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第五章 | 樽廻船の女船長、商人の町へ行く
樽廻船の女船長、商人の町へ 其ノ拾参
しおりを挟む覚悟が決まると、腹は据わるものだ。全身の血がすうっと足元に落ちていくような感覚と共に、頭がどんどんと冴えていく。
「お見苦しいところを見せてしまい、失礼いたしました。どうぞご覧ください」
つるはザルを村岡に差し出した。
急に態度が変わったつるを、村岡は忌々しいものでも見るようにねめつけると、ザルの中を覗き込む。
「なんだこれは?」
村岡は芽が絡まった麦を、気持ち悪そうにつまみ上げる。
「麦でございます」
「麦だと?ではなぜこんなにおかしな姿をしておる」
つるたちの周りには、先ほどよりも多くの人々が集まり、皆何ごとかと黙って聞き耳をたてていた。その中には柳やの常連の顔も多くある。開店時間だから店に来たのだろう。荒くれものと呼ばれる、歌舞伎な彼らの姿が今日は本当に心強かった。
「大麦は水に浸して発芽させることで、このような姿になります。友人である夏が麦湯をさらに美味しくする方法を考えたいとのことで、我が家の裏で一緒に試行錯誤していたところでございました」
「……ではこれはびいるに使うものではないと?そう申すのか?」
村岡の声は低くなり、目つきが険しくなる。つるに向けられた刀に力が込められるのがわかる。
「この麦は屋台『麦湯』のもの。今年購入した最後の麦ゆえ、誤解されたら困ると思い咄嗟におかしな行動をとってしまったこと、お許しください」
「誰がそんなことを信じられるか!その麦がびいるに使用するものでないと、どうして言い切れる!」
後ろにいた男の一人が声を上げ、周りの男たちも「そうだそうだ!」と叫ぶ。
「大麦は麦湯をつくるものでございます。わたしは伊丹に長年続く酒蔵の娘。実際に酒を造ることはできませんが、もちろん酒造りの方法は存じております。酒に必要な材料は、米、麹、水。それらを杜氏たちが酒にしていきます」
つるの言葉に、町の人々がひそひそと話し始める。
「酒をつくるためには米だよな」
「俺だって酒の材料くらいわかるぞ」
「逆に米以外の酒なんて存在するのか?」
「あれ、麦だろ……?」
始めはひそひそだった話し声は、次第にざわざわへと変わっていく。
「つるちゃん、一体全体どうしたってんだ?」
「あんないい子が悪さをするわけがないでしょ?え、あの麦が問題で問い詰められてるの?嘘でしょ!どうしてまた」
「なんだかよくわかんねえけど、麦に芽生やすことの何が悪いんだ」
「おい、誰か呼んできた方がいいか?」
気づけば裏路地には人だかりができ、皆がつると村岡達の会話に耳をそばだてていた。
「……っ」
村岡はつるを刺すような目で見ると、地面に唾を吐き捨て、刀を鞘に戻した。
「おい娘、いま発した言葉がもしも嘘だったとしたら……どうなるかわかってるだろうな」
つるは真っすぐに前を向いたまま頷いた。
「なにも間違ったことは申しておりません」
村岡は再びつるを睨みつけると、麦の入ったザルを蹴り飛ばした。麦が宙を舞い、四方八方に散らばる。
「……いくぞ。こんなくだらないことにかまけている暇はない」
村岡達が去ると、つるはふにゃふにゃとその場に崩れ落ちた。全身から力が抜け、急に涙が溢れてくるのがわかる。
「つるちゃん!!!」
夏が泣きながら走り寄ってくる。
「ごめん……ごめん!わたしが変なことを言っちゃったからこんなことになっちゃって……本当にごめん」
泣きじゃくる夏を抱きかかえるようにして、つるは笑う。
「夏のせいじゃないよ。泣かないで。それにほら、わたし嘘はひとつもついてないし」
夏とつるの周りに人が集まってくる。皆「大丈夫か?」と心配しながら、散らばった麦を集めてくれていた。
「わたしは事実をただ述べただけ。あ、でもこの麦を麦湯のためにつくってる、っていっちゃったから……これちょっと使って麦湯にすれば全然大丈夫でしょ。一緒につくってくれるよね?」
泣きながら、うんうんと頷く夏を、つるはぎゅうっと夏を抱きしめた。
「大丈夫。きっともう大丈夫。麦は守れた」
つるは手元に戻ってきた麦にそっと触れると、空を見上げた。いつの間にか日は傾き、真っ赤な夕陽があたりを照らしている。開店の時間だ。常連客たちもきっと待っていることだろう。
「大丈夫。これからも絶対わたしが守るから」
つるは麦の入ったザルを引き寄せると、にっこり笑って夏の背中を叩いた。
「さ、いつまで泣いてるのさ。これしきのこと、屁でもないよ。びいるを造るって決めた時に異端児になることも決めたんだ。これしきのことでへこたれちゃいられないよ!」
喜兵寿となおが帰ってくるまで、あと1月程。また村岡達がここにやってくるかもしれない。それでも。それでもわたしはこの麦を死守する。
つるはそう固く心に決めると、夏を連れて店へと戻った
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