『聖クロノア学院恋愛譚 』記憶を失ったベータと王族アルファ、封印された過去が愛を試すまで

るみ乃。

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34 透明な檻の中で

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 寮の掲示板に貼られた再検査通知。その中に自分の名前を見つけた瞬間、世界が小さく、しかし確かに軋んだ音を立ててひび割れた。

 もう、これまでのように“ベータ”として、何も知らない顔で生きていくことはできないのか――

 乾いた喉を無理に動かし、息を飲む。

 いつものように放課後の図書室にいた…でも胸のざわつきは収まらなかい……。ノエルとテオの話し声が遠くから聞こえる。どこか夢の中にいるようで、現実感が薄い。

 ポンッ、レオンが俺の背中をそっと押し、椅子に座らせてくれた。だが、その瞬間、自分の手のひらを見て愕然とした。強く握りしめていた拳が、びっしょりと汗に濡れていた。

 数日前、ノエルが探し出したデータベースの記録。クラウス医師の語った「未登録オメガ保護案件」。それらが今、一つの線となって繋がっていく。

「……なぜ俺が、再検査の対象にされたのか分からない。でも……誰かが、俺の過去を知ってる。そうとしか思えない」

 ぽつりと漏れた言葉に、ノエルが目を見開いてこちらを見つめた。

「ユリス……まさか、“あの火災”で保護された未登録の……?」

 返答できなかった。ただ視線を落とし、言葉を飲み込む。

 ――十年前の旧校舎の火災。そこから救出された未登録オメガ。秘密裏に管理されていたプロジェクト。そして、俺の本名――フラン。

「……違うって言い切れたら、どれだけ楽だっただろうな……」

 苦笑まじりにこぼすと、テオが黙って温かなハーブティーを差し出してくれた。

「まずは飲め。話すのはそれからでいい」

「……ユリス、焦らないで。俺たちは待ってるから」

 ノエルの優しい声が、逆に胸に突き刺さる。

「……ごめん。ノエル、テオ。今はまだ、全部を話す勇気がない。でも、いつか必ず……話す。だから、もう少しだけ、時間をくれ」

「バカだなぁ。俺たちは友達だ。何があっても、お前の味方だからな」

「……うん。ユリスは、大切な友達だから」

 ノエルの言葉が空気を静かに包む中、レオンが静かに立ち上がった。

「……ユリス。そろそろ部屋に戻ろうか」

「レオン……その前に、医務室へ行ってもいい?」

 理由はうまく言葉にできなかった。ただ、確かめたかった。何かを知りたかった。

 俺たちは走り出した。向かうのは学院の医務室――クラウス医師のもとへ。


「クラウス先生、どういうことなんですか!」

 医務室の扉を勢いよく開けたレオンの声に、クラウスが一瞬だけ眉をひそめた。

「ユリス……やはり、掲示板を見たのか」

「なぜユリスの名前が? 記録は封じたはずです、マルディ医師と一緒に!」

「落ち着け、レオン」

 クラウスは静かにため息をつき、椅子に深く腰を預けた。

「確かに記録は封じた。だが……数ヶ月前、マルディ医師が外部と接触した痕跡がある」

「接触……? 誰と?」

「“ユリスを守るために動く”と、彼は言っていた。ただ、それが何を意味するのかは分からなかった」

「マルディ医師が……俺を?」

「真意は不明だ。しかし、君の名前が再び表に出た今、もうここも安全ではないな…」

「じゃあ、今回の通知は……マルディ医師の意思じゃない?」

「違う。政府内部、もしくは王家の一部が動き出した。君の存在に疑問を抱いた者がいる。しかも、君に“異常な執着を示している”という噂まで流れている」

 「王家」その言葉に、レオンの喉がわずかに震えた。

「……ユリスは、自分の人生を静かに生きたいだけなのに……なぜ」

「だが、“特異核保持者”である以上、国家にとってはただオメガではない。それは君自身が一番よく分かっているはずだ」

「そんなことは、俺には
 関係ない」

 レオンの声は低く、しかし揺るがなかった。

「誰がなんと言おうと、俺はユリスを守る。俺の意思で、俺の手で…」

 その決意を、クラウスは静かに見つめていた。


 その夜、部屋の隅でレオンと肩を並べて座った。電気はつけず、窓から差し込む月明かりだけが静かに空間を照らしていた。

 肩に触れたレオンの手が、わずかに震えていた。

「なあ……どうして俺たちは、アルファだのオメガだの、そんな“運命”に縛られ続けなきゃいけないんだろうな……」

 自分自身への怒りを押し殺したようなその声が、胸の奥に沁みた。

「なぁレオン、俺もっと、普通に……お前と出会いたかったな」

 沈黙の中で、レオンが言った。

「ユリス……俺はお前が好きだ。だけど今、“フラン”の名前が公になってしまった。もう、お前は安全じゃない。俺は……守りたい」

「逃げたくない」

 自分でも、こんなにもはっきり言えるとは思っていなかった。

「また“あの時”みたいに逃げて隠れて……守られたとしても、それは自由じゃない。ただの檻だ」

「……君は強いな、ユリス」

 レオンが、苦笑いをこぼす。

「そんなお前が、俺は好きになったんだよ」

 頬が熱くなるのを感じながらも、胸に残ったのは――あの“火”の記憶。

 炎の中、煙と血に包まれた光景。抱き上げられたあの腕。それが、マルディ医師だったのかもしれない。そして今、また選択を迫られている。逃げるのか、立ち向かうのか。

 この名前が何を意味するのか。なぜ、いま掘り返されたのか。

 俺の中の“フラン”が問いかける。

 ――お前は誰だ?

 ――何のために生きてきた?

 霧はまだ晴れていない。

 だが、決意だけははっきりしていた。

 ――俺は、ユリス・フェルナンド。

 たとえ誰に否定されようとも、俺が選んだ“名前”だ。

 唇を、きゅっと噛んだ。

 けれど、隣にいるこいつの手だけは、決して最後まで離れない気がしていた…
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