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第十二章 集結
一話
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──…
水の揺れる音が、絶えず耳に入ってくる。
ふて寝を決め込んでいた少年は、不意に生じた尿意に、重い身体を起こした。
独房の名の通り──この場所は、光さえまともに差さない、閉ざされた空間だった。硬い石床に、金属の壁と格子。見上げれば、裸の電球が下げられている。
気の遠くなるような時間を、ただ待つだけに捧げた。終わりは見えない。それでも、欲は沸き起こる。腹は減るし、眠気も襲ってくる。壁際に張られた水路に用を足すと、少し気が紛れた。慣れない人間にとっては、狂いそうになるほどの環境だが、少年は正気だった。
これは、罰だ。
たかが数日のこと。しかし、囚人のような暮らしに、納得はしていない。
と──階下へ降りてくる足音に、少年は、慌てて石床に寝転がった。
二人分のそれは、ゆっくりとこちらへ近付き、扉の前で止まる。錠に鍵を差し込む音と、軋むように扉が開けられる音が、続けて響いた。
少年は動かない。背を向け、一切の反応を見せない。それが、小さな抵抗だ。理不尽に自由を奪われたことへの、彼なりの抗議でもある。
そもそも地下牢へは、見回りさえろくにやって来ない。一日に三度の食事、それだけ。囚人であれば、取り調べや医師が訪ねることもあるだろうが、ここは放置だ。食事の時間になると、担当の人間が現れ、替わりに空になった食皿を下げていく。
そして、遠くから流れてくる、時を報せる鐘。
わずかな情報が、彼の生活を支えていた。
今回の訪問者は、食事の担当ではないようだ。独房内へ足を踏み入れると、後方に控えていたもう一人に声を掛け、下がらせる。
しばらくの、沈黙──
少年は狸寝入りを諦め、上体を起こして振り返った。
「なんだよ」
「元気そうじゃないか」
まだ十代。幼さを残す相手に、中年の男が、ふっと笑って見せる。
彼の態度に、少年は余計に不機嫌になった。
「元気なもんか」
「飯は食えているな。動かない分、肉が付いただろう。なまっているんじゃないか?」
独房での数日が、どれだけ地獄のようか、想像ができないわけではない。それでいて、当人に向かって、冗談を吐いているのだ。
少年は男を見上げ、睨む。
「俺は謝らない」
まるで、駄々をこねる子どもだ。
「誰が、謝れと言った?」
「その話をしに来たんだろう?」
「だから、誰が謝れと言ったんだ。私は言ってなどいない」
「でも……」
「耐えろ、と言ったんだ」
開いた口をそのままで、少年はしばらく考え込む。掛けられた言葉の意味を探り、視線を宙に彷徨わせる。
鐘五刻。聞き慣れた報せが、地下にまで届く。
「……同じじゃないか」
少年は落ち着きを取り戻し、息を吐き出した。
彼を見つめる男の眼は、ひどく優しい。そして、哀れみを含んでいる。
繰り返される日常は──おそらく少年にとって、生きづらいことだらけだろう。取り巻く環境は、彼に合わせてなどくれない。ならば本人が、順応していくべきではあるが、まだ若かった。
境遇に耐えろ。理不尽は、諦めろ。──男は常に、そう助言をしていた。幾度もの絶望を感じた際に、痛みが少しでも減るように。
「テオには、分からない」
少年は両脚を投げ出し、悲しそうに呟いた。
「分からないよ、一生掛かったって……」
「分かるさ」
思いがけない返事に、少年は視線を再び戻す。
男は、遠くを眺めるように佇み、口を開いた。
──…分かるさ。私の──
──…私の──
マフラーが引かれ、ジュノーの心臓は跳ねた。
「入れ」
ジャックスに強く押され、よろめきながら、扉をくぐった。
積み荷に紛れ、死んだように縮こまっていた身体が、久々に解放される。関節が少し痛むが、軽く鳴らすとましになった。
明るい陽の下で、黒衣は目立ち過ぎると、ジュノーは旅人のような恰好だった。肌はほぼ隠れており、顔は、マフラーで可能な限り覆った。
彼らの立つ場所。それは、別れも告げられないまま、八年間踏むことのなかった、懐かしい地だ。
南ガラハン公国、宮殿──
「一人追加とは、聞いていません。勝手な動きをされては、こちらも手を貸せなくなりますよ」
二人を秘密裏に招き入れたのは、初老の侍女だった。
「固いこと、言うなって」
聞いているのか、いないのか。ジャックスは懐から拳銃を出し、装填してある銃弾を数える。そして、コートの胸の内側に手を入れると、札束を掴んだ。それを侍女に押し付ける。
侍女は黙って受け取り、ジュノーを一瞥すると、物置小屋から去っていった。
ジャックスは、警戒心をまとったまま、その後ろ姿を見送る。
「今のばあさんに、見覚えは?」
「……いや」
「変に詮索もねえし、素直に金は受け取った。洩らすとは考えたくねえが……今の顔、頭に入れとけよ」
ジュノーの目の前に、拳銃が差し出される。
「七発」
ジャックスが、短く伝えた。
突然のことに、ジュノーが呆気に取られていると、さらに追い打ちを掛けてくる。
「撃ち方は?」
「知っている」
ジュノーは少しむっとして、言い返した。得物を腰に差し、上着の裾で隠す。実弾を扱うのは数年ぶりで、その重さに驚きはあったが、悟られないように取り繕う。できれば撃ちたくはない。──が、そうも言っていられない。
対してジャックスは、普段通りの振る舞いだ。小屋の中を物色し、見知った穀物を探り当てると、気にせず口に入れた。
「取りあえず、鐘が四回。聞こえたら、ここから出るぞ」
鐘四刻。──染み付いた教えが、ジュノーの脳に蘇る。
「どこに……」
「情報はある。お前らの、団長だった奴の書斎だ」
テオ。
──無意識に、手に妙な力が入るのを、ジュノーは感じ取っていた。
水の揺れる音が、絶えず耳に入ってくる。
ふて寝を決め込んでいた少年は、不意に生じた尿意に、重い身体を起こした。
独房の名の通り──この場所は、光さえまともに差さない、閉ざされた空間だった。硬い石床に、金属の壁と格子。見上げれば、裸の電球が下げられている。
気の遠くなるような時間を、ただ待つだけに捧げた。終わりは見えない。それでも、欲は沸き起こる。腹は減るし、眠気も襲ってくる。壁際に張られた水路に用を足すと、少し気が紛れた。慣れない人間にとっては、狂いそうになるほどの環境だが、少年は正気だった。
これは、罰だ。
たかが数日のこと。しかし、囚人のような暮らしに、納得はしていない。
と──階下へ降りてくる足音に、少年は、慌てて石床に寝転がった。
二人分のそれは、ゆっくりとこちらへ近付き、扉の前で止まる。錠に鍵を差し込む音と、軋むように扉が開けられる音が、続けて響いた。
少年は動かない。背を向け、一切の反応を見せない。それが、小さな抵抗だ。理不尽に自由を奪われたことへの、彼なりの抗議でもある。
そもそも地下牢へは、見回りさえろくにやって来ない。一日に三度の食事、それだけ。囚人であれば、取り調べや医師が訪ねることもあるだろうが、ここは放置だ。食事の時間になると、担当の人間が現れ、替わりに空になった食皿を下げていく。
そして、遠くから流れてくる、時を報せる鐘。
わずかな情報が、彼の生活を支えていた。
今回の訪問者は、食事の担当ではないようだ。独房内へ足を踏み入れると、後方に控えていたもう一人に声を掛け、下がらせる。
しばらくの、沈黙──
少年は狸寝入りを諦め、上体を起こして振り返った。
「なんだよ」
「元気そうじゃないか」
まだ十代。幼さを残す相手に、中年の男が、ふっと笑って見せる。
彼の態度に、少年は余計に不機嫌になった。
「元気なもんか」
「飯は食えているな。動かない分、肉が付いただろう。なまっているんじゃないか?」
独房での数日が、どれだけ地獄のようか、想像ができないわけではない。それでいて、当人に向かって、冗談を吐いているのだ。
少年は男を見上げ、睨む。
「俺は謝らない」
まるで、駄々をこねる子どもだ。
「誰が、謝れと言った?」
「その話をしに来たんだろう?」
「だから、誰が謝れと言ったんだ。私は言ってなどいない」
「でも……」
「耐えろ、と言ったんだ」
開いた口をそのままで、少年はしばらく考え込む。掛けられた言葉の意味を探り、視線を宙に彷徨わせる。
鐘五刻。聞き慣れた報せが、地下にまで届く。
「……同じじゃないか」
少年は落ち着きを取り戻し、息を吐き出した。
彼を見つめる男の眼は、ひどく優しい。そして、哀れみを含んでいる。
繰り返される日常は──おそらく少年にとって、生きづらいことだらけだろう。取り巻く環境は、彼に合わせてなどくれない。ならば本人が、順応していくべきではあるが、まだ若かった。
境遇に耐えろ。理不尽は、諦めろ。──男は常に、そう助言をしていた。幾度もの絶望を感じた際に、痛みが少しでも減るように。
「テオには、分からない」
少年は両脚を投げ出し、悲しそうに呟いた。
「分からないよ、一生掛かったって……」
「分かるさ」
思いがけない返事に、少年は視線を再び戻す。
男は、遠くを眺めるように佇み、口を開いた。
──…分かるさ。私の──
──…私の──
マフラーが引かれ、ジュノーの心臓は跳ねた。
「入れ」
ジャックスに強く押され、よろめきながら、扉をくぐった。
積み荷に紛れ、死んだように縮こまっていた身体が、久々に解放される。関節が少し痛むが、軽く鳴らすとましになった。
明るい陽の下で、黒衣は目立ち過ぎると、ジュノーは旅人のような恰好だった。肌はほぼ隠れており、顔は、マフラーで可能な限り覆った。
彼らの立つ場所。それは、別れも告げられないまま、八年間踏むことのなかった、懐かしい地だ。
南ガラハン公国、宮殿──
「一人追加とは、聞いていません。勝手な動きをされては、こちらも手を貸せなくなりますよ」
二人を秘密裏に招き入れたのは、初老の侍女だった。
「固いこと、言うなって」
聞いているのか、いないのか。ジャックスは懐から拳銃を出し、装填してある銃弾を数える。そして、コートの胸の内側に手を入れると、札束を掴んだ。それを侍女に押し付ける。
侍女は黙って受け取り、ジュノーを一瞥すると、物置小屋から去っていった。
ジャックスは、警戒心をまとったまま、その後ろ姿を見送る。
「今のばあさんに、見覚えは?」
「……いや」
「変に詮索もねえし、素直に金は受け取った。洩らすとは考えたくねえが……今の顔、頭に入れとけよ」
ジュノーの目の前に、拳銃が差し出される。
「七発」
ジャックスが、短く伝えた。
突然のことに、ジュノーが呆気に取られていると、さらに追い打ちを掛けてくる。
「撃ち方は?」
「知っている」
ジュノーは少しむっとして、言い返した。得物を腰に差し、上着の裾で隠す。実弾を扱うのは数年ぶりで、その重さに驚きはあったが、悟られないように取り繕う。できれば撃ちたくはない。──が、そうも言っていられない。
対してジャックスは、普段通りの振る舞いだ。小屋の中を物色し、見知った穀物を探り当てると、気にせず口に入れた。
「取りあえず、鐘が四回。聞こえたら、ここから出るぞ」
鐘四刻。──染み付いた教えが、ジュノーの脳に蘇る。
「どこに……」
「情報はある。お前らの、団長だった奴の書斎だ」
テオ。
──無意識に、手に妙な力が入るのを、ジュノーは感じ取っていた。
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