ」
窓拭き中のヒルデにそう声をかけたのは、彼女の雇用主であるトーマス・デュラン男爵。茶色の髪と瞳、顔はなかなかのイケてるメンズといえなくもない。が、筋肉隆々の身体の方に目をもっていかれてしまう22歳独身男性。
こきつかわれてはいるものの別にいじめられているわけではない。できる範囲の仕事をやっているだけのこと。ブラック並みの人使いの荒さだが老使用人夫妻も本当の孫のように可愛がってくれている。将軍として部下のやらかしの尻ぬぐい、陛下からのお小言、その他書類仕事や雑用、ネチネチと高位貴族たちから嫌味を言われる生活に比べたらなんと楽なことか。…………まあ、高位貴族からの嫌味などなんとも思っていなかったが。だが、戦場に出て人の生き死にに関わっていくことは苦痛だった。やはり人を手に掛けるということは気分の良いものではなかった。
それに主人であるトーマスもこうやって、気にかけてくれる。まあ、口だけだが。彼もなかなか人使いの荒いこと荒いこと……。
「口だけですので結構ですよ」
( その御心だけで十分ですよ )
「…………言ってることと、思ってることが逆だぞ」
「あら、失礼致しました。坊ちゃま」
「坊ちゃま言うな。名前か男爵と呼べ」
「こちらにいらっしゃる使用人は全員坊ちゃま、坊っちゃんと呼んでいらっしゃいますのに……私だけ仲間外れにされるのですか……」
よよよ……とハンカチを目にあてるが、どう見ても涙は出ていない。カラッカラである。
「全員って……2人だけだろうが。2人は俺が赤ん坊のときからいるから、爵位を継いだ後もそう呼んでいるだけだ」
「お二人共坊ちゃま・坊っちゃん呼びに馴染みがあるわけですね。私がここに来た日から毎日坊ちゃま・坊っちゃんと聞いているので馴染みがあるのです。むしろそれ以外の呼び方は違和感が……」
頬に手を当て首をこてんと傾げる。ちなみにもちろんそんなことは思っていない。別に男爵と呼んでも構わないのだが、からかうと良い反応をするのでただの嫌がらせだ。
「……まあお客様がいるときはちゃんとしろよ。それにしても、お前がここに来てから3年か。お前も28歳になったか」
結局折れるのはトーマスだった。
「年齢を言う必要性は感じませんが。そうですね……あの奇跡の出会いからもう3年も経ったんですね……」
乙女の年齢を軽々しく言うとは……紳士としてあるまじき行いと思いつつ、トーマスの言葉に3年前の出会いを思い出す。トーマスも遠い目をしているので、思い出しているようだった。
その表情はヒルデの顔は懐かしげに……トーマスの顔は苦々しげだった……
彼女は美しい顔がはっきりと映る澄んだ湖面に向かって指先を伸ばすとそっと湖面に映る自分の顔を撫でた。
花や草木がそよ風に揺られる音しかしない。彼女は王宮を追放され人目に触れないようにひっそりと森の中で暮らしていた
………………わけではなく
「ヒルデちゃーん!薪割りが終わったら食事の用意を手伝ってもらってもいいかしら?」
「はーい。もう終わったので行きます!」
柔らかい女性の声に応えたヒルデは湖から手を離すと傍らに置いておいた薪をよっこいせ、と背中に背負うとその場から消えた。次に姿を現したのは広大な屋敷裏の薪置場だった。そして背負っていた薪を背中からおろし、残り少なくなっていた薪置き場に積んでいく。すべて終わると再び音もなく姿を消した。
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外から姿を消したヒルデは今度は厨房にいた。先程、ヒルデを呼んだ女性と朝食の用意をしていた。グツグツと煮える鍋の中から食欲をそそる香りがする。もうすぐ完成だ。
そのとき厨房に近づいてくる足音に女性たちが気づくと同時に穏やかな男性の声がした。
「ヒルデさん。庭の木の上の方にある枝が折れてしまって……落ちてくると危ないから切ってもらえないかい?」
「はーい。すぐに行きます!」
完成したお鍋の中身をお皿にササッと盛りワゴンに乗せると消えた。次は食事部屋に姿を現すと人の5倍速でテーブルに3人分の食事のセッティングを終え、再び姿を消した。
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庭に姿を現したヒルデは木に立てかけた梯子を足場にして、先程厨房から失敬したパンを口にくわえながら言われた枝以外も手際よく切っていく。1本終わると梯子を抱えて隣の木に移動していく、黙々とそれを繰り返していると先程の女性の声が再び聞こえてきた。
「ヒルデちゃーん。昼食の買い出しに行ってもらえるかしらぁ?」
「はーい」
そしてまた消えた。ヒルデが消えた後の庭には、熟練の庭師も息を呑むであろう美麗な楕円を描く木々が整然と並んでいた。
~~~~~
ヒルデが買い出しから帰ってきた後も……
ーーーーヒルデさん。坊っちゃんにお客様がいらっしゃってるからお茶出しお願いできるかい?
ーはい
ーーーーヒルデちゃーん!熊よ!屋敷の中に熊がいるわ!
ーはい
ーーーーヒルデさん。掃除中にすまないが、坊っちゃんが金の計算が合わないと頭を捻っていて……。
ーはい
ーーーーヒルデちゃん。一人でお茶を飲んでもつまらないわ。一緒にお茶を飲みながらお話しましょ。
ーはい
ーーーーヒルデさん。今日の夕飯はどうする?
ーはい…………じゃなくて、先程の熊の丸焼きです。
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ヒルデが今何をしているのか……。まあ、いろいろとこきつかわれておりました。彼女がいるところは王都からずーーーーっと離れている伯爵領に住む男爵の屋敷。そこで彼女は住み込みで労働中。
ちなみに彼女の雇い主である男爵家は超貧乏。男爵家は昔やらかしてしまった際に領地は没収され、現在は小さめの森と湖がついた無駄に広大な屋敷を持っている。すなわち非常に維持費がかかる。伯爵領にある広大な土地と家……非常に税金がお高めだった。
維持費は無駄にかかるが、頼みの収入源となる領地もなし。男爵位のお手当てだけでやっていけるはずもなし。男爵が何でも屋のようなことをしてなんとか遣り繰りしていた。使用人を何人も抱える余裕はなく、いるのは齢70歳を越えた老夫婦とヒルデのみ。
すなわち先程何度もヒルデの名前を繰り返し呼んでいた男女は70歳を越える老夫婦。老夫婦に無理はさせられない。そして、させられたくない老夫婦にありとあらゆることにおいて有能な彼女はこきつかわれているわけであった。今も窓掃除をせっせかと行っている。
「おい、ヒルデ。お前ちゃんと休んでるか?仕事もほどほどにしておけよ」
窓拭き中のヒルデにそう声をかけたのは、彼女の雇用主であるトーマス・デュラン男爵。茶色の髪と瞳、顔はなかなかのイケてるメンズといえなくもない。が、筋肉隆々の身体の方に目をもっていかれてしまう22歳独身男性。
こきつかわれてはいるものの別にいじめられているわけではない。できる範囲の仕事をやっているだけのこと。ブラック並みの人使いの荒さだが老使用人夫妻も本当の孫のように可愛がってくれている。将軍として部下のやらかしの尻ぬぐい、陛下からのお小言、その他書類仕事や雑用、ネチネチと高位貴族たちから嫌味を言われる生活に比べたらなんと楽なことか。…………まあ、高位貴族からの嫌味などなんとも思っていなかったが。だが、戦場に出て人の生き死にに関わっていくことは苦痛だった。やはり人を手に掛けるということは気分の良いものではなかった。
それに主人であるトーマスもこうやって、気にかけてくれる。まあ、口だけだが。彼もなかなか人使いの荒いこと荒いこと……。
「口だけですので結構ですよ」
( その御心だけで十分ですよ )
「…………言ってることと、思ってることが逆だぞ」
「あら、失礼致しました。坊ちゃま」
「坊ちゃま言うな。名前か男爵と呼べ」
「こちらにいらっしゃる使用人は全員坊ちゃま、坊っちゃんと呼んでいらっしゃいますのに……私だけ仲間外れにされるのですか……」
よよよ……とハンカチを目にあてるが、どう見ても涙は出ていない。カラッカラである。
「全員って……2人だけだろうが。2人は俺が赤ん坊のときからいるから、爵位を継いだ後もそう呼んでいるだけだ」
「お二人共坊ちゃま・坊っちゃん呼びに馴染みがあるわけですね。私がここに来た日から毎日坊ちゃま・坊っちゃんと聞いているので馴染みがあるのです。むしろそれ以外の呼び方は違和感が……」
頬に手を当て首をこてんと傾げる。ちなみにもちろんそんなことは思っていない。別に男爵と呼んでも構わないのだが、からかうと良い反応をするのでただの嫌がらせだ。
「……まあお客様がいるときはちゃんとしろよ。それにしても、お前がここに来てから3年か。お前も28歳になったか」
結局折れるのはトーマスだった。
「年齢を言う必要性は感じませんが。そうですね……あの奇跡の出会いからもう3年も経ったんですね……」
乙女の年齢を軽々しく言うとは……紳士としてあるまじき行いと思いつつ、トーマスの言葉に3年前の出会いを思い出す。トーマスも遠い目をしているので、思い出しているようだった。
その表情はヒルデの顔は懐かしげに……トーマスの顔は苦々しげだった……
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