38 / 51
第2部
皇妃不在のルバルアは
しおりを挟む
「嘘!!」
宮殿にウィランドンから戻った皇后の甲高い声が響く。それを聞き付けた侍女が幾人か走り寄ってくる。
「何で!?」
ミハネが前にしているのは、もぬけの殻となった一室である。そこはかつて皇妃に──リューシに執務室として宛がわれていた。
書類が山積みになった机も、隅にあったはずのソファも、綺麗に撤去されている。その家具1つない殺風景な部屋は異様に広く目に映る。
「ここってリューシの部屋でしょ!?」
「どういう事!?」と詰め寄る皇后に、侍女達は顔を見合わせた。
まさか、事件の事を知らないというのか。彼女こそが当事者であったはずではないか。
「あの……ご存知ないのですか?」
「何を?」
恐る恐る尋ねてみれば、眉根を寄せられる。どうやら本当に知らないらしい。
予想外の事態に侍女達は面食らう。彼女らは事の詳細を聞いて知っているし、その中の1人に至っては裁判の傍聴席にも座っていた。被害者の皇后自身が訴え出たものとばかり思っていたのだが、それにしては話が噛み合わない。どうした事かとまた顔を見合わせた。
「ねぇ、リューシはどこ? 別の部屋に引っ越したの?」
困惑する彼女らの様子は気にも留めず、ミハネは尚も問いただす。リューシの居場所を聞き出さなければ退かないという体だ。これはどう説明申し上げればよいのだろうかと侍女達が相談しようとした時、「ミハネ!」と張りのある声が呼んだ。驚いて揃って振り向けばキャラメルブロンドの青年が仁王立ちしている。
「ラディ!」
駆け寄るミハネとは反対に、侍女達は廊下の端に固まって首を垂れた。一瞬向けられた蒼の瞳の冷たさにぞくりと薄ら寒くなる。
その侍女達の方は二度も見ず、ラガーディはミハネの肩を抱いた。
「帰るなりこんな所に来て何をしてるんだ」
「ね、ラディ知ってるんでしょ? リューシはどこ? 何で部屋が空っぽなの?」
「疲れているだろう、一旦部屋に戻ろう」
一刻も早くこの場を離れたいという様子の夫にミハネは「何で答えてくれないの?」と非難する。
「部屋に戻れば答える」
「嫌。今答えて」
強情にかぶりを振るミハネはどう説き伏せようとしても動きそうにない。ラガーディは嘆息し、駄々をこねる子供を宥めるようにミハネの長い黒髪を撫でた。「ミハネ」と優しく呼び、噛んで含めるが如く、至極穏やかな口振りで言う。
「あれは死んだ」
◇◇◇
廊下に響いた甲高い声にコリネリは足を止めた。角を曲がった先を見れば、皇帝の後ろ姿が目に入る。
誰かと話しているらしいが、なぜかリューシの執務室だった部屋の前にいる。その相手は角度的に皇帝に重なって見えない。それにしても奇妙なのは廊下の隅に身を寄せ合っている侍女達だ。何やら萎縮しているようだが、皇帝は口論でもしているのだろうか。
不審に思っていると、皇帝の陰から薄桃色のドレスと黒髪が覗く。
──皇后……
先程の甲高い声の主は彼女のものだろう。
その姿を目にした瞬間、一気に憎悪が膨れ上がる。所々ではっきり聞こえる「リューシ」という単語にぎりりと奥歯を噛み締めた。お前がその名を口にするな。そう叫びたかった。
気配を殺して皇帝の背に近づく。こちらを向いている皇后も幸い話すのに夢中で気付く様子はない。大理石の像の陰に入り、会話の全貌を知ろうと耳を澄ませる。少し距離は離れているが、集中すれば大体は聞き取れる。自分の呼吸にさえ邪魔をされないよう、息を殺した。
「──今答えて」
嫌々とかぶりを振る皇后の髪を皇帝が撫で、「ミハネ」と妻を呼ぶ。背中しか見えないここからでは表情を窺い知る事は出来ないが、酷く優しい声色だ。
前の会話を知らないコリネリは何を答えるのかと身構えた。それと同じくして、皇帝はやはり優しい声色で言った。
「あれは死んだ」
──何という、無感動な台詞だ。
呆然とした直後、皇后の絶叫が耳をつんざいた。
「嘘よ!! 何で!? 変な冗談言わないでよ!!」
「冗談じゃない。本当に死んだ。処刑されてな」
「そんな……っ! リューシが何をしたって言うの!?」
「ミハネ、お前は気にしなくていい。さあ、部屋に戻ろう」
嘘嘘嘘嘘……と滅茶苦茶に頭を振る皇后を白々しい心持ちで眺める。
あんたの言う通りだ。あの人は何もしていない。したのは、お前らの方だ。
皇后は皇帝に抱えられるようにして廊下を行き過ぎた。
これ以上ない嫌悪感に吐きそうだ。
皇后のあれは演技なのか、それとも噂通り本当にあの人に懸想していたのか、判断はつかない。だが、どちらでも同じだ。あの娘が自分らにとって疫病神なのに変わりはない。
一か所に固まっていた侍女達もてんでばらばらになり、コリネリは思い出したように隠れ場所から出る。
こんな所で胸糞の悪い思いをしている場合ではないのだ。大事な用の途中でとんだ道草を食ってしまった。
少し早足に例の部屋の前を通り過ぎ、重々しい扉の前で止まる。襟を正してから扉を叩けば、「入れ」と応答があった。
「失礼します」
敬礼をして入室した先にはカイゼル髭の男。もっとも、この世界に「カイゼル髭」などという名称はないのだが、その呼び方がぴったりな手入れの行き届いた口髭が自慢のアルヴァン・フンクル国防大臣である。かの“どてっ腹”、ミリス総督の上司に当たる人だ。金とコネで地位を得たミリスと違い、彼は実力で大臣という役職に就いている。
「──で、第2皇子の行方はわかったのか」
落ち着いた様子で尋ねる彼の眉間には深い皺が刻まれている。あまり機嫌がいいとは言えない。
それもそのはず、昨日突如としてセドルア第2皇子が姿を消して、その捜索で国の中枢は物々しい雰囲気であった。リューシらと分かれて帰還したコリネリは数名の不在をどうにか誤魔化す算段だったが、一足遅かったのだ。他の者には皇子の行方不明は伏せ、第1部隊隊長となったコリネリに捜索が任された。
しかし、実はコリネリは先にセドルアとは口裏を合わせてある。自分は捜索をするフリをし、さも今わかったかのように報告すればよかった。
「その件ですが、殿下はご本人たっての希望でルバルア国内の視察にお出掛けになられたようです。護衛にロドス軍医長、第1部隊の者3名が付いているとの事ですが、何らかの手違いで連絡が行き届かなかったものと思われます」
淀みなく説明すると、大臣は片眉を上げた。口髭を撫でながら「コリネリ」と言う。
「なぜ今の今まで3名もの不在に気付かなかった。第1部隊は君の隊だろう。隊長に昇格したばかりだというのに、少々管理がずさん過ぎやしないかね」
「申し訳ありません」
「本来ならばこちらで協議しなければならんのだ。今回は既に出発してしまっているから仕方がないが、ろくろく対策も取らずにというのは危険極まる。君もわかっているだろう」
「は。承知しております」
「一体、殿下に何かあったらどう責任を取るつもりだ。腕の立つ者が護衛に付いているとはいえ、安全が全く保障されているわけではない」
「は」
「まったく、軍医長も軍医長だ。私に直接報告を上げればいいものを……」
ぶつぶつと言い続けるのを右から左へ受け流しながら、コリネリはほっと心中で息をついた。面白くもない説教を食らう羽目にはなったが、どうやら上手く誤魔化せそうである。
「──それで、その視察はどの程度の期間になる」
ひとしきり毒を吐き出した大臣がうんざりしたように問う。コリネリは「殿下は無期限を希望しておられます」と端的に答えた。これもセドルアとは打ち合わせ済みの受け答えであった。
「何、無期限だと!?」
大臣が思わず声を荒らげるのに被せ、続ける。
「国民が日々どのように生活し、何を求めているのか、ご自分の目でしかと確かめ納得されるまで帰還なさるつもりはないという事です。至極真っ当な理由と思われますが」
「しかし、しかしだな……無期限は不味いだろう。いつご帰還なさるかわからんというのは……」
「なぜです? 少なくとも1年は殿下にご公務のご予定は入っていないと聞いております。支障があるとは思えませんが」
「そうは言ってもだな……」
やはり無期限は無理があったか。渋る大臣に諦めの気持ちが顔を出し始めるが、いやいやと振り切る。ここで妥協してしまえばリューシの安全に関わる。絶対に詮索されないように手を回すのが己の役目だ。自分が折れては元も子もない。
──使命感に駆られたコリネリはどうにか理屈をこね、とうとう国防大臣を説き伏せた。随分無理な、屁理屈と言われても仕方がないような理論だったが、押し切ってしまえばこちらのものだ。
これで当分は心配ないだろう。仕事を1つ終え、大臣の部屋を出たコリネリは大きくため息をついた。
やれやれと束の間の安堵を味わいながら長い廊下を歩む。これから昼休みだ。たまには軍の食堂ではない店で食べてみようかと安心ついでに考えてみた。懐の具合はさほど悪くはない。ちょっとした買い食いならそこそこいいものを食べられるだろう。
現実逃避のように昼食の計画を立てながら突き当りを右折しようとしたその時、バサバサと紙の崩れる音が耳に入った。その方向──足を向けたのとは反対の左手に目をやれば、扉を開け放っている部屋がある。向こうには確か、財務大臣の執務室があった。あの部屋はまさしくそれだ。
しかし、なぜああも無防備に室内を晒しているのだろうか。大臣ら帝国上層部の執務室には機密書類などの国の存亡に関わるものが山程ある。大臣本人が中にいるとしても扉を開け放つというのは警戒心に欠けた行動だ。あるいは、鍵を掛けないまま留守にしているのか。だとすれば余計に悪い。留守中に書類を盗まれたなどという事になっては己の首が社会的にも物理的にも危ないだろうに。
普段ならば「不用心な事だ」とそのまま通り過ぎるのだが、このところ明日は我が身という状況になっているせいか、この日に限っては他人事ながら何となく気になった。留守なら通りがかりに戸締りくらいはしてやってもいい。
中途半端でもなく本当に完全に開き切った扉の向こうを覗き込み、コリネリはおやと瞬きした。絨毯の上を這い回るようにして何やらうごめいている人物がいたのだ。
「コリネリ君か」
崩れた書類の山をかき集めている男が顔を上げる。立派な顎髭の特徴的なこの男こそ、財務大臣のエイミット・ダグレスである。
「どうなさったんです、それは……」
床を埋め尽くすように散乱した大量の書類を凝視し、コリネリは思わず声を上げた。ダグレス財務大臣は人好きのする笑みを浮かべ、「全部私に回ってきてしまってね」と答える。
「隊ちょ……リューシ様が扱われていたものが、ですか?」
「ああ、誰も彼もやりたがらないものだから、拒否しなかった者の所に回されるのだ」
困ったように眉を下げて笑いながら、ダグレスは書類を拾い続ける。
コリネリはその様子を呆気に取られて見つめた。彼はβで唯一大臣にまで登り詰めた努力家だが、人が好過ぎる。周囲のβだという侮りも笑って受け流すような穏やかな人柄だ。故に、怠慢な者達の尻拭いをさせられてしまう。
コリネリはちらと壁に掛かっている振り子時計を見た。大丈夫だ。まだ時間はある。しゃがみ込んで書類を拾い始めた第1部隊隊長にダグレスがはたと動きを止めた。「君は昼休みじゃないのか」と戸惑いの色を見せる。
「ええ、だから自由なんですよ」
悪戯っぽくそう答えれば、ダグレスの顔はたちまち綻んだ。顎髭のお陰で厳めしく見えるはずのこの男の顔は、よく笑うせいで柔らかい。この柔和な笑みが漬け込まれる隙になっているのではないだろうか。滅多に隙を見せないリューシとは好対象だ。
「こんな量、お一人でどうなさるつもりで?」
一緒になって拾い集めた書類を差し出しながら尋ねると、ダグレスはやはり微笑んで言う。
「そりゃ、何とかするしかないだろう。リューシ様もお一人だったのだ。私もどうにかやってみるさ」
「でも、リューシ様は軍医長がたまに助手をしていましたよ」
言ってからしまったと口をつぐむ。今のは言葉選びが不味かった。リューシは楽だったという意味に取られてしまいはしないだろうか。あの優秀なお方でも助手が必要だったものを一人では無謀だと、そう言いたかったのに。
「あの、」
「それでも、軍医長も流石に毎日は手伝えまい。あの方は殆ど一人だったはずだ。幾ら優秀でもさぞ辛かった事だろう」
何か捕捉しようと再び口を開こうとしたのを思わぬ台詞で遮られ、今度はコリネリが戸惑う。その様子を見て取ってか、ダグレスの目が穏やかに細められた。「告白すると、」と紙の束を机に置いて切り出す。
「実は……一度だけ、私もリューシ様に書類を流してしまった事がある」
「えっ」
「処理するものが次から次へと、どんなに急いでも後に後に溜まっていっていた時があってね……たまたま私を訪ねてきた者に言われたのだ。『いい処理の仕方がある』と」
「それで、その書類をリューシ様に……」
「早い話が、そうだ。本当に申し訳ない事をした……言い訳がましいかも知れんが、私が横流しをしたのはそのただ一度きりだ」
「訪ねてきた者というのは……」
大体の当たりがつきながら、敢えて問う。聞いたところでどうなるものでもないのだが、律儀にもダグレスは少しの間考えた後にきっぱりと答えた。
「ミリス総督だ」
思った通りだ。ぎりりと奥歯を噛み締める。あの男はある意味で期待を裏切らない。
「総督は自身の処理すべき案件もリューシ様に流していた──そうですね?」
充分の確信を持って念を押すと、そうだと肯定が返される。わかっていながら、止められなかった。そう申し訳なさそうに視線を落としたのは、コリネリの口調に非難の色が顕れているのを感じ取ったのだろう。この気の毒な大臣に怒りをぶつけても無意味だとはわかっているが、尋ねる声に滲むものはどうにも隠せなかった。
「いえ……貴方を責めようというわけではありません」
首を振って否定する。
もし、彼がどこかで事を是正してくれていたら。そう思わないではない。しかし、それが叶うものでもなかったという事もコリネリは重々承知していた。
「私は偉そうな事を言える立場でもありませんが、貴方は現状を正しく捉えておいでだ。それで充分です」
「……いや、私は何もわかってなどいないよ。リューシ様が亡くなられた今、この先、この国がどうなってゆくのか皆目見当もつかない」
まあ、良い方向には行くまいがね。
そう悲し気な笑みを見せ、ダグレスは卓上の分厚い紙の束を撫でた。労るようなそれは、死に行く我が子に心を痛めているかのようであった。
「一つ、お尋ねして宜しいですか」
この財務大臣の姿を目にした時、コリネリの中でずっと逡巡していた疑問がするりと飛び出した。つっかえていた異物がポンと押し出された感覚だった。
「何だね」
「貴方は……リューシ様が、罪人だとお思いですか?」
「いいや」
穏やかに返答したダグレスの目が不意に窓の外へ向けられる。そこに何かを見ているのだろうか、枠の中で青々としている空に目を細めながら彼は噛み締めるように言った。
「あの方は軍人だった」
宮殿にウィランドンから戻った皇后の甲高い声が響く。それを聞き付けた侍女が幾人か走り寄ってくる。
「何で!?」
ミハネが前にしているのは、もぬけの殻となった一室である。そこはかつて皇妃に──リューシに執務室として宛がわれていた。
書類が山積みになった机も、隅にあったはずのソファも、綺麗に撤去されている。その家具1つない殺風景な部屋は異様に広く目に映る。
「ここってリューシの部屋でしょ!?」
「どういう事!?」と詰め寄る皇后に、侍女達は顔を見合わせた。
まさか、事件の事を知らないというのか。彼女こそが当事者であったはずではないか。
「あの……ご存知ないのですか?」
「何を?」
恐る恐る尋ねてみれば、眉根を寄せられる。どうやら本当に知らないらしい。
予想外の事態に侍女達は面食らう。彼女らは事の詳細を聞いて知っているし、その中の1人に至っては裁判の傍聴席にも座っていた。被害者の皇后自身が訴え出たものとばかり思っていたのだが、それにしては話が噛み合わない。どうした事かとまた顔を見合わせた。
「ねぇ、リューシはどこ? 別の部屋に引っ越したの?」
困惑する彼女らの様子は気にも留めず、ミハネは尚も問いただす。リューシの居場所を聞き出さなければ退かないという体だ。これはどう説明申し上げればよいのだろうかと侍女達が相談しようとした時、「ミハネ!」と張りのある声が呼んだ。驚いて揃って振り向けばキャラメルブロンドの青年が仁王立ちしている。
「ラディ!」
駆け寄るミハネとは反対に、侍女達は廊下の端に固まって首を垂れた。一瞬向けられた蒼の瞳の冷たさにぞくりと薄ら寒くなる。
その侍女達の方は二度も見ず、ラガーディはミハネの肩を抱いた。
「帰るなりこんな所に来て何をしてるんだ」
「ね、ラディ知ってるんでしょ? リューシはどこ? 何で部屋が空っぽなの?」
「疲れているだろう、一旦部屋に戻ろう」
一刻も早くこの場を離れたいという様子の夫にミハネは「何で答えてくれないの?」と非難する。
「部屋に戻れば答える」
「嫌。今答えて」
強情にかぶりを振るミハネはどう説き伏せようとしても動きそうにない。ラガーディは嘆息し、駄々をこねる子供を宥めるようにミハネの長い黒髪を撫でた。「ミハネ」と優しく呼び、噛んで含めるが如く、至極穏やかな口振りで言う。
「あれは死んだ」
◇◇◇
廊下に響いた甲高い声にコリネリは足を止めた。角を曲がった先を見れば、皇帝の後ろ姿が目に入る。
誰かと話しているらしいが、なぜかリューシの執務室だった部屋の前にいる。その相手は角度的に皇帝に重なって見えない。それにしても奇妙なのは廊下の隅に身を寄せ合っている侍女達だ。何やら萎縮しているようだが、皇帝は口論でもしているのだろうか。
不審に思っていると、皇帝の陰から薄桃色のドレスと黒髪が覗く。
──皇后……
先程の甲高い声の主は彼女のものだろう。
その姿を目にした瞬間、一気に憎悪が膨れ上がる。所々ではっきり聞こえる「リューシ」という単語にぎりりと奥歯を噛み締めた。お前がその名を口にするな。そう叫びたかった。
気配を殺して皇帝の背に近づく。こちらを向いている皇后も幸い話すのに夢中で気付く様子はない。大理石の像の陰に入り、会話の全貌を知ろうと耳を澄ませる。少し距離は離れているが、集中すれば大体は聞き取れる。自分の呼吸にさえ邪魔をされないよう、息を殺した。
「──今答えて」
嫌々とかぶりを振る皇后の髪を皇帝が撫で、「ミハネ」と妻を呼ぶ。背中しか見えないここからでは表情を窺い知る事は出来ないが、酷く優しい声色だ。
前の会話を知らないコリネリは何を答えるのかと身構えた。それと同じくして、皇帝はやはり優しい声色で言った。
「あれは死んだ」
──何という、無感動な台詞だ。
呆然とした直後、皇后の絶叫が耳をつんざいた。
「嘘よ!! 何で!? 変な冗談言わないでよ!!」
「冗談じゃない。本当に死んだ。処刑されてな」
「そんな……っ! リューシが何をしたって言うの!?」
「ミハネ、お前は気にしなくていい。さあ、部屋に戻ろう」
嘘嘘嘘嘘……と滅茶苦茶に頭を振る皇后を白々しい心持ちで眺める。
あんたの言う通りだ。あの人は何もしていない。したのは、お前らの方だ。
皇后は皇帝に抱えられるようにして廊下を行き過ぎた。
これ以上ない嫌悪感に吐きそうだ。
皇后のあれは演技なのか、それとも噂通り本当にあの人に懸想していたのか、判断はつかない。だが、どちらでも同じだ。あの娘が自分らにとって疫病神なのに変わりはない。
一か所に固まっていた侍女達もてんでばらばらになり、コリネリは思い出したように隠れ場所から出る。
こんな所で胸糞の悪い思いをしている場合ではないのだ。大事な用の途中でとんだ道草を食ってしまった。
少し早足に例の部屋の前を通り過ぎ、重々しい扉の前で止まる。襟を正してから扉を叩けば、「入れ」と応答があった。
「失礼します」
敬礼をして入室した先にはカイゼル髭の男。もっとも、この世界に「カイゼル髭」などという名称はないのだが、その呼び方がぴったりな手入れの行き届いた口髭が自慢のアルヴァン・フンクル国防大臣である。かの“どてっ腹”、ミリス総督の上司に当たる人だ。金とコネで地位を得たミリスと違い、彼は実力で大臣という役職に就いている。
「──で、第2皇子の行方はわかったのか」
落ち着いた様子で尋ねる彼の眉間には深い皺が刻まれている。あまり機嫌がいいとは言えない。
それもそのはず、昨日突如としてセドルア第2皇子が姿を消して、その捜索で国の中枢は物々しい雰囲気であった。リューシらと分かれて帰還したコリネリは数名の不在をどうにか誤魔化す算段だったが、一足遅かったのだ。他の者には皇子の行方不明は伏せ、第1部隊隊長となったコリネリに捜索が任された。
しかし、実はコリネリは先にセドルアとは口裏を合わせてある。自分は捜索をするフリをし、さも今わかったかのように報告すればよかった。
「その件ですが、殿下はご本人たっての希望でルバルア国内の視察にお出掛けになられたようです。護衛にロドス軍医長、第1部隊の者3名が付いているとの事ですが、何らかの手違いで連絡が行き届かなかったものと思われます」
淀みなく説明すると、大臣は片眉を上げた。口髭を撫でながら「コリネリ」と言う。
「なぜ今の今まで3名もの不在に気付かなかった。第1部隊は君の隊だろう。隊長に昇格したばかりだというのに、少々管理がずさん過ぎやしないかね」
「申し訳ありません」
「本来ならばこちらで協議しなければならんのだ。今回は既に出発してしまっているから仕方がないが、ろくろく対策も取らずにというのは危険極まる。君もわかっているだろう」
「は。承知しております」
「一体、殿下に何かあったらどう責任を取るつもりだ。腕の立つ者が護衛に付いているとはいえ、安全が全く保障されているわけではない」
「は」
「まったく、軍医長も軍医長だ。私に直接報告を上げればいいものを……」
ぶつぶつと言い続けるのを右から左へ受け流しながら、コリネリはほっと心中で息をついた。面白くもない説教を食らう羽目にはなったが、どうやら上手く誤魔化せそうである。
「──それで、その視察はどの程度の期間になる」
ひとしきり毒を吐き出した大臣がうんざりしたように問う。コリネリは「殿下は無期限を希望しておられます」と端的に答えた。これもセドルアとは打ち合わせ済みの受け答えであった。
「何、無期限だと!?」
大臣が思わず声を荒らげるのに被せ、続ける。
「国民が日々どのように生活し、何を求めているのか、ご自分の目でしかと確かめ納得されるまで帰還なさるつもりはないという事です。至極真っ当な理由と思われますが」
「しかし、しかしだな……無期限は不味いだろう。いつご帰還なさるかわからんというのは……」
「なぜです? 少なくとも1年は殿下にご公務のご予定は入っていないと聞いております。支障があるとは思えませんが」
「そうは言ってもだな……」
やはり無期限は無理があったか。渋る大臣に諦めの気持ちが顔を出し始めるが、いやいやと振り切る。ここで妥協してしまえばリューシの安全に関わる。絶対に詮索されないように手を回すのが己の役目だ。自分が折れては元も子もない。
──使命感に駆られたコリネリはどうにか理屈をこね、とうとう国防大臣を説き伏せた。随分無理な、屁理屈と言われても仕方がないような理論だったが、押し切ってしまえばこちらのものだ。
これで当分は心配ないだろう。仕事を1つ終え、大臣の部屋を出たコリネリは大きくため息をついた。
やれやれと束の間の安堵を味わいながら長い廊下を歩む。これから昼休みだ。たまには軍の食堂ではない店で食べてみようかと安心ついでに考えてみた。懐の具合はさほど悪くはない。ちょっとした買い食いならそこそこいいものを食べられるだろう。
現実逃避のように昼食の計画を立てながら突き当りを右折しようとしたその時、バサバサと紙の崩れる音が耳に入った。その方向──足を向けたのとは反対の左手に目をやれば、扉を開け放っている部屋がある。向こうには確か、財務大臣の執務室があった。あの部屋はまさしくそれだ。
しかし、なぜああも無防備に室内を晒しているのだろうか。大臣ら帝国上層部の執務室には機密書類などの国の存亡に関わるものが山程ある。大臣本人が中にいるとしても扉を開け放つというのは警戒心に欠けた行動だ。あるいは、鍵を掛けないまま留守にしているのか。だとすれば余計に悪い。留守中に書類を盗まれたなどという事になっては己の首が社会的にも物理的にも危ないだろうに。
普段ならば「不用心な事だ」とそのまま通り過ぎるのだが、このところ明日は我が身という状況になっているせいか、この日に限っては他人事ながら何となく気になった。留守なら通りがかりに戸締りくらいはしてやってもいい。
中途半端でもなく本当に完全に開き切った扉の向こうを覗き込み、コリネリはおやと瞬きした。絨毯の上を這い回るようにして何やらうごめいている人物がいたのだ。
「コリネリ君か」
崩れた書類の山をかき集めている男が顔を上げる。立派な顎髭の特徴的なこの男こそ、財務大臣のエイミット・ダグレスである。
「どうなさったんです、それは……」
床を埋め尽くすように散乱した大量の書類を凝視し、コリネリは思わず声を上げた。ダグレス財務大臣は人好きのする笑みを浮かべ、「全部私に回ってきてしまってね」と答える。
「隊ちょ……リューシ様が扱われていたものが、ですか?」
「ああ、誰も彼もやりたがらないものだから、拒否しなかった者の所に回されるのだ」
困ったように眉を下げて笑いながら、ダグレスは書類を拾い続ける。
コリネリはその様子を呆気に取られて見つめた。彼はβで唯一大臣にまで登り詰めた努力家だが、人が好過ぎる。周囲のβだという侮りも笑って受け流すような穏やかな人柄だ。故に、怠慢な者達の尻拭いをさせられてしまう。
コリネリはちらと壁に掛かっている振り子時計を見た。大丈夫だ。まだ時間はある。しゃがみ込んで書類を拾い始めた第1部隊隊長にダグレスがはたと動きを止めた。「君は昼休みじゃないのか」と戸惑いの色を見せる。
「ええ、だから自由なんですよ」
悪戯っぽくそう答えれば、ダグレスの顔はたちまち綻んだ。顎髭のお陰で厳めしく見えるはずのこの男の顔は、よく笑うせいで柔らかい。この柔和な笑みが漬け込まれる隙になっているのではないだろうか。滅多に隙を見せないリューシとは好対象だ。
「こんな量、お一人でどうなさるつもりで?」
一緒になって拾い集めた書類を差し出しながら尋ねると、ダグレスはやはり微笑んで言う。
「そりゃ、何とかするしかないだろう。リューシ様もお一人だったのだ。私もどうにかやってみるさ」
「でも、リューシ様は軍医長がたまに助手をしていましたよ」
言ってからしまったと口をつぐむ。今のは言葉選びが不味かった。リューシは楽だったという意味に取られてしまいはしないだろうか。あの優秀なお方でも助手が必要だったものを一人では無謀だと、そう言いたかったのに。
「あの、」
「それでも、軍医長も流石に毎日は手伝えまい。あの方は殆ど一人だったはずだ。幾ら優秀でもさぞ辛かった事だろう」
何か捕捉しようと再び口を開こうとしたのを思わぬ台詞で遮られ、今度はコリネリが戸惑う。その様子を見て取ってか、ダグレスの目が穏やかに細められた。「告白すると、」と紙の束を机に置いて切り出す。
「実は……一度だけ、私もリューシ様に書類を流してしまった事がある」
「えっ」
「処理するものが次から次へと、どんなに急いでも後に後に溜まっていっていた時があってね……たまたま私を訪ねてきた者に言われたのだ。『いい処理の仕方がある』と」
「それで、その書類をリューシ様に……」
「早い話が、そうだ。本当に申し訳ない事をした……言い訳がましいかも知れんが、私が横流しをしたのはそのただ一度きりだ」
「訪ねてきた者というのは……」
大体の当たりがつきながら、敢えて問う。聞いたところでどうなるものでもないのだが、律儀にもダグレスは少しの間考えた後にきっぱりと答えた。
「ミリス総督だ」
思った通りだ。ぎりりと奥歯を噛み締める。あの男はある意味で期待を裏切らない。
「総督は自身の処理すべき案件もリューシ様に流していた──そうですね?」
充分の確信を持って念を押すと、そうだと肯定が返される。わかっていながら、止められなかった。そう申し訳なさそうに視線を落としたのは、コリネリの口調に非難の色が顕れているのを感じ取ったのだろう。この気の毒な大臣に怒りをぶつけても無意味だとはわかっているが、尋ねる声に滲むものはどうにも隠せなかった。
「いえ……貴方を責めようというわけではありません」
首を振って否定する。
もし、彼がどこかで事を是正してくれていたら。そう思わないではない。しかし、それが叶うものでもなかったという事もコリネリは重々承知していた。
「私は偉そうな事を言える立場でもありませんが、貴方は現状を正しく捉えておいでだ。それで充分です」
「……いや、私は何もわかってなどいないよ。リューシ様が亡くなられた今、この先、この国がどうなってゆくのか皆目見当もつかない」
まあ、良い方向には行くまいがね。
そう悲し気な笑みを見せ、ダグレスは卓上の分厚い紙の束を撫でた。労るようなそれは、死に行く我が子に心を痛めているかのようであった。
「一つ、お尋ねして宜しいですか」
この財務大臣の姿を目にした時、コリネリの中でずっと逡巡していた疑問がするりと飛び出した。つっかえていた異物がポンと押し出された感覚だった。
「何だね」
「貴方は……リューシ様が、罪人だとお思いですか?」
「いいや」
穏やかに返答したダグレスの目が不意に窓の外へ向けられる。そこに何かを見ているのだろうか、枠の中で青々としている空に目を細めながら彼は噛み締めるように言った。
「あの方は軍人だった」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
157
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる