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第七章

ビュクシ攻防戦10

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 もっとも、ダメージは軽微とは言いがたかった。巨人の放った驚異が収まったとき、アドルフは庁舎の石畳を抱きしめていた。かろうじて起きあがったが、体もふらつき、立っているのがやっとである。

 土煙に包まれた覚束ない視界のなかで、無数の群衆が横倒しにされ、屍のように折り重なっていた。仲間の幕僚たちも地面に倒れ伏し、息絶えたように動かない。

 なかでも、瓦礫となった敷石に明らかなる遺体が転がっていた。ひとつは黒衣をまとった鉄兜団員のもの。もうひとつは真っ赤な軍装を着た若い男の遺体だ。背中の多くが灼けただれたうえ、男の胴体は肝心の頭部が欠けており、それがどこへ消えたか見当もつかない。

 服装で判じられたが、敵司令官であるパベルの骸だ。彼はもはや虫の息ですらなかった。

 将帥の死はむろん、歓迎すべきことであろう。しかし巨人の攻撃は、防御態勢に守られてない敵軍が残存するなか味方を巻き込む形で撃ち放たれた。偶然にも見えたが、はたしてどちらの判断ミスだったのか。

 もっとも敵失を分析している余裕などいまのアドルフにはない。
 顔をあげると、結界の破れ目から巨人の姿が見えた。それは邪神のごとき表情を浮かべつつ、なおも攻撃姿勢を崩していなかった。右手に握り締めた矛を薄曇りの雲まで掲げ、狙い定めた標的を依然動かない瞳で射抜いている。

 その標的とは何か。アドルフ本人と考えるより他ない。理由は到って簡単である。巨人の赤々とした眼が、瞬きもせず彼の姿を見つめていたからだ。

 雷撃を受けたショックは思考の働きを麻痺させていたが、それでもアドルフは考えをたぐり寄せる。はたして自分は何をすべきなのか。敵の第二撃に備え、結界を張り直させるべきか。

 とはいえ先ほど確かめたように頼みの綱であるリッドは石造りの階段に横たわり、気絶している様子だった。数メーテルほど離れた場所では失神したフリーデが仰向けに倒れている。

 結界を張れと命じられる状況ではない。そんなことは一目瞭然だ。

 しかもこのとき、アドルフをさらなる直感が捉えた。仮に彼女たちが目覚めたとしても、強力な防御魔法を使うことは難しいかもしれない。そんな考えが素早く脳裏をよぎったのだ。

 なぜならふと気づけば、周囲の大気からマナが急激に減っている。

 狭い空域で多数の魔導師がぶつかり合えば、マナの枯渇は否応なく進むだろう。けれど最大の原因は、穀物倉庫に生じた火災のはずだ。酸素の燃焼は激しいマナの消耗をともなう。こんな状況で結界を張らせても、前回と同じ強度を発揮すると思えない。

 万事休すか――。

 いや違う。アドルフは首を左右に振ってべつの答えを導いた。枯渇していくマナは、味方だけでなく敵の足枷にもなるはずだと彼は考えたのだ。

 弾かれたように見上げれば、予想どおりの光景が飛び込んできた。攻撃態勢を維持したまま、巨人はその動きを不自然に静止させているではないか。

 垂直に掲げた矛をいまにも振り下ろしそうに見えながら、攻撃はなぜかしてこない。おそらく巨人を稼働させるのに相当量のマナが要るのだろう。想像に過ぎないが、そう考えれば辻褄は合う。

 避けがたく思えた第二撃はやがて、だれの目にも明らかなほど膠着した。秒速で過ぎゆく時間と向き合いながら、手当り次第にまとめた戦況はアドルフを勇気づけた。
 味方の回復を限界まで待つことが最善の手だ。強い期待をこめて彼はそう判じ取った。

 ところが――。

 期待はあまりに楽観的過ぎたと言えよう。

 巨人はいま、行政府庁舎にだいぶ迫っている。雷光を撃ち落とす際、街を横切る形で短くない距離を直進してきたからだ。
 その結果であろう。眼を凝らしたアドルフは、巨人の傍らに金兜の幼女を視認できた。大声で叫べば、発した声まで聞こえそうな距離で、二人を隔てるものは埃っぽい大気以外に存在しない。
 だからこそ、幼女が口走ったひと言は明瞭に響き、アドルフの思惑を粉々に打ち砕いたのだった。

「ハンニバル、あそこにいる敵指揮官たちを皆殺しになさい!」

 マナの枯渇が否応なく近づき、継戦が危うくなっている。そんな現実を鼻で笑うかのごとく、まるでカナリアのような声で高らかに歌いあげた幼女。

 いったい彼女は膨大なマナをどこから調達するつもりなのか?

 それともあの巨人は、魔力の供給が途絶えても稼働するというのか?
 憶測の外れたアドルフは混乱に近い感情を覚えた。魔法体系の理屈をもとに考えれば、巨人と幼女の行動は不条理としか思えなかったから、考えが破綻するのも当然のことである。

 もっともリッドが健在ならば、適切な助言をしてくれたはずだろう。敵の幼女の狙いは、薄くなったマナを遠くの空域から寄せ集めることにあると指摘してくれたはずだ。

 高い技量をもつ魔導師なら、マナの凝集力も半端ない。だがアドルフは、そうした知識を欠いており、自分の無知に気づくことさえできない。

「手加減は要らないわ、全員ぶち殺せ!」

 幼女の命令を受け、巨人はぎりぎりと脇腹を引き絞り、体に力を溜めていった。その証拠に、巨人の両目が薄く閉じられ、体に力を溜めるごとに爛々とした光芒を放ちはじめる。無言の動作のそれぞれが、破局へ向かって動きだしている。その端的な事実を巨人は全身を使い、雄弁に物語っていた。

 ――次は仕留めてやるぞ。

 低い唸り声が聞こえた気がして、アドルフは戦慄した。
 錯覚だということはわかっている。それなのに背筋が凍るほどの悪寒が湧き、震えた足が勝手に後退してしまう。

 並みの人間なら、この時点で錯乱をきたす。平静を失った自分自身に怯えだし、押し寄せる死を思いながら、心を恐怖で染めてしまうからだ。

 期待という願望が崩れると人の意志は簡単に折れる。そうなったら最後、戦いは継続不能だ。
 しかしアドルフは抗った。目の前の不条理に逆らった。

 恐慌に近い状態のままでも、心を敵に売り渡すことはなかった。アドルフという男は並外れた意志の持ち主である。その最たる証拠に彼は、忍び寄る恐怖を粉砕すべく、拳を前方へ突き立てた。

 気づけばありったけの力をこめ、アドルフは右腕を前に打ち出している。
 握った拳の先を追うと、巨人のかぶる兜があった。そのつばから覗くのは、信号機のように光る赤い一対の瞳だ。

 こちらを守る結界はもう存在しない。圧倒的不利だ。けれど彼は傲慢にも巨人を睨み返す。
 マイナスに考えればきりがない。敵が何らかの方法で充分な魔力を集めていたら。あるいは魔力などなくてもここからもし未知の攻撃を放ってきたら。わずかな防御もない状態で命を繋げるのか、不安と恐怖は完全には断ち切れない。

 しかし――。

「森羅万象よ、我が命に応えよ!」

 意志の力は迷いをかなぐり捨て、魔法の詠唱をはじめた。運用こそ不慣れだが、ここぞという瞬間にアドルフは足踏みをしない。ルアーガを倒したときもそうだった。体が凍りつく場面ほど、心がそれを上まわっていくのだ。

 実戦で二度も使えば、緊迫した状況でも詠唱はぶれない。早口で唱えた魔法はまたも〈反動〉だった。アドルフの掌は薄くなったマナを吸い込みはじめ、魔法は猛烈な速度で形をなす。

 敵の攻撃に間に合うか。
 いや、何としても間に合わせねば――。
 全力で追いすがる彼だったが、その耳に後ろから声が飛び込んでくる。(続く
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