【完結】聖クロノア学院恋愛譚 ―君のすべてを知った日から―

るみ乃。

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31 触れたい、触れられない

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「ユリス、大丈夫なのか? 待てって――!」

 夜風が肌を撫でるたび、心の奥がどこかぎこちなく軋んだ。
 医務室を出たあと、俺の足はほとんど無意識に動いていた。
 行き先も考えてなかった。ただ、その場にいたくなかった。
 あのままじゃ、言葉も息も詰まりそうだったから。

 背後に追いかけてくる足音――レオンだって、すぐにわかった。
 どうしてかって、それは……もう、体が覚えてる。声の響きも、歩幅も、気配すらも。

 いくつか街灯を抜けて、人気のない中庭に出たとき、ようやく足が止まった。

「……追ってくるとは思わなかった」

 背を向けたままそう呟いた俺に、すぐ近くでレオンの声が返ってくる。

「放っておけるわけないだろ」

「俺どんな顔、してた?」

「……泣きそうだった」

 その言葉が、ひどくやさしくて、胸の奥をざわつかせる。
 知られたくなかった。こんなに乱れてるってこと。

 俺は、手すりに手を置いて、そこに体を預けた。
 ひんやりした鉄の感触に、ようやく現実を思い出す。

「……記憶が戻りはじめてる。でも、全部が一度にくるわけじゃない。懐かしくて、苦しくて……なんでかわからない、怖いんだ」

 レオンを振り返った。

 月明かりに照らされた彼の瞳が、まっすぐ俺を見ていた。
 その視線が、逃げられなくなるくらい真剣で、ちょっと怖かった。

「なあ、レオン……おまえは、俺の何を見てる?」

 口にした瞬間、自分がずるい聞き方をしてるって気づいた。
 ほんとは、“フラン”を知ってるんだろ? 最初から気づいてたんだろ?――そう問いただしたかった。

 でも、それを直接聞く勇気はなかった。

 レオンは、少しだけ目を細めて、俺の前に立った。

「何を、って?」

「……“誰”を見てるの? 俺、それとも……」

 声が震えていた。言葉にすれば全部崩れそうで、それでも黙っていられなかった。

 レオンが一歩近づく。
 その目に、獣みたいな苦しさが浮かんでいた。

「おまえが“誰だった”かなんて、関係ない」

「本気で、そう思ってる?」

「思ってる。俺は、“今ここにいるおまえ”を見てる」

 その言葉が、胸の奥に届いた。
 熱くて、でも、同時に冷たい水をかけられたみたいに怖くなった。

「……でも、俺はまだ全部を思い出してない。あの子のことも、過去も……お前とどうして、こんなにも近くなってしまったのかも」

「過去を思い出すこと重要なのか…?」

 レオンの声には、力があった。でもそれはどこか、自分に言い聞かせてるようにも聞こえた。

「思い出してもしなくても、俺は――」

 言いかけたまま、レオンは言葉を切った。
 拳を握りしめて、目を伏せて――何かを耐えるような、苦しい顔をしていた。

 俺の中に、また揺れが走る。

 触れたくて、でも、触れられない。
 信じたくて、でも、信じきれない。

 言葉にすれば壊れそうで、黙ってたら遠ざかっていきそうで。

 ……どうして、こんなに難しいんだろう。

 そっと一歩、俺はレオンに近づいた。

「なあ、レオン」

 かすれた声だった。聞き返されるんじゃないかって思うくらい小さくて、頼りなかった。

「……じゃあ、確かめて」

 レオンの目が揺れた。驚きと戸惑い、切なさ、そして……願うような光。

「もし、おまえが本当に、今の“俺”を欲しいって思ってるなら……今夜、それを証明して」

「……ユリス」

「怖いんだ……すべての記憶が戻るのが。俺の心まで、差し出すのが怖いんだ。でも……もし、おまえの答えが嘘じゃないなら――今の俺を、おまえの中に、残してほしい」

 祈るように言った。
 声は震えてた。でも、それでも伝えたかった。

 次の瞬間、レオンが俺の手を掴んだ。強く、でも優しく。見失いたくない何かを、必死で引き寄せるように。

 そして、ふたりは歩き出した。

 静かな寮の廊下。
 音を立てないように、でも心の音だけが、やけに大きく鳴っていた。

 俺たち自身が、もう後戻りできない場所に向かっていることを、誰より俺たちがわかってた。

 ――そして夜は、静かに、ふたりを包んだ。
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