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29 記憶の鍵が開く
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放課後の空き教室。
差し込む西日が、床に長く影を引いていた。
静まり返った空間のなか、ノエルは教壇の前に立ち、手に持った資料をユリスへ差し出した。
「……例の火災で保護された少年たちの記録を調べてみた」
その声は平静を装っていたが、奥にある緊張は隠せなかった。
ユリスは黙って資料を受け取り、一枚目に目を通した。
> 氏名:フラン・ロシュ
年齢:7歳
性別:Ω(オメガ)
出身:不明
状況:孤児として施設へ収容後、火災により行方不明(死亡扱い)
「……フラン……?」
口に出したその名前は、自分のものとは思えないほど遠く感じた。
ノエルは静かに続ける。
「この“孤児”って表記は表向きのもので、本当は“親によって売られた記録”が裏にあった」
ページをめくると、細かく書かれた備考欄に、小さな文字でこう記されていた。
> 『保護者による非合法売買ルート使用の疑いあり。親権喪失。父親は行方不明』
ユリスの手がわずかに震えた。
「……オメガの子どもを、商品として……」
「父親はベータ。調査が入る直前に逃げて、その後消息不明」
それを聞いた瞬間、何かが決壊した。
――無機質な白い壁。小さなベッド。窓のない部屋。
拘束ベルト。
「黙れ。なんでオメガなんて産んだん」「お前は商品だ」
背筋を凍らせる声。冷たい手。感情のない父の瞳――
膝が砕けるように力を失い、その場に崩れ落ちた。
「……僕が……フラン……?」
声にならない声。世界が反転し、意識は闇の底へと沈んでいった。
---
「ユリス! しっかりして!」
「だれか、医務室に!」
ノエルとテオの叫びが響き、慌ただしくユリスの身体が抱え上げられる。
廊下を駆け抜け、医務室のドアが勢いよく開け放たれた。
白衣の男がすぐに立ち上がると、手際よくベッドを指し示した。
「寝かせて。過呼吸とショック症状だな、急がなくていい」
医師の動きは迅速で、しかしどこか慈しむような優しさがあった。
鎮静剤と酸素吸入。ユリスの顔から、次第に青ざめた色が薄れていく。
やがて、ユリスのまぶたがゆっくりと震え、かすかに開いた。
「……ここは……」
「医務室だよ、ユリス。安心していい」
クラウス医師が落ち着いた声で、震える意識をなだめた。
クラウス医師は少し間を取り、静かに語り始める。
「君が“フラン”である可能性は――ほぼ間違いない」
ユリスの視線が、揺れた。
「火災の前後、施設にいた子どもたちの中で、彼の年齢・特徴と一致するのは君しかいない。資料には書かれていないが、僕もあの時、ひとりの少年を……」
言葉を切ると、クラウスは穏やかに表情を和らげた。
「その頃、まだ五歳くらいだった君には、いつもそばにいてくれた年上の少年がいたはずだ」
ユリスは反応しない。ただ、目だけが僅かに揺れていた。
「名前は――ジュリオ。覚えていないかい?」
その名前が落ちた瞬間、心の奥で、何かが軋んだ。
――光の射す白い部屋。
年上の少年の膝の上で、抱かれている小さな自分。
「フラン、今日はどんな夢を見た?」
絵本。歌。あたたかい声。
……その腕の中が世界のすべてだった。
「……ジュリオ……」
ユリスは、夢の中の自分のように呟いた。
クラウスは微かに頷く。
「彼は、君のことをとても大事にしていた。
怖がっていた君の頭を撫で、何度も“だいじょうぶだ”って繰り返していた。
誰よりも、君を守ろうとしていた」
「……覚えてる……あの匂いと声……」
「ジュリオも、君と同じ“希少なオメガ”だった。
だからこそ、あの場所に拘束されていた。
でも――火災の少し前、彼は突然姿を消した」
ユリスが、はっと顔を上げた。
「……え?」
「記録はない。ただ、誰かに連れていかれた可能性が高い。」
ユリスの喉が、音を立てて震えた。
「僕……ジュリオに、守られてた……あの人は……兄みたいで…
誰からも愛されなかった僕に、“心”ってものを、教えてくれた……」
しばらく沈黙が流れたあと、クラウスはそっと言った。
「……本当はね。ジュリオのことを話すとき、君に重なる瞬間がある。……いや、気にしないで」
それ以上語らなかったが、その言葉の“あと”に何があったか、ユリスには分からなかった。
「……でも、君の中には、ちゃんと彼との記憶が残っている。
記憶が曖昧でも、心がそれを覚えているんだよ」
ユリスは、枕元のシーツを握りしめる。
「……あの人の分まで、生きなくちゃいけない気がする。
……でも、俺は……どうして、忘れてたんだろう……?」
「忘れたんじゃない。耐えるために、心が閉ざしていたんだ。
君は弱くなんかない。生き延びたことが、強さの証だよ」
クラウスの言葉は、静かに、しかし確かな重みでユリスの胸に届いた。
「けれど大切なのは、“過去の名前”じゃない。“今の君”なんだ。
フランであっても、ユリスであることに変わりはない」
その一言が、まるで救いのようだった。
ユリスは、かすかに微笑み――目を閉じる。
扉の向こう、ノエルとテオの声がかすかに聞こえる。
気遣う気配が、安らかな眠りを呼んだ。
“ジュリオ”――
その名を胸の奥で呼んだとき、幼い日のぬくもりが、笑ってくれた気がした。
差し込む西日が、床に長く影を引いていた。
静まり返った空間のなか、ノエルは教壇の前に立ち、手に持った資料をユリスへ差し出した。
「……例の火災で保護された少年たちの記録を調べてみた」
その声は平静を装っていたが、奥にある緊張は隠せなかった。
ユリスは黙って資料を受け取り、一枚目に目を通した。
> 氏名:フラン・ロシュ
年齢:7歳
性別:Ω(オメガ)
出身:不明
状況:孤児として施設へ収容後、火災により行方不明(死亡扱い)
「……フラン……?」
口に出したその名前は、自分のものとは思えないほど遠く感じた。
ノエルは静かに続ける。
「この“孤児”って表記は表向きのもので、本当は“親によって売られた記録”が裏にあった」
ページをめくると、細かく書かれた備考欄に、小さな文字でこう記されていた。
> 『保護者による非合法売買ルート使用の疑いあり。親権喪失。父親は行方不明』
ユリスの手がわずかに震えた。
「……オメガの子どもを、商品として……」
「父親はベータ。調査が入る直前に逃げて、その後消息不明」
それを聞いた瞬間、何かが決壊した。
――無機質な白い壁。小さなベッド。窓のない部屋。
拘束ベルト。
「黙れ。なんでオメガなんて産んだん」「お前は商品だ」
背筋を凍らせる声。冷たい手。感情のない父の瞳――
膝が砕けるように力を失い、その場に崩れ落ちた。
「……僕が……フラン……?」
声にならない声。世界が反転し、意識は闇の底へと沈んでいった。
---
「ユリス! しっかりして!」
「だれか、医務室に!」
ノエルとテオの叫びが響き、慌ただしくユリスの身体が抱え上げられる。
廊下を駆け抜け、医務室のドアが勢いよく開け放たれた。
白衣の男がすぐに立ち上がると、手際よくベッドを指し示した。
「寝かせて。過呼吸とショック症状だな、急がなくていい」
医師の動きは迅速で、しかしどこか慈しむような優しさがあった。
鎮静剤と酸素吸入。ユリスの顔から、次第に青ざめた色が薄れていく。
やがて、ユリスのまぶたがゆっくりと震え、かすかに開いた。
「……ここは……」
「医務室だよ、ユリス。安心していい」
クラウス医師が落ち着いた声で、震える意識をなだめた。
クラウス医師は少し間を取り、静かに語り始める。
「君が“フラン”である可能性は――ほぼ間違いない」
ユリスの視線が、揺れた。
「火災の前後、施設にいた子どもたちの中で、彼の年齢・特徴と一致するのは君しかいない。資料には書かれていないが、僕もあの時、ひとりの少年を……」
言葉を切ると、クラウスは穏やかに表情を和らげた。
「その頃、まだ五歳くらいだった君には、いつもそばにいてくれた年上の少年がいたはずだ」
ユリスは反応しない。ただ、目だけが僅かに揺れていた。
「名前は――ジュリオ。覚えていないかい?」
その名前が落ちた瞬間、心の奥で、何かが軋んだ。
――光の射す白い部屋。
年上の少年の膝の上で、抱かれている小さな自分。
「フラン、今日はどんな夢を見た?」
絵本。歌。あたたかい声。
……その腕の中が世界のすべてだった。
「……ジュリオ……」
ユリスは、夢の中の自分のように呟いた。
クラウスは微かに頷く。
「彼は、君のことをとても大事にしていた。
怖がっていた君の頭を撫で、何度も“だいじょうぶだ”って繰り返していた。
誰よりも、君を守ろうとしていた」
「……覚えてる……あの匂いと声……」
「ジュリオも、君と同じ“希少なオメガ”だった。
だからこそ、あの場所に拘束されていた。
でも――火災の少し前、彼は突然姿を消した」
ユリスが、はっと顔を上げた。
「……え?」
「記録はない。ただ、誰かに連れていかれた可能性が高い。」
ユリスの喉が、音を立てて震えた。
「僕……ジュリオに、守られてた……あの人は……兄みたいで…
誰からも愛されなかった僕に、“心”ってものを、教えてくれた……」
しばらく沈黙が流れたあと、クラウスはそっと言った。
「……本当はね。ジュリオのことを話すとき、君に重なる瞬間がある。……いや、気にしないで」
それ以上語らなかったが、その言葉の“あと”に何があったか、ユリスには分からなかった。
「……でも、君の中には、ちゃんと彼との記憶が残っている。
記憶が曖昧でも、心がそれを覚えているんだよ」
ユリスは、枕元のシーツを握りしめる。
「……あの人の分まで、生きなくちゃいけない気がする。
……でも、俺は……どうして、忘れてたんだろう……?」
「忘れたんじゃない。耐えるために、心が閉ざしていたんだ。
君は弱くなんかない。生き延びたことが、強さの証だよ」
クラウスの言葉は、静かに、しかし確かな重みでユリスの胸に届いた。
「けれど大切なのは、“過去の名前”じゃない。“今の君”なんだ。
フランであっても、ユリスであることに変わりはない」
その一言が、まるで救いのようだった。
ユリスは、かすかに微笑み――目を閉じる。
扉の向こう、ノエルとテオの声がかすかに聞こえる。
気遣う気配が、安らかな眠りを呼んだ。
“ジュリオ”――
その名を胸の奥で呼んだとき、幼い日のぬくもりが、笑ってくれた気がした。
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