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中編 Bouquet of request give to you
会合〜紫葉side〜
しおりを挟む広光が退院したその翌日から、俺の日常は以前までの、ただ朝から晩まで仕事をするだけの日々へと戻った。……とはいえ、戻ったのは表面上だけ。心内は、以前までの俺とは明らかに変わっていた。
――――俺は、今まで特段苦と感じたことなどなかった仕事の日々を、いつしかひどく味気ない、そう感じるようになってしまった。
理由は明確。全てはあの花屋の店主、一ノ瀬葵だ。
彼に会う機会がなくなった、その事実が、俺をこんな境地に追いやっている。
どこを取っても美しい彼に出会ったことで、俺の日常は、三百六十度変えられてしまった。あの、彼の蕩けた蜂蜜の様な瞳が緩む様を見る度に、胸の奥で何某かの思いが掻き立てられるのだ。……きっと、彼の纏う空気が柔らかく、ずっと傍にいたいと思わせるほどに心地良いのもいけないのだろう。
おかげで俺は、今日も、あの一ノ瀬葵という人物に、身も心も骨抜きにされている。
そうして、一ノ瀬の店に通わなくなって二週間が経った、ある木曜日のこと。
はぁ、と、自然溢れるため息を吐き出しながら、俺は己のデスクで仕事に勤しむ。
寝ても覚めても、果ては仕事中でも、頭に過ぎるのは一ノ瀬の顔と声。これは、流石に参った。
なにせそもそも俺は、生まれてこの方誰かに惹かれる、といった感情を抱いたことがない。一ノ瀬に出会ったことで初めて、恋に落ちるとはこういうことかと知ったほどなのだ。それほどまでに、恋愛事にはとんと耐性がないのだ。疲労が滲み出ても仕方ないだろう。
加えて、相手は同性の男だ。異性ならまだしも、恋愛初心者にこの状況は難易度が高すぎる。距離の縮め方すら、正解が分からない。
再度口から溢れでるため息に、気持ちも沈む。
そう、俺は恋愛初心者だ。そもそも、仕事しか取り柄のない、つまらない男なのだ。……それでも、胸中で湧き起こる一ノ瀬への想いを無視し続けることもできなかったから、なんとか己を奮い立たせ、足繁く彼の店へと通った。
我ながら、拙いながらも頑張った方だと思うのだ。
……それがどうだ。最後には、
『――――一応、日頃からいろんな人が来やすいお店を意識してるんです。だから、実際にそうやってお客様の紫葉さんにそう言って貰えるとすごく嬉しいなぁって』
これである。この一言で、一ノ瀬にとっての俺はただの一客にしかすぎないと、そう思っているということが分かり、愕然とした。
詰まるところ、全部俺の思い過ごしだったと、そういうことなのだ。いやまったく、いくら人付き合いが不得手とはいえ、これは勘違いも良いところだろう。
元来俺は、花を愛でる趣味も興味もない、つまらない男だ。……そんな自分に、一ノ瀬が振り向いてくれるなんてことがそもそもありえなかったのだ。
「……苦しいな」
それでも、やはり好きだと。愛しいと思うのだから、恋愛というものはひどく厄介で不毛なものなのだなと、三十路を目前にして俺はようやく理解したのだった。
空腹を紛らわすためだけの、簡易な昼食を取った後、俺は午後の仕事に取り掛かった。
ここ最近は、以前にも増して仕事に没頭する毎日を送っている。連日早い帰宅をしていたこともあり、多少仕事も停滞気味だ。丁度良いとばかりに、俺はこの数日、気を紛らわせるという理由も兼ねて、遅い時間まで仕事に手をつけていた。
そんなこんなで、時刻は丁度定時を過ぎた頃。今日も残って仕事に手をつけようと、そう思っていた時。人事部に突如として現れた馴染みの顔にその手を阻まれ、俺は初め、呆気に取られてしまった。
秘書課に所属する筈のその男は、俺の部内に入るや否や俺を一瞥し、まるで残念なモノでも見るかのような冷ややかな視線を向けてきた。その顔に一言なんだと思い睨み返したものの、男は特別気にした様子もなく、女のように長い髪を揺らして俺のデスクへと近付いてくる。
そしてそのまま無言で、勝手に俺の荷物を纏め始めたものだから。あまりに突然の所業で、唖然としてしまった。
「――――っは、な⁉︎ おい、何をしてるんだっ!」
その行動には流石に俺も文句を口にした。が、途端、ぎろりと先程よりも鋭い視線で睨まれ、思わず息を呑む。
そんな俺を横目に、その男――如月一色はため息混じりに口を開いた。
「貴方……仮にも社の情報、従業員の状態を管理する立場にあるくせに、そんな状態でいるなんて、一体どういうつもりです? 話によると貴方、昨日も一昨日も遅くまで残業していたそうじゃないですか」
別に今、急ぎの案件はないはずですが?
その一言に、思わずうっ、と声を詰まらせる。すると一色は、俺のことは気にせず畳み掛けるよう、なおもつらつらと言葉を続けた。
「知ってますか? 皆、部長が全く休もうとしてくれないと、僕の所に泣きつきに来る始末なんですよ。いくら同期だからといって、こう頻繁に相談を持ちかけられるのは、正直迷惑極まりないんです。……ですので、さっさと帰ってください」
そう淡々と続けられるその言葉はどこまでも冷たく、結果何も言えずにいると、急に首根っこを引っ掴まれて、引きづり、投げ出すように部屋から追い出される。
「ぅおっ⁉︎ おっ、おい、一色……!」
「ああ、手続き諸々は気にしないでください。僕は優秀なので、一通り終わってますよ」
それではお疲れ様です、と最後に告げた一色は、最後まで俺に冷たい目線を向けていて。その傍で、不安そうに俺と一色とを交互に見遣る堀切の姿が見えたのだが、彼女に声を掛ける間も無く、バタンと扉を閉められ、そうして俺は何故か己の部署から追い出されてしまったのだった。
正直、家に帰ったところで何もする気が起きないのだが……。とはいえ、そこまでされてしまってはもう帰るほかはなく、俺は半ば放心したまま、電車に揺られることとなった。
その時、ぼんやりした心持ちで帰宅の途についていたのだが。気付けば俺の足は、無意識にあの花屋へと向いていて。思わず笑ってしまった。
「……ははっ! ……ここまできたら、もう手遅れだな」
結局俺は、自分のこの身勝手な感情を抑える事などまったくと言っていい程出来ていなかったのだ。友人になれればそれでいい、なんて思ったこともあった。が、そんなもの嘘だ。既にここまでの執着の片鱗を見せているのだから、友人なんて枠組みで、己を抑えられる気がしない。
なるほど、これが、これこそが恋というものなのか。相手を思うだけで心が湧き立ち、相手の一挙手一投足、言葉の一つ一つに、期待したり落胆したり。
「つくづく厄介だな、これは。……だが、まぁ、悪くない」
とはいえ、まだこの想いを彼本人に伝える度胸は、今の自分にはない。そのあんまりな自分の状態に、ただ笑ってしまう。
「こんなこと、会社の人間が知ったらなんて言うだろうな……」
きっと、鬼の人事部長様が聞いて呆れると笑われるだろう。自分自身、あまりに臆病すぎる自分に呆れてしまうのだから。
「――――紫葉さん?」
そんな時だ。不意に、俺の名を呼ぶ低い声が耳に届いたのは。
それは聞き間違いようはずもない、ずっと聞きたかった、俺よりもほんの少し高めの、それでいて耳障りの良い甘い声。その声を聞いただけで、俺の心臓は一際高く跳ね上がった。
なんの心構えも出来ていなかったものだから、突然の呼び声に暫く固まってしまったが、一先ずとにかく自身を落ち着けようと一つ深呼吸をする。それから、そろり、と声のした方へと振り向いた。
視線の先、映り込んだ男はやはり俺が焦がれてやまなかった男――一ノ瀬で、最後に会った時と変わらない元気そうなその姿に、俺の心は容易く躍った。……だが、その時ばかりは、俺の脳内は一ノ瀬の隣に佇む男の存在への驚きの方が大きかった。
「旭、顧問……?」
この時俺は、まさかその男がこれから毎日のように俺のもとへと訪れるようになるとは、露程も思ってはいなかった。
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