鏡の精霊と灰の魔法使いの邂逅譚

日村透

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生きとし生ける者の世界へ

13. 生まれ変わりの朝

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 ……誰かが髪をすいてくれている。
 こわごわと触れているような。けれど、とても優しくてあたたかい。
 全身をすっぽり包まれて、心地良さにホウ、と息が出た。

 ピピピピ……チチチチ……

 小鳥が元気にさえずっている。
 瞼の裏が明るい。もう朝なのかな。
 きっともう少ししたら召使いが入って来て、カーテンを開ける。
 そうして声をかけるんだ―――「坊ちゃま、朝でございますよ」と。

 あれ?
 なら、撫でてくれているこの手は、一体……?
 ふわ、と瞼が開いた。

(……わー。なんか、かっこいい人がいるー……誰だろ……)

 灰色が見下ろしてくる。向かい合って陰になっているせいか、色味は少し暗い。
 曇り空の色。開かない窓の色。前は陰鬱な印象しかなかったこの色を、こんなに綺麗だと感じるのは初めてだった。

「頭痛や不快感はないか? 傷がないのは確認しているが」

 どしりと低い声が腰まで響いた。昨夜もずっと、この声を耳に吹き込まれて……

(……昨夜?)

 昨夜と言えば、昨夜だ。昨夜である。はて? 傷とはいかに。不調とは?
 凝視して黙りこくっていると、灰色の瞳がいぶかしげに細められ、「もしや憶えていないのか?」と手の平を頬にあててきた。
 身体も手もこんなに大きいのに、触れる時はとても慎重で優しい。ああそういえば、さっき誰かが髪を撫でてくれていた。もしやこの人の手だったか。

(寝る時に服を着ない主義の人なのかな。ガタイいいなぁ、羨ましい。僕のと全然ちが…………あれ? 僕もハダカ? なん……で………………?)

 そして、怒涛のように『昨夜』の記憶が蘇った。
 


   □  □  □



 人の世へ復帰を果たした悠真に、最初にもたらされた人としての自覚は『羞恥心』であった。別に鏡の中でも捨てていないつもりだったが、心に連動する身体がなく、現実味が失われてしまうのを止めることはできなかった。生身の血肉を得て、真の羞恥心とはこれだ! というものを、改めて新鮮な気持ちで味わわされている。
 いいことである。多分。
 よくないのはその後だ。
 寝惚けていた頭が晴れ、徐々に己の生を実感し、大泣きしてしまったのである。

 いやこれは仕方がない。涙の一滴も流せず、出られない恐怖に意識が向かわぬよう、ただ必死で暇を潰していたあの日々から、ようやく解放されたのだ。これが泣かずにいられようか。

(だからって、だからって、胸に縋りついて泣くとか! めちゃくちゃ恥ずかしいぃ~っ!)

『生きてる? ぼくは、生きてる? ほんとに?』
『ああ、大丈夫だ。おまえは生きている』

 子供のように泣きじゃくる悠真を抱きしめ、何度も言い聞かせてくれた。耳奥から身体中へ浸透してゆく低い声の安心感、大きな身体ですっぽり包み込み、頭を撫で続けてくれたあの温かさ。
 自分の鼓動と、彼の鼓動。

(気持ち良かった…………じゃなくて! そうじゃないだろ僕! 何やってんだよ!?)

 およそ一年ぶりの羞恥に悶える少年をシーツにくるまらせ、オスカーは平然と使用人を呼んだ。現われたのは執事と数人の召使い。全裸でベッドの上に居れば、昨夜ここでどういう行為があったのかなんてバレバレである。なのにオスカーの顔色は一ミリも変わらず、彫像のように立派な体躯を晒し、実に堂々としたものだった。
 これだから高位貴族ってやつは……悠真は遠い目になった。
 それとも身体に自信があるから晒しても平気なのか? 弾力のありそうな胸筋、理想的な丘陵を描く上腕二頭筋、しっかり割れた腹筋、なるほどどれもこれも確かに見応えはあり過ぎる。後から鑑賞料を請求されても文句を言えないレベルだ。

「ユウマだ。これからしばらく我が館に滞在する」
「かしこまりました。朝食はいかがなさいますか」
「テラスに。彼には消化に良いものを少量、私はいつものメニューで」

 簡潔に指示を出し、オスカーは悠真に目を向けた。

「ユウマ」
「はい!?」
「私は先に下りておく。おまえは湯あみをしてからゆっくり来い」
「は、はいっ」

 コクコク頷く。
 執事が深々と頭を下げた。

「それではユウマ様、のちほど改めてご挨拶いたします」
「は、い……」

 執事は召使いに指示を出し、きりりとした足取りで退室していった。指示を受けた者が主人の衣類を準備し、着衣を手伝い、短時間で身支度を整え、オスカーもまた実にあっさり部屋を出て行ってしまった。
 寝台の上でポカーンとしている悠真の前に、年かさの女性が一人、若い女性が二人、優雅に頭を下げる。

「家政婦のゾーイと申します。本日よりユウマ様の侍女として、このペトラとモナがお世話をさせていただきます」
「ペトラと申します。よろしくお願いいたします」
「モナと申します。よろしくお願いいたします」
「あっ、はい……」
「わたくしも一旦失礼させていただきますが、何か不都合がございましたら、この者達に何なりとお申しつけくださいませ」

 この世界で家政婦と呼ばれる職業は、悠真の中にあったお手伝いさんのイメージとは違い、女性使用人の統括者だ。侍女や侍従は貴人の専属お世話係であり、この国では侯爵以上の身分でなければいない専門職である。伯爵位のカリタス家ではその時々で付き従う者が変わり、慣れた面子が決まってきても、やはり侍女・侍従と呼びはしなかった。
 厳しい女性教師といった風情のゾーイは、四十代後半から五十代ほど。ペトラとモナはおそらく悠真より少し年上、二十代前半ぐらいと思われる。
 突然現われた悠真にいろいろ尋ねたいことがあるだろうに、彼女らはおくびにも出さない。使用人の質は仕える家の身分に比例すると聞くが、この館に勤める皆さんは間違いなくその道のプロフェッショナルであった。

 悠真は浴室に連れて行かれ、ペトラとモナに入浴の介助をしてもらう羽目になった。身分が高かろうと男性は子供でない限り自力でお風呂に入る文化でよかったと油断していたら、試練は時間差でやってきた。世話をしてもらっている身で贅沢な言い草だけれど、これは本当に恥ずかしくてたまらなかった。
 しかし実際、悠真の手足には一部の触覚しか戻っていない。咄嗟の反射神経はあてにならず、かろうじて歩ける程度の身で、一人きりの入浴は危険だった。
 一年ぶりに全身を湯にひたす感動が、恥ずかしさをだいぶ紛らわせてくれたのだけれど……湯上がりに身体を拭いてもらい、下着まで着せ付けてもらう試練は、とりあえず現実逃避で乗り切った。

(わ、着心地いい。明らかに僕のサイズだけど、この服どうしたんだろう?)

 とろける肌触りの上下は、ゆったりとした黒。レースはなく、随所に黒糸で刺繍が施され、光の加減で図柄が浮かびあがるようになっている。足首丈の黒いブーツも布製でやわらかく、締め付け感が全くない。

「お召し物に引きつれなどございませんか?」
「そんなことはないよ、すごく着やすい。あの、この服って」
「旦那様のご命令にて、当家の針子がお仕立ていたしました。布に余裕を持たせてお作りしておりますが、お直しをご希望でしたらお申し付けくださいませ」

 おおよその身長や体形などを聞き、多少の誤差があっても着られる工夫をして、わざわざ悠真のために仕立ててくれたらしい。
 こちらの服は一着作るのに何日もかかるのが当たり前。出られた後のことなんて考えもしなかった悠真と違い、成功させる自信のあったオスカーは最初からこれが必要になると見越し、何日も前から準備をしてくれていたのだ。
 感謝の気持ちと、何もかも任せきりで恐縮する気持ちと、積もる一方の恩をどうやって返せばいいのか途方に暮れる気持ちがいっぺんに押し寄せ、頭がパンクしそうだ。

(と、とにかく、まずは自力で歩いて、自力でお風呂に入れるようになるのが先決だな、うん)

 ところで、ミシェルの時は黒なんて一度も着なかったのに、久々に袖を通した黒い服は思いのほかしっくりときた。
 よくよく思い返せば、元の世界の私服は上下のどちらかが必ず黒。何を組み合わせてもそこそこサマになる黒最高、なんて思っていたものである。
 外見がミシェルだった時は、ピンクブラウンにふりふり花柄レースの上下でも抵抗感がなかった。第三者視点で、ミシェルには普通に似合っていたから。

 ペトラとモナに支えてもらいながら、ゆっくり急いでテラスに向かった。それにしても、カリタスの王都邸とは比較にならない建物だ。お館というより、もう城と呼んで差し支えない規模ではないか。
 
「ユウマ様。お疲れでしたら、お部屋へお戻りになりますか?」
「旦那様にお伝えいたしましょうか」
「ううん、ペトラ、モニカ、ありがとう。テラスに行くよ。ちゃんと歩くのが久しぶりで、疲れるけれど、嬉しいんだ。でも、二人に体重かけてしまって、ごめんね」

 強がりではなく本心からの笑顔で言えば、彼女達は心配しつつも「いいえ」と引き下がってくれた。
 実際、自分の足でこの館を歩くのは楽しかった。古風でどっしりとした造りの建物内を歩いていると、城の観光をしている気分になる。
 食堂よりテラスのほうが近いと二人に教えてもらい、体調を気遣ってくれたのかなと、申し訳なさと同時に嬉しくなった。数歩進むだけでもよろけて、自分の身体はこんなに重かったのかと不便さを噛みしめつつ、生きていると実感する。

(テラスって好きなんだよね。この館のはどんなのだろう)

 階段を下り、少し進んだところにそれはあった。寝室からの距離は本当に短かったけれど、悠真にはとても長く感じた。その長ささえ楽しみながら。

「うわぁ、すごい」

 視界に飛び込んだのは雪景色。そこにガラスがあると最初は気付かず、日本画を想起させる庭の景色に息を呑んだ。
 枝葉の黒と、雪の白。こんなにたくさん降っているとは思わなかった。
 圧倒されるほど美しい絵画の前に、あの人がいた。
 背景の世界へとけこみそうな灰の髪。悠真の声が届いたのだろう、髪色と同じ長いまつ毛の中から、よく似た色合いの双眸がこちらを見た。

「…………ぁ」

 どくり。
 胸の奥で変な音が鳴った。

 熱い。冷ややかな色なのに、あの視線が自分を捉えていると思うだけで、瞬時に全身が焼けそうになる。
 胎内の深いところに送り込まれた強烈な熱の記憶が蘇り、顔がどんどん熱くなる。

(ぁ…………どうしよう……)

 動けない。震えがくる。
 自分は昨夜、この人に、抱かれたのだ……。


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